第8話
応急手当ての道具を片付けつつ思いを振り切るよう首を振る。肌に粘りついた恐怖の臭いは薄れもしなかった。
「腹減っただろう、慶太」
「そうですね。何か調達してきましょうか」
「いや、俺が行こう。――心配するな、下のコンビニだ。悪いな、うまいメシじゃなくて」
「全部片付いたら奢ってください。焼肉がいいな」
「任せろ」
にっと笑って河崎はホテル一階のコンビニへと。部屋に守谷が一人になる。本当ならば、あってはならない。自分と彼の立ち位置が違う。それでも河崎はあえてそうした。室内ならば安全だと、確信はないが外に出るよりはよいだろう。
――すまん、慶太。
本人がいくら掠り傷と言っても協力させたからこそ怪我をさせた。忸怩たるものがある河崎の表情は硬く足取りも重い。
「たいしたものないぞ」
そう言って河崎が部屋に戻ったのはすぐだった。自分の身の安全も守らねばならないが守谷を一人きりにしておいて部屋に襲撃を受けたらたまらない。守谷は河崎の身こそ心配していたのか戻ればほっと笑みが浮かんだ。
「やった、俺。ツナおにぎり好きなんですよ」
喜んで手を伸ばす守谷の屈託のない表情に河崎は軽く笑みを浮かべた。そう笑顔を作った守谷と気づいている。なんとか励まそう、自分も努力しようとする守谷に応えねばならない、内心に拳を握った。
「ツナ苦手なんだよなぁ。お前が好きでよかったわ」
「なんだ、兄貴。梅干しとか。うっわ、親父くせぇ」
「うるせぇ、親父なんだよ」
ふん、と鼻を鳴らしておにぎりにかぶりつく。米の飯はいいものだ、ふとそんなことを思い河崎はくつくつと笑っていた。
「兄貴?」
「米の飯ってのはいいな、と思ってた。なんかやる気が出るだろう」
「それほんとに親父の発言ですから」
「しょうがねぇだろうが」
言い合いつつ手早く食事を済ませた。あれで終わりとは二人共が感じていない。守谷は帰るとは言わなかったし、河崎も帰れとは言わなかった。
「これも嬉しいなぁ」
子供のように目を細めて守谷はペットボトルのコーヒーを口にしている。見るからに甘そうで河崎はいままで買ったことがない。が、学生街のカフェであのような甘いものを飲んでいた守谷ならば、と思ったのが正解だった様子。
「病気んなるぞ、お前」
「買ってくれたの兄貴じゃないですか」
「好きだろ?」
にっと笑う河崎に嬉しげな守谷。たかだかこの程度のことを喜ぶ彼だった。守谷の生い立ちを思う。親からも教師からも見捨てられないがしろにされてきた守谷にとって自分は本当に兄のようなものなのだろう。
――お前だけは。
何があっても部下のようなことにはさせない。部下に何があったか判然としなくとも。無事にすべてを終わらせる。硬く握った河崎の手、爪が白くなっていた。
そんな自分に小さく笑い、河崎は煙草に火をつける。否、つけようとしたのだがライターが見当たらない。もしかしたら先ほどの襲撃で落としたのかもしれなかった。舌打ちをする彼を笑いつつ守谷が自分のライターに火を灯し差し出す。
「おう」
悪いな、と身をかがめて火をつけた。つられるように守谷もまた。立ち上る紫煙が二筋。手の中でライターをもてあそぶ守谷がふと顔を顰めた。
「痛むか?」
「多少は。引き攣れるような感じはしますけど、まぁ大丈夫ですよ」
「無理するなよ」
「わかってます」
微笑みながら言うものだから信じられたものではない。いざとなれば守谷は無理をするだろう。ならば無茶をさせないのが当面の仕事か。河崎はかすかに微笑んでいた。
「お前とこうやって煙草吸ってるのも妙なもんだな」
「なんです急に」
「未成年が煙草なんか吸ってんじゃねぇって言ってたからな」
「また古い話を持ち出して」
呆れて見せるも守谷の目が笑っていた。懐かしい話と感じているに違いない。照れくさげにライターをこんこんとテーブルの角に打ち付けては遊んでいた。薄暗いホテルの照明に鈍い銀のライターが照る。時折彼の頭文字を刻んだ部分が見えた。
先ほどの襲撃は、何者なのか。三合会系の連中だとは、わかっている。二人はこうして落ち着いた部屋にいながら寒気を感じていた。語り合えば語り合うほど、人間だったとは思えない。
「身長だとかハゲ頭だとか。なんかそういうんじゃないんですよ」
「わかる。あれは……なんだったのか……」
「本当に人間だったのか、とか言うと馬鹿みたいですよね」
「俺なんざリトルグレイかと思ったぞ」
「なんでしたっけ? あれか、NASAが隠してる宇宙人とかのトンデモ話」
「それだ」
それくらい、人間とは思えなかった男たち。ざわざわと、体の中が落ち着かない。逃げ出したいとは違う、立ち向かいたいわけでもない。これをなんと名付ければいいのか河崎にはわからなかった。
守谷がもう一本、煙草に火をつけたとき、河崎のスマホに着信が入った。見れば相楽からのもの。即座に出た河崎に守谷は耳を澄ましかけ、席を外せとは言わなかった河崎に目顔で問えば聞いていろ、と返ってきた。
「いま大丈夫ですか」
「問題ない。何かわかったか」
「例のコーヒー屋、ブラックロータスの地下にあるはずのない地下室を発見しました」
「……おい」
この仕事の速さは登記所にハッキングでも仕掛けたか。案の定相楽は不動産登記を当たりました、と楽しげ。
「最近は電子化されてるから楽なもんです」
「お前なぁ。まぁ、助かるが。デュープロセスは忘れてくれるなよ」
公安は適正手続きを放棄する、警察内でもよく言われることだった。手続き無視で集めた証拠は証拠能力がない。公安が嫌われる要因のひとつにもなっている。もっとも、適正な証拠確保のための前段階としての不法行為、は河崎も気に留めない。事件を起こさせない、あるいは早急に止めるためならば手段は問わないのが公安でもあった。
「見逃してください。問題はその地下でして。監視カメラにも潜ってみたんですが」
さっと河崎の顔色が変わった。守谷は傍らでそれを見て気を引き締める。体に血液が循環し肉体が即応状態へと変化するのを如実に感じもする。
相楽は言う。監視カメラに三合会系の連中が映っていると。そして、その男たちは学生と思しき青年を連れていたと。
「どうも意識がないような感じでしたね。薬物でしょう、あれは」
「そう、か」
「カメラの映像は三日前なので――」
いま地下に乗り込んで益があるとは思えない、相楽は言うが。
「こっちも報告がある」
「……何かありましたか」
「襲撃された」
「は?」
相楽のきょとんとした顔が見えるようで河崎はつい笑う。それで幾分なりとも気が楽になった。協力者と共にいるところを襲われた経緯と結果とを告げれば向こうの硬い気配。黙り込んだ相楽に河崎は内心に首をかしげる。珍しいことだった。
「こうなると……」
「うん?」
「地下室、怪しいですね」
なんらかの不法行為のための溜まり場、と相楽は地下室について考えていたのだろう。いまだ彼にも学生がなぜ狙われているのかわかっていない様子。
「薬物はすぐ廃人で意味、というか利益が少ない。臓器密売はたぶんないです。だったら……やつらは、そこで何をしてる……?」
河崎に言うというよりは独語の体。低い小声に河崎は耳をかたむけ続けた。聞くにつれて、決意が固くなる。
「いいか?」
「あ、はい。すみません。なんです?」
「乗り込んでみようと思う」
一瞬、息を飲んだような音がした。反対されるだろうと思った通り相楽は強固に反対する。意地になったわけではない。だがここまで来たならば乗り込むべきだとの思いも強くなる。
「もう。俺にデュープロセスとか言ったのに」
文句を言いつつ相楽が笑ったのが聞こえた。くすりと笑い返し河崎は地下室に乗り込む、改めて相楽に告げた。
「――聞いての通りだ」
通話を切った河崎の目の前、守谷がにっと笑っている。それを見ては一人で行くとは言えなかった。隠れてでもついて行く、そんな守谷に肩をすくめ河崎は手を差し出す。一瞬驚いた顔をした守谷だったけれどついで破顔し、ぱん、と手を合わせた。
その守谷は目をみはって河崎の手元を見ていた。出張用の大きめの鞄を開け、ごそごそといじっていたかと思えば中から現れたのは拳銃。
「兄貴」
よもや持ち出しているとは、驚く守谷に河崎は苦笑する。街中で装備するのは気が咎めていたけれど、危険が予測される土地への出張だった。許可を得ていないはずもない。
――むしろ、さっき持ってればな。
発砲したかどうかは、自分でもわからない。が、なんらかの突破口になった可能性はあると思えば悔いる河崎だった。
守谷もまたナイフを確かめ懐に収める。鋭いそれは警察に見咎められたならば現行犯逮捕は確実だ。だが先ほど同様、河崎は何も言わない。それだけ彼も危険を感じているのだと守谷も思う。腹の底が冷えるような感覚は久しぶりだった。
「行くぞ」
脇に吊ったホルスターに銃を収めた河崎の表情、硬く引き締まったそれに守谷は黙ってうなずいた。
そして深夜、二人はカフェ・ブラックロータスの裏口にいた。監視カメラはすでに相楽が制御を取っている。映る心配はまったくない。
「鍵、閉まってるんじゃ?」
この辺りには酒を出す店がない。おかげで人通りはほとんどないに等しい。それでも小声になりつつ守谷は言う。
「閉まってるだろうな」
にやりとした河崎だった。内ポケットから彼は細い工具を取り出し、鍵へと向かう。万が一にも人目に触れないよう、と守谷が体で視線を遮っていた。ほどなくかちり、と音がして鍵は開く。
「ピッキング工具持ち歩いてるなんて、ほんとどっちが犯罪者なんだか」
呆れて見せる守谷に再び唇で笑い、河崎は店内へと。すぐさま守谷も続いた。深夜のカフェはそうあるべくして静か。表通りに面したガラス戸から射し込む街灯の光。影に隠れて二人は忍ぶ。
「ここだな」
相楽の調査通り、地下への扉があった。厨房とカウンターの間の狭い場所、あると知らねば気づくことはないだろう。河崎は守谷の目を見る。真っ直ぐな彼の目に小さくうなずき、河崎は扉を開けた。
途端にむっと鼻をつく酷い臭い。仮にも飲食店のそれではない。よくぞ漏れ出ていなかったものだ。
「コーヒーの匂いか」
「だとしたら、ものすごい計画的ですよね」
「だな」
はじめから、これを想定していたなど考えたくもない。が、河崎にはそうであったとしか思えなくなりつつあった。もし、そうだとしたのならば。脳裏に巡る思いに寒気が止まらない。酷いもの、最悪の所業。公安警察官を務めるうちに見慣れた、と思っていたはずが。
「大丈夫か、慶太」
「……あんま大丈夫な気がしません」
「そりゃよかった。俺もだよ」
囁きかわすのは、そうとでもしなければ進む気力すら失いかねない自分たちと知るせい。互いにうなずき合い、足を進める。一歩一歩が重たかった。
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