第4話 あんたなんか大っ嫌い
3年前、市内で出回った合法ドラッグ『チョコレート・アンダーグラウンド』は、一見するとただのチョコレートだった。
実際に、成分を分析してもチョコレートに必要な香料やリキュール成分以外は何も検出されない。
それにも関わらず、摂取すればドラッグと類似の作用を示し、依存性の強さや副作用から甚大な被害を出すという危険なシロモノだった。
『チョコレート・アンダーグラウンド』は一般的には幻覚系のドラッグの一種だと考えられており、摂取したときに見える幻覚が、常に『楽しい過去の思い出』だという点が変わっているといえば変わっていた。
普通のチョコレートよりもかなり小粒なそれを一粒口に含めば、脳裏には楽しかった思い出が溢れ、心は暖かい気持ちに満たされるという。
しかし、孤独感や疎外感に苛まれて大量にこのチョコレートを摂取すれば、重篤な記憶障害や精神疾患を患う可能性があった。
それはまるで、『楽しかった思い出』に心を囚われ、そこから一歩も動けなくなってしまった状態であるかのようであるという。
「やけに詳しいじゃねえか。風紀委員で取り締まりでもやったのか?……で、それと、お前がチョコレートを作るのと、どういう関係があるんだ?」
「……なんだっていいでしょ。今は時間がないんだから。余計なこと聞いて邪魔してくるなら、出てってよ」
半ば本当に出て行ってくれ、という気持ちでそう言うが、折尾はあっさりと
「なるほど。じゃあ、余計なことを聞かなければ、ここにいてもいいってことだな?」
「……そんなこと言ってないでしょ」
「確かに言ってない。でも、それでも強引に俺を追い出さないのはどうしてだ? 人手が欲しいからだろ?」
それは、本当だった。
しかし
「人手が欲しいのは本当。だけど、アンタみたいな素人がいたって、何の役にも立たないんだから。どうせテンパリングも知らないんでしょ?」
チョコレートづくりには繊細な温度管理が求められる。
チョコレートはほんの数度違うだけで結晶構造が変わり、六種類もの別の顔を見せる。
世間的にはただ湯煎で溶かして固めればいいように思われているチョコレートだが、表面に光沢のあるチョコレートを作るためには、50度に温めたチョコレートを一旦28度まで落とし、そこからゆっくりと32度付近まで上げて結晶構造を変化させる必要があり、その温度管理の工程をテンパリングと呼んだ。
初歩的な用語さえ知らないことを突きつければ、大人しくなるかと思って問いかけたのだが、折尾はニヤリと笑って
「あのな。俺だって水冷法やタブリール法くらいはやったことあるんだぜ?」
驚く。
水冷法はともかく、タブリール法は、大理石のテーブルにチョコレートを垂らして温度管理をする専門的なテンパリング技法だ。
ホワイトデーのお返しレベルでやるようなことではない。
しかし、折尾の言葉からは、珍しいくらいにチョコレートの味はしない。
千代子は、しばらく仏頂面をして考えていたが、観念したようにため息をつき、
「……じゃあ、手伝って。湯煎とテンパリング。でも、分量は全部あたしがやるから。余計なことしたら叩き出すからね」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
嘘の言葉はチョコレートの味がする。
一口にチョコレートとはいうものの、実際に千代子が感じるチョコレートの味は、嘘の種類や場面によって異なっていた。
単純な傾向としては、ふざけたような軽い嘘は甘さが強く、反面、真剣味の強い嘘は苦味が強い。
そのことからわかるのは、千代子が感じる味は、相手が隠している感情によって変化をする、ということだ。
ときにはフルーツの酸味を感じることもあれば、リキュールやハーブの豊かな香りが広がる場合もある。
それらひとつひとつがどういう感情を表しているのか、チョコレート嫌いの千代子には味わっている余裕などなかったが、味の違いが感情の違いを表していることを知って以来、千代子の頭からひとつの疑問が離れなくなった。
嘘の言葉はチョコレートの味がする。
では、嘘と同じ味のチョコレートを作ったなら、何が起こるのか。
疑問を抱いていた当時だって、千代子は決してチョコレートを食べるのが平気だったわけではない。
それでも、嘘の言葉を聞く度に口に広がるチョコレートの味を、智恵流が使っているような精密な調理器具を使って再現したならどうなるかという疑問は、千代子の中で大きくなっていった。
千代子はホールピペットを使って慎重にハーブの抽出液を測り取る。
ピペットは本来なら実験器具の類だが、ミリリットル単位での正確な分量を求める智恵流の仕事場には、そんな品がゴロゴロしていた。
電子天びん、フラスコ、蒸留装置、遠心分離器。
その隣では、折尾が大理石のテーブルに溶けたチョコレートを広げていた。
その手つきは、普段の下品で粗雑なイメージからは程遠く、かなり手馴れていることが見て取れた。
そうしていると、千代子は、昔に戻ったような錯覚に陥る。
中学生の頃。ふたりの同志とひとりの協力者を得て、チョコレートを作ったあの頃に。
嘘の味を再現したチョコレート。
そうして作られたチョコレートには、まるで人の感情を閉じ込めたかのように、豊かな感情を伝える作用を持っていた。
誰かを傷つけないための嘘、
切実な願望を込めた嘘、自分を誤魔化し続けるための嘘。
その裏側にある優しさや悲しみ、後悔。
ヤッコは今、楽しい思い出に囚われて一歩も動けない状態に陥っている。
けれど、昏睡状態が続いているうちは、本当に心が壊れてしまったわけではない。
今であれば。
今、強引にヤッコ自身の感情を取り戻させれば、ヤッコを救える可能性があるのだ。
だから、千代子はチョコレートを作っていた。
ヤッコの嘘を形にしたチョコレートを。
ヤッコ自身の心の形を。
それだけが、千代子の希望だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから、千代子は何度も挫けそうになりながら12回の試作を行い、そのたびに試作品を口に入れ、少しずつ味の修正をしていった。
チョコレートを口に含むたびに、ドロっと溶けていくような感触が全身に覆いかぶさってくるような錯覚に襲われ、背筋が凍りつく。
ココアの苦味。
砂糖の甘さ。
やがて、千代子はヤッコの嘘の奥に隠されていた、かすかなフランボワーズの香りと酸味に気がつく。
バラ科の低木で、弱々しいトゲで自らを守り続けるフランボワーズが、誰も傷つけない無難な言葉で自分を守り続けるヤッコと重なった。
心臓の鼓動が早まり、腹底から登ってきた圧迫感で息もできなくなる。
今すぐ吐き出して口の中を洗い流したい衝動に駆られる。
けれど、千代子はその衝動を押し殺して舌の上の感触を確かめ続けた。
ヤッコの嘘の味。
嘘で自分を守りながら、切実に救いを求めていたヤッコの気持ち。
朦朧とした意識の中で、千代子は様々なイメージを見た。
千代子との友人関係を問いつめられるヤッコの姿。
朝早く、誰もいない教室で泣きながら千代子の机を滅茶苦茶にしているヤッコの姿。
そして、『信じてたのに』と吐き捨てて教室を出て行った千代子自身の姿。
ごめんね、ヤッコ。
ごめん。
気づいてあげられなくて、ごめん。
信じてあげられなくて、ごめん。
それから、ごめん。あのチョコレートを作ったのはね……、
そこで千代子の意識は途切れた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
千代子がチョコレートを完成させた翌日、ヤッコは無事に目を覚ました。
重篤な後遺症はとくになく、検査が終わればすぐにでも退院できるそうで、担当した医師は奇跡だと語ったという。
話しておくのが筋だと思い、
千代子は折尾を屋上に繋がる階段のところに呼び出して事の顛末を語って聞かせた。
結局、ヤッコは、部活の先輩グループに命令されて、仕方なしにあんなことをしたらしかった。
そのグループには、抜き打ち検査てチョコレートを没収された者や、潰された誕生パーティーに参加していた者。
木途勝斗に好意を寄せていた者も混じっていた。
ありがとう、なんて口が裂けても言いたくはない、と千代子は思ったけれど、それでも言っておかなければいけないことはあった。
だから、
「アンタがいなかったら、あたしはヤッコを見捨ててた。それに……」
チョコレートが完成した後、折尾は嘘八百を並べ立てて病室に侵入し、誰にも見つからずにチョコレートの欠片をヤッコの口に含ませてきてくれたのだ。
自分ひとりだったら、真正直に事情を話して厄介なことになっていただろうな、と千代子は思う。
が、
「お。ちっとは、俺に感謝する気になったか?」
そんな風に偉そうに言われると、素直にハイとは頷けないものである。
「……感謝なんてしてないから! 調子に乗らないでよ。あんたみたいな嘘つきに助けられたなんて、副委員長の名がすたるわ」
千代子が唇を尖らせながら言うと、折尾は小さく肩を竦め、
「また素直じゃねえな。せっかく、お前のためを思って色々助けてやったのにさ」
「アンタは、単に面白がってただけじゃない!」
『狙われている』と忠告をしてきたときも、『真犯人は別にいる』と説得してきたときも、折尾の声からはチョコレートの味がした。
つまり、それほど真剣にそう思ってたわけでもなく、ただ、心に浮かんだ可能性を適当に撒き散らして楽しんでいただけなのだ。
ただ、それでも自分より真実に近いところにいたのは確かだった。
そうして、涼しげな口振りから、胃のムカムカするような嘘がペラペラと飛び出す。
「面白がって、ね。まあ、否定はできないかな。からかうと可愛いんだよお前」
まただ、と千代子は思った。
『お前のため』という言葉もからも『可愛い』という言葉からもはっきりとチョコレートの味がした。
しかも、そいつはとびきり甘くて繊細さの欠片もないやつだ。
どう考えてもふざけている。
もう限界だった。
ペラペラと吐き出される嘘と、こんな奴に助けられてしまったという屈辱が感情を爆発させる。
「いい加減にしなさいよ!」
叫んだ。
「あたしは、あんたなんか……」
――大っ嫌いなんだからね。
そう吐き捨てるはずの千代子の言葉はしかし、「だいっ……」と口に上った所で唐突に途切れてしまった。
瞬間的にカァッと頭が熱くなって、
千代子は居ても立っても居られなくなってその場から逃げ出した。
階段を降りた廊下のところで立ち止まり、壁に背をもたれかけさせて、乱れた呼吸を整える。
心臓は、驚くほど早鐘を打っていた。
――大っ嫌い
確かに千代子はそう思った。
そして正直にそれを告げようとした。
心の底から本音の本音。
そのはずだったのだ。
絶対にあり得ない、と千代子は何度も心で叫んだ。
なぜならば、
――あんたなんが大っ嫌い
そう告げようとした千代子が感じたのは、
甘くて苦い、チョコレートの味だった
了
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
お読み下さりありがとうございました。
短編バージョンはこちらで終了になります。
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チョコレート・テレパス〜あなたの嘘はチョコの味〜 我道瑞大 @carl
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