第3話 チョコレート・アンダーグラウンド

 どうしてやったのか、とは尋ねなかった。


 ただ、千代子はヤッコに向かって呪いの言葉を吐いた。


 ――信じてたのに。


 その一言でヤッコは石になった。

 そんな言葉くらいでショックを受けるなら、最初からやらなければいいのに。


 もう、怒りも憎しみもなく、ただ、その表情を確認して、千代子は教室を後にした。


 これで、また友達をなくしてしまった、と思った。


 小学校の頃から、ずっとそうだった。

 ある者には気味悪がられ、ある者には恨まれ、あるいは、自分から相手を見限る。


 人間なんて、多かれ少なかれみんなチョコレートの固まりなのだ。


 教室を出てからどれほど経ったか千代子にはわからなかったが、気がつけば屋上に続く階段の踊り場にうずくまっていた。


 一時間目が普通に行われたのかどうかは分からないが、もう、出ても出席にはならないくらいの時間が立っているはずだった。


 誰にともなく呟いた。


「どうせ、みんな嘘つきなのよ……」


 しかし、その言葉に、

 返らなくていい返事が返ってきた。


「犯人は、あの子じゃないぜ」

 折尾だった。


 再びチョコレートの味が喉元に這い上ってくる。

 正直、相手にするのも馬鹿馬鹿しいが、このまま無視をし続けるのも気持ちが悪かった。


 だから、

「何言ってるの? あたしはちゃんと確かめた。『自分はやってない』って言ったときのヤッコは確かに嘘をついてた」


 そう言う千代子に、しかし、折尾は馬鹿にするような皮肉げな笑みを浮かべる。


「なるほど。根拠は、お前の珍妙な能力だけってわけだな? まあ、確かにその力の効果は絶大だ。俺はいつもそれで嫌ってほど痛い目に遭わされてるからな。だけど、今回の場合、本当にそれは正しいかな?」


 何を言っているか分からなかった。


「おそらく、あの子は本当に机をメチャクチャにした。それは間違いない。お前が確かめたんだから当然だ。だけどな」


 そこで折尾は一度言葉を切り、


「その行動自体が誰かの指示だったら?」


 ――え


。そうだろ?」


 折尾の言葉からは、相変わらずチョコレートの味がする。


 それでも、

 

 真犯人が別にいる?


 そんなこと、千代子は考えもしていなかった。

 


 思う。

 ――信じてたのに、と自分は言った。

 それなのに、自分は理由を問うこともせずにヤッコが犯人だという事実だけに満足してその場を後にした。


 気づく。

 自分の質問に対して嘘の返答をしたその時に、自分はヤッコを見限ったのだ、と。

 

 自分は、自分の能力だけを信じ、友達を信じることをやめた大馬鹿モノなのだ。


 そしてそのとき、這い登ってきた後悔を切り裂くように、電話の音が響く。

 

 着信ボタンを押して携帯を耳に当てると、同じクラスの聡美だった。


「大変なの千代子! ヤッコが」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 千代子が教室に戻ると、救急車がヤッコを乗せて病院に向かう最中だった。


 千代子が教室から去った後、ヤッコは生徒指導の教員に呼ばれて事情聴取を受けることになったらしい。


 しかし、事情聴取を受ける前にトイレに入ったヤッコは、そのまま20分が経過しても出てこなかったという。


 怪しんだ教師たちが中に踏み込むと、床に倒れ込んだヤッコの姿と睡眠薬の空容器、そしてが落ちていたという。


 ――チョコレート?


 そこまで説明を受けて千代子の中に、ひとつの予感が芽生え始める。


「その包み紙、どんなだったか分かる?」


 常識で考えれば、ヤッコが倒れていたこととチョコレートの間に関係など何もない。


 しかし、千代子には、ひとつだけ心当たりがあった。


 その心当たりだって、絶対にあるはずがないと何度も頭のなかで打ち消すような、あり得ない可能性には違いないのだが。


 しかし、絶対にない、と思えば思うほど、予感は確信となって千代子の腹底から這い登ってくる。


 心を病んでしまった母。

 記憶を失った友人。


 そして、自ら命を断った……



 聡美が見せてくれたスマホの写真を見て確信する。


 もう、間違いなかった。


 大映しになったチョコレートの包み紙に書かれていたのは、CとUを組み合わせたシンプルなデザイン。


 それは三年前に合法ドラッグとして市内全域で出回ったチョコレート、『チョコレート・アンダーグラウンド』の包み紙だった。

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 千代子が向かったのは、自宅の、叔母とともに住むパティスリーの制作室だった。


 叔母の智恵流ちえるは海外にでかけていて今は家にいなかったし、店も連日休業の看板がかかっている。


 それが幸運だったのか、それとも最悪の展開だったのかは判断が難しいところだった。


 智恵流は、今は表舞台から身を退いているものの、元々は世界的に有名なパティシエだった。


 智恵流叔母さんがいてくれれば、と思う反面、彼女は絶対に自分にチョコレートを作らせてはくれないという確信もあった。


 引ったくるように扉を開けて、ひっくり返すように次々とお菓子作りの道具や材料を作業台に並べていく。

 湯煎用の鍋、

 ボウル、

 泡立て機、

 計量カップ、計量スプーン、耐熱皿。


「おいおい何してんだよ。病院に行くんじゃないのか? これからお菓子作りでもはじめようってのかよ?」


「そうよ」


「頭沸いてるんじゃないのか? 友達が病院に担ぎ込まれてるってときに、なんでチョコなんだよ」


 いつになく真剣な声だった。

 そこからは、カカオもミントもラム酒の匂いもしない。


 ――珍しいじゃない。アンタがまともなことを言うなんて。


 頭の端をそんな思考がよぎったが、結局、千代子はそれを口に出すことはしなかった。


 時間が惜しかった。

 千代子は現状を把握するのに必要な言葉だけを簡潔に述べる。


「ヤッコが倒れていたトイレには、睡眠薬の空容器に混じって大量のチョコレートの包み紙が落ちてたって言うでしょ?」


「だからどうしたっていうんだよ」


「あれがただ睡眠薬を飲んだだけっていうなら、あたしにできることなんて何もない。倒れていた本当の原因がなんだって、搬送先の病院で処置をしてもらう以外に何のしようもない。だけど、あそこにチョコレートの包み紙が落ちていたなら話は別」


 話している間にも、千代子は冷蔵庫から固形のチョコレートを取り出し、棚からハーブやリキュールを取り出していく。


「正直、あたしにだってできるかどうかなんてわからない。だけど、取り返しのつかない状態になる前に、あたしが何とかするしかないの」


 自分が何とかするしかない。


 それは、折尾に向けた言葉ではなかった。自分を奮いたたせるための、萎えそうになる気持ちに気合を注入するための、そんな言葉だった。静かに息を吸って、気持ちを整える。自分に言い聞かせるように心のなかで呟く。


 作るんだ、チョコレートを。


 ヤッコの嘘の味がするチョコレートを。


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