第9話


「兄貴、これ。血の臭いだ……」

 進むにつれ、はっきりとしてきた異臭。守谷は愕然と河崎の背に呟く。ここに血の流れた形跡はない。薄暗い地下への廊下は古い血痕すらない。

「そのようだな」

 だが、ここまで鮮明に漂う血臭が。知らず河崎は拳を握る。己の手の平に汗を感じた。

 長くはない廊下だった。地下というわりに階段ではなく、スロープになっている。そのせいか、臭いのせいか。いつまで経ってもたどり着かないような不安感。それも終わる。通路の奥、扉があった。そして血の臭いは確実にそこから漏れ出ている。振り返った河崎は守谷の姿を認め、一度うなずく。よいか、と尋ねるような覚悟を決めるような。

 人の気配を探り、いまは感じられないと見定めた河崎は細く扉を開けた。そちらにも明かりはついているらしい。煌々と照っているわけではないが中の様子くらいならば充分に見て取れた。広くはない室内だった。奥に見えたものに河崎は訝しげに眉根を寄せる。

 ――ガネーシャ像?

 確か上のカフェにもこの手の絵画や像があった。ここにもあったとて不思議はない、そのはず。けれど、なぜかはわからず。吐き気を催すかのような感覚。恐怖、と知った。

 それは、確かにガネーシャ像にも似てはいた。象頭を持つふくよかな人間の胴体という意味においてだけは。それ以外は似ても似つかない。ここからではまだ距離があって定かではないというのに河崎ははっきりとそれを感じていた。

 ――兄貴。

 声にならない守谷の声が河崎の注意を引く。はっとして室内を改めて観察すれば、なぜわからなかったのかと臍を噛むほどの人影。あのスーツの男たちに間違いない。

「何人います?」

「ここからでは、二人」

 それだけとは意外だ、守谷の驚きが伝わってくるがいないのならば幸いだ。そう河崎が感じたとき、不意に声が響いた。一瞬は発見されたかと体が強張る。だが、違った。男たちの低く轟く響き。

 ――祈り? 詠唱というやつ、なのか?

 なんだこれは。呆気にとられていた。マフィアが祈るな、とは言わないがそのために地下室とは。河崎の脳裏に蘇るのは部下が巻き込まれたらしきカルトのテロ事件。

 ――嫌な予感がする。

 内心に呟いたとき、河崎は危うく声を出すところだった。硬直した彼を案じたか守谷が体を寄せてくる。そして彼もまた室内を見た。二人同時に見てしまった。

 奥にある象頭の像が動いたような気がしはしないか。守谷は知らず河崎の袖を握り締めていた。目の惑いと思い込みたい。しかし、息を詰め見据えるうちに気のせいではないことを知らざるを得ない。二人が覗き見るうちにも像は動き出し、ゆるゆると台座から下りるではないか。

「着ぐるみ……ですかね?」

「には、見えないな」

 囁きかわし、まだ二人は動けない。扉が開いていると男たちは気づいていないのか、それとも祈りに夢中なのか。いまここで背中を向けて逃走を選べば何事もなく逃げられる。

 ――馬鹿か俺は。

 一瞬にも満たない間であれ、そのようなことを考えた己を恥じる。河崎は唇を噛み締め、突入の機会を探っていた。あるいは男たちの狂気じみた祈りの声に飲まれていたのかもしれない。立て直すべきであった。そして本来の河崎ならばそちらを選択しただろうに。

 その機会が失われたのは明白だった。高まる祈りの声、動き出した像。その前に転げ出てきた人影。はっと二人同時に息。飲む。

 ――学生か!

 半ば意識を失っているのか、身動きはしない。男たちに突き飛ばされたまま床に転がる。もぞり、手指の先だけが動いてまだ生きているのだと知らせた。

「兄貴」

 囁く守谷に河崎は返答をしない。その前に扉を蹴り開け飛び込んでいた。動き出した像のまるで触手のような鼻が学生に伸ばされたとあっては。あれに触れさせてはならない、本能が理解していた。

「ナニもの!?」

 低くはあれど滑らかだった詠唱と打って変わった歪んだ声音。男たちがざっと二人を見る。悔やまないでもなかった、守谷は。隙間からは二人しか見えなかった男たち、案外と広かった室内。最低でも八人ほどが見て取れた。そして血臭の源。壁際に積まれた数多の死体。凝結した血と肉の腐敗臭に息が詰まった。

 ――まずい。

 河崎が銃で武装しているとはいえ、こちらは二人だ。対応を考える暇はしかしない。意識を取り戻したのだろう学生の悲痛な声が響き、すぐさまくぐもる。何が起きたか、見やったその情景に守谷は吐き気がこらえきれそうにない。込み上げてきたものを必死で飲み下せば河崎も似たようなことをしていた。

 室内に飛び込んで、ようやくに像をはっきりと見た二人だった。象頭らしく大きく張った耳にはうねうねと這う血管が浮き出ていると見え、それらが悍ましい触肢と知る。断じて既知の生物をモチーフにした像ではない。

 ――動いてる時点でおかしいがな。

 河崎の口許が皮肉に歪んだ。自分がいま、この目で見ているものが信じられない。長い鼻は象のもの。だが象の鼻にあのような器官はない。朝顔の花のようぽかんと開いた鼻の先端、吸盤状のそれが生贄とされた学生の頭をすっぽりと包み込み蠢く。

「吸ってる……」

 生き血を吸うのか、違うのか。判然としないながらも何かは吸われている生贄の肉体、びくりびくりと痙攣していた。ふたたびぞっとするような悲鳴が。それをかき消す河崎の銃声。二人が棒立ちになっていたのは一瞬のこと。河崎が威嚇射撃なしで発砲するまでほんの一呼吸だったはず。

「オロかナ」

 嘲笑う男たちが手に閃かせたときには長いナイフが。守谷もすでに抜いている。それでも、間に合わなかった。生贄はゆっくりと床にくずおれる。

 ――まだ生きてる!

 守谷の目は学生の呼吸する胸を見た。浅く止まりがちなそれ。けれどまだ生きている。

「慶太!」

 励ましだったのか、止められたのか。守谷にはわからなかった。一動作で学生のところまで走り込む。その前に立ちはだかる男を躊躇なく河崎は撃った。飛び散る赤い血液に像が揺らめく。歓喜のように見えた。

「なんだ、こいつら――」

 撃たれた男の顔にもまた、喜びが浮かんでいた。死んではいない。殺す気ではあった河崎の、けれど射撃が急所を外しただけ。そして男は像に向かって這い寄る。その隙をついて守谷がなんとか学生を引きずり床を滑らせる。ひどく軽くて、いとも簡単に滑っていく学生の体。

 ――ダメかもしれない。

 唇を噛んだ守谷の脇、鼻のような触手が伸びる。

「慶太、避けろ!」

 咄嗟に飛び退き、たたらを踏む。鼻は守谷の横を通り過ぎ、河崎が撃った男へと。黙って眺めているだけではなかった、河崎も。学生の体を確保し扉の側へ。襲いかかってくる男たちに繰り返し発砲し。短い間に様々なことが一度に起きた。注視していなかったのは幸いだったのかもしれない。

「ぐ……う、ぅ……っ」

 守谷が、吐いていた。立ち止まってしまった足に男が襲いかかる。乾いた音がして守谷の眼前で頭が弾け仰け反った。そのまま倒れる男にまたも伸びる鼻。先ほどの男を放り出したときには恍惚の表情のまま生き絶えた体が。

「なんだよこれ! なんなんだよ――っ」

 悲鳴じみた守谷の絶叫。撤退の判断ができなかった己を悔いる間もなく河崎は撃ち続け、守谷はナイフを振るう。狂乱しなからも守谷の動きは鋭かった。

 河崎の脳裏に森林公園のテロ、部下が追っていたカルトの記憶が。それが否応なしに悟らせる。像は、男たちの神なる存在なのだろう。認めたくなどないが、守谷こそを狙う男たちの振る舞いからしてそうとしか思えない。より像に近い守谷を排除にかかっているのだと思えば。撃ち尽くした銃を再装填、河崎は視線を切ることなく室内すべてを視界に入れていた。ゆえに、見た。

「慶太――!」

 信者の味に飽いたか、像の鼻が守谷へと。ナイフを振るい男たちと対峙する守谷は一瞬遅れた。そこに河崎の銃弾。二度とはできない正確な射撃は像の鼻を弾き飛ばす。

「な……」

 唖然とした。生身であれば銃撃に傷を負わないはずはない。しかし河崎にはそれが見えなかった。当たればよしとばかり連射する己の浅い呼吸。像は傷ひとつ負わず健在、まるで嘲笑うかのように。その瞬間を突かれた。飛びかかってくる男を捌ききれない。守谷は更に。彼は悍ましく開いた鼻の先端、その吸盤を目の前で見た。掴みかかってきた男たちの腕を振りほどくこともできないうちに。

「慶太――ァ!」

 守谷の耳にくぐもった河崎の声。申し訳ない、そう感じていた。ここで死ねばどれほど河崎の後悔が強いかと。

 だがしかし、守谷は死ななかった。捕えられ、武装解除され。二人は地下にいた。生きていた。いまは動きを止めた像の台座の下、守谷がいる。

「兄、貴……」

 声にならない笑い声をあげた守谷から河崎は目をそらさない。噛み締めた唇からはとっくに血がこぼれ、乾き、またこぼれ。

 守谷は様変わりしていた。捕えられてから数日は経ったか。相楽が侵入は知っている。救出はまだか、考えていたのは初日だけ。夜だろう、再び動き出した像は守谷だけを抱きしめ鼻で巻き締め。そして吸盤が彼の顔に張り付く。もがく守谷など物ともせず。それを河崎は見せられた。縛られ男たちが周囲を囲み嘲笑う。守谷から吸盤が外れたとき、男たちの笑い声が高くなった。

 そこにいたのは、異様に耳の大きくなった守谷。くっきりと見える血管があたかも像に似る。その鼻も、長く垂れ。守谷の手が上がり、我と我が顔を探る。せめて何かを。動こうとした河崎の喉元に男たちのナイフが突きつけられ、薄く皮膚を剥がれ。

「ひは……はは、なんだコレなんだよコレ。俺、俺――ふは、はははは。はは。――ひぃあぁぁぁあああ」

 狂った守谷の叫びに男たちの笑い声。手を叩き喜びに狂う。毎晩毎夜繰り返される忌まわしい吸引。そのたびに守谷は像へと似ていく。狂うこともできない河崎の前で。

「ソろそろダな」

 今夜もまた。守谷の目に光はなくなった。それでも河崎にナイフが突きつけられるときだけ、守谷は正気に返る。潰れた喉から吐き出された悲鳴に男たちの満足げな顔。振り仰いだ河崎の口許は血に汚れたまま。その髪が掴まれ、喉を晒された。

「贄トなるがイい」

 言い様に振りかぶられたナイフ。河崎は抵抗できない、そう侮った大振りの一撃。

「アに、ぎぃ――っ」

 守谷の苦痛こそ彼らが欲するものなのか。うっとりとした表情の男たちが凍りつく。

 河崎の首を狙ったナイフの刃。河崎はあえて顔で受けた。確実な死よりはまだしもと。滑り込んできた鋭い刃に灼熱を感じた。一瞬視界が真っ赤に染まり、すぐ片目は見えなくなる。

「貴様!?」

 引かれたナイフと共にずるりと抜けていく己の眼球。河崎の残った片目は見てもいない。男たちの隙を突いて縛られたまま守谷へと飛びかかった。

「すまん、慶太」

 自分のせいだ。せめて殺してやる。真っ直ぐと捉えた守谷の目。気のせいかもしれない。だが、この瞬間だけ澄んでいた。閉ざされた瞼。

 河崎は守谷の頸動脈を食いちぎっていた。

 噴き出す鮮血を頭から浴び、その頭上。邪なる神の満足げな哄笑を聞いた気がした。

 目覚めるとは、夢にも思わなかった。のたりと体を起こせば軋む。暗さを覚えて片手を顔へ。指先に触れたのは包帯。手当てはされ、だが。

「どういうことだ。何が、あった――」

 地下室は静寂。男たちは誰ひとりいない。像も台座すらも。まして守谷など。床に点々と残る血痕だけが彼のいた証。否。河崎はなんとか体を引き上げ、落ちていたものを手に。守谷のライターが手の中に冷たかった。




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