第2話 お前、狙われてるぜ
翌朝。
千代子にとって、朝の通学路はチョコレートだらけだった。
友人の新しい髪型に「かわいー」と声を上げている女子生徒。
「最近マジ寝てねえんだ。平均三時間」と何を自慢しているのか分からない男子生徒。
職員室の側を通れば、
「宿題やったんですけど家に置き忘れてきてしまって」
と教師に言い訳をする生徒もいれば、
「おっ、今回のテストはなかなか頑張ってたな」
と生徒を励ます教師もいる。
表面的な味の違いはあっても、口の中にじわりと広がる甘い感触は変わらない。
こうして廊下を歩くだけで、むせ返るようなチョコレートの匂いが迫ってきて、死にそうになる。
「うう、レモンレモンレモンレモン……」
千代子は階段を登りながらそう呟き続けた。
まるでお化けに襲われたときの呪文のようだが、口の中にチョコレートの感覚が這い登ってきたときに、千代子はいつもレモンの味を思い浮かべるようにしていた。
想像するだけで唾液が大量に分泌されることからも分かるように、酸っぱさというのは味の中でも強烈な部類に入る感覚だ。
だったら梅干しが一番いいんじゃないかと思う人もいるかもしれない。
実際に梅干しの作用が強力なのは確かで、千代子もそれを試したことはあるのだけど、二度とそれはやるまい、と心に誓うことになった。
だから、千代子が選ぶ清涼剤はいつもレモンだった。
「うううう、レモンレモンうにレモンレモンレモンレモンいくらレモンレモンレモンレモンレモンにんにくレモンレモ……」
それなのに、いつしか千代子の呟く「レモン」に混じって「うに」やら「いくら」やら「にんにく」といった言葉が混ざって聞こえ始めてくる。
さっきから、後ろの方で「うにうに」「いくらいくら」と妨害電波を飛ばしてくる奴がいて、不覚ながらそれに引き摺られてしまっているのだ。
千代子は足を動かしながら盛大にため息を吐いた。
こんなにチョコレートとの相性が最悪な組み合わせばかりをぶち込んでくる輩は他にはいない。
D組の
振り返らなくても分かる。
口を開かなければ整った顔立ちをしてはいるものの、千代子からすれば、五十メートル先からでもわかるくらいチョコレートの匂いがぷんぷんしているような男だった。
なにせ四六時中、小学生みたいな嘘ばかりついているのだ。
やれ「家が超絶金持ちでトイレが十個ある」だの「妹が芸能人並に可愛くていつもコンビニで唐揚げをもらってくる」だの「体育倉庫の奥には幽霊が住み着いている」だの「今日は絶対地震が来る」だの。
あまりに適当なことばかり言っているものだから、一度呼びつけて説教をしてやって以来、どういうわけか付きまとわれてしまって、千代子も千代子で、折尾が適当な嘘をつく度にその嘘を暴いて恥をかかせてきた。
けれど、振り返って顔を確かめるのも悔しいから、千代子はそのまま真っすぐに歩いて後からついてくる影を振り切ろうとした。
が、しまいにはしびれを切らしたそいつは、とんでもない声掛けをしてきた。
「おいおい。いい加減止まれよ。そうやって無視してっともっと臭いのををブチ込まなきゃいけなくなるだろ」
――もうやってるでしょ!
ツッコミたい衝動に駆られるが、相手をしたら負けだと思い千代子が足早にその場を去ろうとすると、
「だからちょっと待てって。今日はお前にちょっとした忠告があって来たんだから」
――忠告?
思わず足が止まりかけるが、止まったら負けだ。片耳だけ残して身体はそのまま教室へと向かう。
すると、
「お前、狙われてるぜ」
思わず足が止まってしまった。
――狙われてる? あたしが?
しかし、一瞬だけ足を止めて耳をそばだてたものの、千代子は階段の踊場のところで小さくため息をついて、また歩き出した。
真面目そうに言った折尾の声からは、はっきりと、チョコレートの味がしたのだ。
それっきり、千代子は聞く気をなくして教室に向かって歩き続ける。それでもお構いなしに折尾の言葉は続く。
「待てって! お前、この間の抜き打ち持ち物検査で、風紀委員を陣頭指揮取ってチョコレート没収させたろ? その前は、シュークリームをぶつけて祝おうとした誕生パーティーを張り込んでたってのもあったな。んで、今回は先輩の顔面をぶん殴ったわけだ。そんなもん生徒指導の先生に任せとけばいいのに、嘘が見抜けるか何か知らないが、でしゃばりすぎなんだよ。面白く思ってない奴は大勢いるぜ? 特に女子…‥っておい! 待てよ!」
勝手に言ってろ、と千代子は思う。
@
千代子が教室に入ると、そこには黒山の人だかりができていた。
そこは、いつも千代子が座っている席。
――お前、狙われてるぜ。
折尾の声がフラッシュバックする。
何人かが千代子の姿を認めて「あ、ちーちゃん」と青い顔を向けた。
それはもう、ひどい有様だった。
机の中身はぶちまけられ、机は打ち倒され、おまけに真っ赤なペンキやマーカーでなにやら幼稚な文言が書かれている。
いわく
「死ね」
「キモイ」
「風紀委員ヤメロ」「学校来るな」etc
クラスメイト達は、「大丈夫ちーちゃん?」と気遣うような言葉をかけてくるが、千代子にとってみれば、正直、怖いとも悲しいとも思わなかった。
頭の中には、冷静で静かな侮蔑の感情だけ。
こんな嫌がらせなんて、誰がやったかすぐ分かるのに。
全身の血が凍り付いたように冷め切っていくのが分かった。
千代子は静かに問いただす。
「……誰がやったの?」
その言葉に、けれど、まともな言葉で返してきた友達はいなかった。
だから千代子は質問を変えた。
「誰か何か知ってる?」
聡美、
藍華、
ソラ、
真菜、
由枝、
そうして一人一人の名前を呼んでいき、「ううん」と返事が返ってくるのを注意深く味見する。
ただ、正直、クラスで仲良く話すその辺りのメンバーが犯人だとは少しも思ってはいなかった。
それなのに……。
七人目。
たったの七人目で、甘ったるいチョコレートは見つかってしまった。
この時、隣のクラスから騒ぎを聞きつけてやってきたその人物に、千代子が尋ねた言葉はこうだった。
『何か知ってる? ――ヤッコ』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それからの千代子たちのやりとりは、手短なものだった。
――何か知ってるんだね、ヤッコ。
知ってるなら教えてよ。
それでもヤッコは青い顔をしたまま、ただ首を横に振るばかりだった。
――誰かをかばってるの?
千代子はさらに言葉を重ねていき、そして、ついに核心の言葉を口にした。
――ヤッコがやったの?
その問いに対するヤッコの否定の言葉。
その言葉は甘くて苦い、チョコレートの味がした。
信じたくはなかった。
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