毎日小説No.38 妖精の世界

五月雨前線

1話完結


「博士、こんなことをして許されると思ってるんですか!」


「黙れ! あと一歩で新しい技術が完成する重要な局面なんだ! 口を挟むな!」


「しかし……!」


「もしこの技術が完成すれば、莫大な利益が転がり込んで来るんだ。先月次女が生まれたばかりで金が欲しいだろう? おとなしく指示に従っていればいいんだよ」


「くっ……!」


「戯言は程々にして、そろそろ仕事を再開するぞ。もう一度デバック作業を行うんだ」


***


 記憶が曖昧だ。


 この世界に来る前の記憶が、日に日に薄れていく。徐々に思い出せなくなり、やがて過去の記憶に意識を向けることはなくなった。


 この世界はとても美しい。見渡す限りの緑あふれる大地、その大地に生きる数多の生命。ここには人間の世界に渦巻いていた負の感情も、戦争も、嫌なものは何一つ存在しない。


 代わりに存在するのは妖精だ。この世界には沢山の妖精が存在し、互いに手と手を取り合って平和に生活している。


 妖精には何種類もの種類がある。火を司る妖精『イア』、水を司る妖精『クア』、大地を司る妖精『ガイ』、空を司る妖精『サカ』……挙げればキリがない。そんな妖精だらけの世界で、私は妖精の仲間として悠々自適な生活を送っていた。


 この世界においての私の名前はシマ。人間の時の名前はすっかり忘れてしまったし、思い出したくもない。今や私は妖精シマなのだ。


 午前中、妖精の友達といっぱい遊んで遊び疲れていた私は、草が生い茂る原っぱに大の字になって寝転んでいた。陽の光を浴びてよく育った草の匂いが鼻腔をくすぐり、心地いい感覚に浸る。視界の先に広がる空は雲ひとつない快晴で、一面に広がる青の中でドラゴンや妖精が気持ちよさそうに遊泳している。


 ああ、なんて心地いいんだろう。


「また空を観察していたのかい?」


 聞き馴染みのある穏やかな声。仲良しの妖精であるリークが遊びに来たようだ。最近リークはよく私のところに来てくれる。それが私にとっては何よりも嬉しいことだった。


 うん、そうだよ。こうやってのんびり空を眺めるの、好きなんだ。


 言葉を頭の中で唱えると、次の瞬間にはリークの耳に届いている。先程の言葉もリークが口に出して発したわけではなく、リークが頭の中で唱えた言葉が直接私の耳に届いているのだ。これがこの世界のコミュニケーションの取り方である。それ故、この世界はいつも静かだ。


「見たこともない妖精やドラゴンが沢山見られるから、嬉しいよね」


 リークはそう言って私のすぐ横に寝転んだ。


 至近距離で見ると、改めてリークの美貌ぶりに目を引かれる。人間の時の記憶はほぼ消えているはずなのに、リークを見ると『イケメン』という4文字の単語が頭に浮かび、同時に胸の辺りがほのかに熱を帯び始める。


 ああ、私って、女だったんだな。


 リークに会うたびに、人間の時の記憶の断片が呼び起こされ、その度に私はそれを必死に記憶の隅に追いやろうとする。リークに会えるのはこの上なく嬉しいが、記憶が呼び起こされるのは少し嫌だ。


「? どうしたの? しかめた顔して」


 ああいや、なんでもないよ。ちょっと嫌なこと思い出しちゃって。


「そっか。あ、この話聞いたことある? イア族の妖精達がこの前、シャングリ山脈に冒険に行ったらしいんだけどね……」


 始まった。リークのお喋りタイムだ。リークは世界中の様々な場所を定期的に冒険しているらしく、各地で起きた事件や出来事についての話のタネを幾らでも持っている。その楽しい話を聞いている時間が、私にとって一番幸せだった。


 ああ、この時間がいつまでも続けばいいのに……。


 リークの言葉に耳を傾けながら、私は心の奥底でそう思っていた。



***

「は、博士! 何をしているんですか!」


「見たら分かるだろう。不要になったサンプルを処分する用意をしてるんだ。君も手伝いたまえ」


「そんな……! 実験を受ける人間の健康を保証する、と最初に誓約書を書いていたはずです!」


「そんなルールを守っていたら踏み込んだ研究が出来ないことくらい、君も分かっているだろう。ネオVR空間の実現には至らなかったが、貴重なデータを大量に入手出来た。それで充分じゃないか」


「こ、この方をこれからどうするつもりですか!」


「息の根を止めて死体を廃棄する。万が一、警察に嗅ぎつけられては困るからね」


「……もういいです。貴方が、貴方達がやっていることは犯罪です! 警察に訴えますからね!」


「はいはい」


「……ぐっ……!」


「当たりどころが悪かったか。では脳幹を撃ち抜いて楽にしてやろう」


「がはっ……」


「全く、研究所内で拳銃を使わせるなよ。おい、この死体を処分しておいてくれ。サンプルの処理もぬかりなくやってくれよ。これから極めて大事な時期になるからな」



***

 暗い。寒い。冷たい。怖い。


 ほぼ消えかかった意識が漆黒の水の中を揺蕩っている。


「……マ。……り……て」


 あれ、魚? ということは、私は今海の中にいるってこと?


「……マ! ……かりして!」


 一体何が起きているんだろう……何が……。


「エマ! しっかりして!」


「ごぼっ!?」


 間違いない、リークの声だ。思わず叫ぼうとしたところで海水が口の中から入り込み、私は盛大にむせた。


「落ち着いて、酸素の膜を貼るから。ゆっくり、ゆっくり息を吸うんだ」


 暗い海の底で、リークの声はしっかりと私の頭に届いてくる。リークの声に従い、私はゆっくり呼吸を繰り返した。海水を吸い込んだことによる苦しさが徐々に消えていく。


「よし、呼吸が出来るようになったね。じゃあ水面に浮上しよう」


 リークの言葉とともに、身体中が浮き上がっていく感覚に包まれる。その中で私は気付いた。



 ……私、もう妖精じゃない。人間になってる。


***

「えっと……確認すると、私は島田しまだ梨花りかという人間だった。ホームレスだった私は悪徳研究者に依頼されて研究の実験台になった。VR空間に関する研究の実験台になった私は、実験の一環として『妖精の世界』という仮想空間に没入していた」


「うんうん」


「しかし、新たなVR空間、『ネオVR空間』の技術には法律で許可されていない、使用者の身体を破壊しかねない危険な周波数が使われており、実験台だった私も深い傷を負ってしまった。研究者は、法律を破って研究をしていた事実を隠蔽するために私を殺して海に沈めた……これで合ってるよね?」


「合ってるよ!」


 リークに海から引き上げてもらった私は、浜辺の近くの人気のない場所に腰を下ろしていた。肌色の自身の四肢を目にして、再び人間になってしまったことを実感する。


「……それで、なんで私は生きてるの?」


「僕が助けたから」


「な、なんでリークがここにいるの? だって、その、ここは現実世界でしょ? リークがいる妖精の世界は、VRの中の仮想空間のお話であって、だから今目の前にリークがいるのは……」


「そういう理屈を超越して、僕は今この世界にいるんだ。僕の話を聞いて、自分をゴミ同然のように扱った研究者が憎いと感じただろう? 復讐したいと思っただろう? その強い気持ちが、奇跡を起こして僕が顕現したんだよ」


「…………!」


 憎い。復讐。確かにそうだ。幾ら私がホームレスだったからといって、命を不当に奪われる理由にはならない。


 むかついてきた。復讐だ。私を殺したあの研究者を、絶対に殺してやる。


「シマ、一緒に頑張ろうね。シマの復讐に僕は全力で協力するから」


 妖精の世界にいた頃の名前で呼ばれ、私は嬉しくなった。あれがVRで作られた虚構の世界だったとしても、私とリークの友情は不変だ。私達なら、どんなことでもきっと成し遂げられる。私はリークと拳を付き合わせ、復讐のための第一歩を踏み出したのだった。




***

「お客さん、物語に没入してますね。大丈夫なんでしょうか」


「ネオVRっていう技術が使われてるらしいぜ。その技術を使って、SF小説を読める時代が来るとはなぁ」


「あ! これ、鳴川死人の名作ファンタジーじゃないですか。いい本選んでるなぁ……。この本をVRで楽しめるなんて羨ましい」


「ほーん、これ、どういう話なんだ?」


「主人公が妖精の世界でリークという妖精に恋に落ちるんですけど、実はその妖精の世界は全部虚構の仮想空間だったんですよね。悪い研究者に騙されてその仮想空間の実験に参加した主人公は、最終的に研究者に殺されてしまうんですよ」


「ほうほう」


「海の底に沈められたはずの主人公なんですけど、なんと現実世界に妖精リークが現れて、主人公を救い出すんです。そして再開した2人の、悪い研究者への復讐が始まる……ってお話なんです」


「すげえ話だな」


「これで終わらないんですよ。その直後に主人公が仮想空間から目覚めるんです。妖精リークが現実に現れる……っていうのも虚構だったんですよ。それで、新たにここが現実かと思ったらまた仮想空間から目覚めて。目覚めて、新しい仮想空間に囚われて、また目覚めて……って、無限ループに突入してしまう、というバッドエンドなんです」


「ほう。……ということはさ、このお客さん、もしかしてその無限ループに入ってるんじゃねえの? 五日間くらい仮想空間から戻ってこないし、幾ら呼びかけても応答ないし」


「かもですね。こんな高度な技術で物語に没入しちゃうと、もう現実世界には戻ってこれないのかもしれません。『私は物語の主人公』とか本気で思ってそうですし」


「……報告するのめんどくさいし、放置でいいか」


「……ですね」


                         完

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