机間距離
時任しぐれ
机間距離
伝えたいことがあった。
どうにもそれを口に出すことは憚られて、胸の中にそっとしまい込んでいる。
けれどいつか、と思う。
いつか、この気持ちを口に出す日がやって来る。
〇
ギィギィと耳を裂くような音とも今年で五年目の付き合いになる。先生はいつも「机は引きずらないで持って運びましょう」と言うけれど、それがめんどうだから引きずっているのがわからないのだろうか。大人っていうのは頭が固いものだと聞くけれど、先生のような人のことを言うのかもしれない。私たちの二倍以上長く生きているのに、子供がわかることもわからないのが大人という生き物みたいだ。
床の板の枚数を数える。一、二、三と半分。机の脚を規定の場所に合わせる。自分の列が終わったら次の列を、と思ったが、視線の先にはクラスメイトが既に机を運んでいる様子があった。ぎゅっと思わず手を握って、その手をゆっくりと開く。
掃除の時間は終わってみんなが手を洗いに行く。その流れに私も乗っている。蛇口を捻るとぞくりとする冷たさの水が手をじゃぶじゃぶに濡らす。石鹸で泡立てて汚れを落とした気になったところで、もう一度蛇口を捻る。
ハンカチで手を拭きながら自分の席に戻ると、やはり違う。
いつもの感じと違うのだ。
「……いいけど」
自分の気持ちよさのために周りに迷惑をかけるほど子供じゃない。残った不満は口から少し、零れるだけにとどまった。
掃除時間と五時間目が始まるまでの間には少しだけ空き時間がある。その空き時間の使い道はだいたい決まっている。
「あれ、なっちゃん。なんか変な顔」
隣の席から話しかけられる。
彼女が四年生の冬に転校してきて以来、ちょうど一年くらいの付き合いがある。彼女は私のことをなっちゃんと呼ぶ。渚だから、なっちゃん。オレンジジュースみたいなあだ名だと言ったら笑われたことを覚えている。どうして笑われたのかは未だにわからない。そんなにおもしろいことを言ったつもりはなかったし。
「そんな変な顔?」
「なんか思い通りにいかなかったって顔してる」
うーんと唸る。私は私が思っている以上に感情が顔に出やすいようだ。十一年生きても自分のことについて知らないことばかりで驚く。
「ちょっとね」
おくびにも出さない、みたいな感じで誤魔化す。大人はよくこうやっていろんなことを煙に巻いている。なんかそれだと大人の仲間入りをしてしまったみたいだ。
「ちょっとって?」
「あー、ちょっと寝不足って感じ?」
摂津こそどうなのって逆に質問した。あだ名で呼ばれているから摂津のこともあだ名で呼んでやりたかったけど、思いついたあだ名がセッツーしかなかったから断念した。せっちゃん、だとなんだか気恥ずかしい。
「私は大丈夫だよ。昨日も九時には寝たからね」
ふふんと笑う摂津に合わせて髪が揺れる。首を覆うくらいに伸ばされた栗色の髪は、昼下がりの陽光を浴びてきらっきらに輝いてた。眼鏡のフレームも一緒にぴかっと光る。サイズの大きいそれは摂津の小さい顔に不釣り合いで、顔の半分は眼鏡なんじゃないかって思う。
「夜更かししないなんて偉いね」
「そうかなぁ? ふつうのことじゃない」
「じゃあ私は普通じゃないかも」
休み時間や空いた時間はこうして摂津と話していることが多い。一年ちょっとしか一緒にいないはずなのに、何だかそれ以上の時間を過ごしてきた感覚さえする。
「ほらなっちゃん、授業始まるよ」
「はいはーい」
教科書、ノートを用意して先生がやって来るのを待つ。
来なければいいのに、なんてことを思った。
放課後、摂津はピアノがあるから早く帰る。他のみんなも部活やら習い事やら塾やらで忙しそうだ。
「自由なの私だけー」
誰もいない教室なら独り言を言っても誰にも咎められない。こっそり身に着けているミサンガを見せびらかしたって没収されない。机の数の割に広い教室がまるで自分の部屋になったかのようだ。
廊下に誰もいないことを確認して、私はことに及び始める。三十センチ物差しを机の脚に当てて床を這う。隣の机までの距離を測る。今は三十八センチだ。机と床が擦れてギィギィと音を鳴らす。それで四十七センチになる。
隣の席の距離は四十七センチがベストである。そう気付いたのは摂津が転校してきて一ヶ月ほど経ち、隣の席になったときのことだ。今と変わらず暇を持て余していた私は机と机のいい感じの距離を測っていた。三十センチだと近すぎて落ち着かないし、遠すぎても変な感じがする。試行錯誤と微調整の繰り返しで、私は四十七センチという結論を見つけたのだ。なんでそんなことをしていたのかは、今考えるとなんとなくわかる。
でもなんとなくわかっているだけだから、言葉にしようとすると喉がつっかえたようになる。咳払いしても取れない喉の違和感が心の奥に不快感を残す。じわじわと広がっていくそれは水に垂らされた一滴の墨汁のようだった。
頭の中で私は水中にいる。なぜか呼吸ができる。ごぼごぼと泡を立てながら、深い深い底へと落ちていく。ある程度まで沈むと、黒いモノが視界を覆って見えなくなる。そこにあるはずの光に手を伸ばすと、いつも現実へと戻ってくる。
言語化できないなりに言語化してみたけれど、やっぱり要領を得ない。こんな変な想像を他の人に話したらきっと心配されてしまう。
気分を切り替え、よっと声を出して机に座った。摂津の机は低い。でも机に座ると椅子に座るよりも視点が高い。机を引きずったらダメな理由と同じように、机に座ったらダメな理由がよくわからないのが私だった。危ないかな、言うほど。軋む音は確かに座ってて不安になるけれども。
母の棚から持ってきた本をランドセルから出す。表紙に書かれている美麗な絵をしばらくおおーと眺めてから本を開く。紙面に目を滑らせて字を追いかける。最初のページには序章、と書かれていた。
回りくどい比喩と婉曲的な表現が多くてなんだか何の話をしているのかわからない。だが不思議と読み心地は悪くない。頭に文章が入ってこないのに、中身は頭に入ってくる。何ともよくわからない小説だった。奥付を確認し、著者が中城桐花という名前だと知る。女の人だろうか。
「売れなさそー」
おもしろくないわけではない。ただ合う人は少ないだろうと思った。小学生が読むものじゃなかった。大人はこういうのを好むのだろうか。コーヒーといいビールといい煙草といい、大人の趣向はよくわからないもので埋め尽くされている。
くぁと小さな欠伸が出た。家に帰っても宿題くらいしかすることがない。だからいつも限界まで教室にいる。たぶんクラスで一番教室にいる時間が長いのは私だ。そんなことなんの自慢にもならないな、と思った。ぼーっとしたり机の位置を微調整したりして時間を潰す。窓から差し込む光がオレンジになったくらいで帰る準備を始める。ランドセルを背負うと中で筆箱が転がる音がする。宿題に必要なもの以外は置き勉だ。重いものは嫌い。
さあ帰ろう。意気揚々と一歩を踏み出すと脛を思いっきり机にぶつけてしまって思わずうずくまる。あがあががと声にならない声が口から出てくる。
こぼしてしまった机の中身をできるだけ元通りに戻して、改めて教室を出た。後ろ手で扉を閉める。思ったよりも力が強かったようで、自分で立てたその音に体がビクッと反応する。
ふと扉の小窓から教室の窓を覗き見る。夕焼けが空に赤い直線を引いていた。
時間は有限で、ひっくり返った砂時計の砂が落ちていくよりも当たり前のことだ。
〇
今日の机の距離はだいたい四十五センチだ、と直感的に知った。
長い時間机と机の距離を自分で調べていると、ひと目でわかるようになるのだ。こんな能力がどこかで役に立つことがあるのだろうか。中学校になったら使えなくなりそう。床とか机のサイズとか今までの測定経験とか、総合的な情報を目で処理して、それが頭の中に机間距離として示される。のだと思う。この変な能力は教室にいる間限定だ。っていうか、机間距離ってなんだ。
みんなの机間距離を見る。私的ベスト距離である四十七センチな机は案外少ない。多くの机は四十七センチよりも少し近い。私が人に近付かれるのが苦手なことも関係しているのかもしれない。
「おはよう! なっちゃん」
朝の会が始まる十五分前、摂津がハツラツに挨拶してきた。
「おはよー」
摂津のそれと聞き比べると私の挨拶は気が抜けたような声だ。
「もう涼しくなってきたよね。半袖で寝たから朝少し肌寒かったもん」
そんなことを言いながら腕で体を抱きかかえる摂津の姿を見て、なぜか心臓が一度跳ねる。跳ねた理由はわかる気がするのに、その霞の正体を掴めないまま、私は「十月だからね」と中身のない返答をした。
「なっちゃんはそんなに寒そうじゃないよね」
「丈夫なのが私の取柄なのだ」
「私はそんなに体強くないからなぁ」
確かに彼女に健康体という印象はなかった。低めの身長と大きな眼鏡のイメージが先行して、真面目な病弱キャラが頭で像を結ぶ。摂津はそこまで学校を休んでいるわけではないと思うのにな。不思議だ。
「大人になったらもっと強くなるのかな?」
首を傾げて摂津が私に問いかける。その純粋な疑問に、私は答えることができなかった。先生がやってきて朝の会を始めたから。
何もないまま六年生という時間はあっという間に遥か後方に位置していて、いつの間にか私たちは中学二年生になっていた。いつの間にか、という表現が誇張でないほどに、私はそのことを全く意識せずに生きてきたのだと思う。
時間がないということを頭ではわかりつつ、理解しているつもりになっていた。賢しげな子供だなぁとかつての自分を振り返る。今でも大して変わってないから、賢しげな中学生といったところ。
手も足も伸びたし、背も少し伸びた。
摂津の身長は私を大きく越していた。
「えー」
「えーって言われても困るよ」
寝る子は育つということだろうか。
相変わらずの大きな眼鏡に明るい色の地毛が映える。少し見上げるようになった彼女の顔立ちは変わらないのに、小学生の頃とは打って変わって活発だった。というより、今までは本来の活発さに体が付いていけていなかったのだろう。髪を高い位置で一つに結び、体育館のコートを跳ね回る姿からは小学生の彼女を想像しがたい。
「バスケ部に入ったんだよ」
そう聞かされたときは「大丈夫?」なんて言って心配していたけど、どんどん体力をつけて今ではスタメン入りしていると聞く。ピアノも続けているらしいし、勉強も試験で学年上位に入ってるらしい。しかも誰かから告白されたなんて話も聞いた。
伝聞ばっかりだなぁ。ちゃんと話しているはずなんだけど。
対して私は未だに机の距離に固執していた。中学生ともなれば距離を測るのに三十センチ物差しを使う必要はないという知恵が働く。裁縫道具に入っているメジャーを使えば済む話なのだ。
中学一年間を費やした結果、またしても見ただけで机間距離がわかるようになっていた。もしも神さまがいるとしたら、なんのためにこんな変な特技を私に授けたのだろう。
今の私と隣の席の距離は五十三センチ。隣の席は摂津。小学校五年生以来の隣だ。
「摂津はすごいなぁ」
口の中でそっと呟く。
少し遠のいたその距離を思う。
会話の電波が圏外になるほど遠くはない。ただ、少しずつ電波が悪くなることが増えている。混じるノイズに気づかないフリをしていることはわかっていて、中途半端に賢しい自分の頭が恨めしい。
「ナギサはさ」
私にとって摂津は摂津のままだったが、摂津にとっての私はなっちゃんからナギサになっていた。どこか硬質な発音だと思う。
「変わらないよねぇ」
帰り道、ニコニコしながらそんなことを言われた。
「どういう意味?」
「身長とか」
「ちょっと?」
「それは冗談だけど」
カラカラと笑う摂津に私も曖昧な笑みを浮かべる。ミラーリングというやつかもしれなかった。
「ナギサの根っこの部分って全然変わらないなぁって思ったんだ」
「そりゃ私は私だし」
私の根っこってなんだろう。東雲渚という自分の名前を思う。名前に個人の個人たる所以を委ねようとは思わないけれど、名前は私が私である以上ずっと付き纏ってきたものだ。
思春期全開の哲学に片足を突っ込んだところで、橙色に煤けた空気が私を包む。建物の影から出ると目に太陽が当たってすごく眩しい。
「私の根っこって何?」
目を細めながら尋ねる。
「なんだろうね?」
摂津は答えてくれない。話題はぬるっとくだらないものに移行して、戻ることはなかった。
社会の教科書を忘れた。
「隣の人に見せてもらいなさい」
先生の頭では私が隣の人と不仲であるという可能性が排除されているみたいだ。まあ不仲じゃないからいいのだけど、もやっとしたものが肩に乗っかっているようだった。
摂津に教科書見せてくれ〜って頼む。いいよって言われて、机を動かす。
私が椅子に座ったあと、少し空いていた隙間を摂津が埋めた。どうして私は微妙な距離で机を動かすのをやめたのだろう。溝があったら教科書を置きにくいというのに。
机と机の距離は、測るまでもなく。
授業が始まり、先生の話が続く。その言葉が全く耳に入ってこない。安土桃山時代がどうとか、そんなの今はどうでもいい。ちらと摂津の顔を覗き見る。摂津の視線は教科書と黒板を往復する。揺れる髪から香る匂いが鼻孔をくすぐる。シャンプーの匂いだ。中学生になって変わった、彼女の匂い。
やってることが変態的だ。女子同士とはいえ、さすがに気持ち悪い。
授業が終わる直前、バチッという音が聞こえた。目と目が合った音だ。どこから鳴った音なんだ? 聞こえた音に疑問を持つと同時に体がピタリと硬直する。
軽く肘で小突かれて、なんとなく小突き返した。
摂津がえへへと笑う。
その瞬間「あ」と。これまで掴めなかった光が、形を持たなかった何かが、はっきりとした像となって現れた。
キンコンカンコンとチャイムが無機質なメロディを奏でた。同時に私は「教科書ありがと」と言って教室を飛び出す。
蛇口を思いっきり捻って水で顔をばしゃばしゃと洗う。そのまま顔に手を当てて、ポタポタと指の隙間から水が滴り落ちるのを見た。奇異の視線を向けられているのを感じる。気にしていない。実際奇異で奇特で特異なヒトだ、私は。
だって、たったこれだけのことで頬が如才なく緩む。
指先まで血液がどくんどくんと巡っている。
顔に集う熱の理由は、きっと私の心が知っている。
もう絶対に教科書は忘れないようにしよう。そうしよう。
○
高校に進学すると、机の距離を見ることはなくなった。その代わりと言ってはなんだけど、人と人との距離がなんとなく感じられるようになった。能力が進化したと言えば聞こえはいいけど、結局やってることは大して変わらない。
初対面の人との距離はだいたい遠く感じるし、それなりに話す人との距離はそれより近くなる。友人だと体感距離は四十七センチ。直感的に知るその距離の数値が、そのまま私と誰かの距離になっている。
摂津はといえば、中学であんなに打ち込んでいたバスケはきっぱりやめたそうだ。ピアノの方に力を入れたいらしい。
「ピアノって手だから、バスケは危ないんだよ」
音楽の授業の合間にそんな話をしたことを覚えている。
何かを続けるというのは本当にすごいことだと思う。例えそれが教科書に描く落書きであっても、そう思う。落書きをやろうという心意気をずっと保つのはすごく難しいことだ。それが大変なことであるのなら、尚更。
「摂津はピアノの何に惹かれるの?」
弁当を食べながらそう聞いてみた。
「言われると難しいね。なんでだろう」
顎に指を添えて考えている彼女の横顔は、小学生のときの可愛らしい印象とは異なり、美人なものになっていた。すっと通った鼻筋、眼鏡のレンズに触れそうなほど長いまつ毛。バスケ部だったからか、体は柔らかさの中に芯の通った固さを感じさせる。見上げるような身長は相変わらずで、高校に入ってもっと伸びたような気さえしてくる。私が変わっていないだけだろうか。
外見を内心で褒めちぎっていると、結論が出たようで摂津はこちらに視線を向ける。
「なんでだろうねぇ」
「なんじゃそりゃ」
「強いて言えばなんとなく、かな」
「なんとなく」
「言葉にするのは難しいかなぁ。親に言われて始めたことだけど、続けていくうちに好きになっていって。そんなに賞とかは取れないけどさ。頑張るのは嫌いじゃないし」
何かを続けたことなんてない。毎日刹那的に机の距離を測ったり、本を読んだり。そんな風に過ごしてきた私は、摂津の言葉に共感することはできない。ただ。
言葉にするのは難しい。
その一点だけは。
「わかるなー」
「ちょっと、どうしたの?」
摂津の肩をバンバン叩く。身長差があるからぐいーっと手を伸ばすような形になる。
「変なナギサ……」
呆れた顔を見せる摂津は、私の手を払いのけることはせず、ただ変な私を受け入れてくれた。
そのことが嬉しいと思う。そんな自分を私ははっきりと認識した。
私と摂津は同じ高校に進学していた。私は何も考えずに近くの高校を選んだだけ。摂津は「そこそこの進学校だし」という理由だ。小学四年生以来ずっと同じ学校ということになる。小学生の二年間、中学生の三年間、高校生の三年間を合わせれば八年ほどの日々を過ごすことになるのだ。
「そう考えると学校の友達ってめちゃくちゃ長い時間一緒にいるんだなぁ」
ガタゴトと揺れる通学電車の中、思考が独り言となって漏れ出た。隣に座る摂津との距離は、何とも言えない。人と人との距離をわかるようになったとはいっても例外はあって、摂津との距離は中学二年生以来、わからなくなっている。
「家族みたいだね」
摂津の口から不意に出た言葉を反芻し、脳がぐわーっと暴走を始める。沸騰する頭で考えつくのは変なことばかりで、伝う汗が服と背中をべたべたとくっつける。
「そっ、そうかなッ」
スタッカートの利いた相槌に摂津の顔は疑問符を浮かべた。
「どうしたの?」
「なっ、なんでもッ?」
スタッカートは継続中。次の駅を知らせるアナウンスが響く。高校最寄りの駅まではあと数駅。列車が甲高いブレーキ音を鳴らしてゆっくりと減速していく。ぷしゅーと気の抜けたような音を立ててドアが開いた。田舎の無人駅だからこの時間に乗る人はいない。薄暗い灯りが外を覆っている。
「ナギサは」
ドアが閉まります、とアナウンスがあった。
摂津が苦笑いしながら口を開く。
蛹が蝶へと移ろう。そんな予感がした。
「好きになる相手を選んだ方がいいんじゃないかなぁ」
ただでさえ沸騰していた頭は爆薬を投下されて突沸した。
「す、好きって! 誰が、何を? どういう風に、と言いますか……」
弾けて真っ白になった脳味噌が紡ぐ言葉の羅列はめちゃくちゃだった。変な風に敬語になってて恥ずかしさが助長される。ひたすらに頬が熱い。
取り繕い方としては最悪の部類だ。
「ナギサが、私を。どういう風に、かはわからないけど」
筒抜けだったのか。私のことですら私がわかるまで中学生から高校生になってもわかるとは思えないほどにわからなかったというのに。私が何を言ってるんだ? 爆発した頭の破片を回収して少しずつ、少しずつ冷静さを取り戻していく。取り戻していく度に、心臓の鼓動がうるさくなっていった。
「ナギサってあれなのかな、レズビアン、ってやつ」
「いや、ち、違うと思う。うん。違うかな」
「ふーん。そうなんだ」
興味があるのかないのかわからない摂津の質問は置いておいて、とにかく今はちゃんと考えて考えずに話さないと。努めて考えないように、しかししっかりと考えて。そんな矛盾を抱え込んだまま私は話をする。
「相手を選んだ方がいいってどういうこと?」
「私はナギサが思ってるほどちゃんとした人じゃないよってこと」
摂津は窓の外を眺める。つられて私も同じようにした。いつものように家や田んぼが次々と後ろへ流れていく。周りに人は誰もいない。他の車両にいるのだろう。
「ちゃんとしてるから、好きになったわけじゃないし」
波打つ心臓のまま、私は言う。
押し寄せる感情の濁流が、私の背中をドンッと押した。
「ちゃんとしてるとか真面目とかかわいいとか、そんなの関係ない。摂津だから好きで、好きだから摂津なの。そうなの流れで言っちゃったけど私は摂津が好きなんだ。最初はわからなかった。好きとか意味わからないし、摂津は友達だし、小学生だったし。でも今はわかってる。摂津と近づきたいと思ってる。今だって近いよ、たぶん。普通の友達が四十七センチくらいだとしたら、四十七センチなんて私にとって恥ずかしくない距離でしかない。だからもっと近づきたい。恥ずかしくなりたい。指先まで熱くて仕方なくてどうしようもなくなりたい。好きってわかったから。口に出したらもっとわかった。私は摂津が好き。好きです。だから付き合ってください」
「…………」
摂津は黙ったまま、私を見ている。気がする。頭を下げているからわからない。いつもうるさい電車の音が、もっとうるさく聞こえる。私と摂津の間にだけある静謐が、全てを反響させる。ぐわんぐわんと揺れる頭でカンカンカンカンと鳴らされる。
踏切の音が遠ざかる。
空が金色の絵具を滲ませたように、色付いた。
「……重いよ」
第一声に思わずうぐぅと唸る。
「重いし、何それって感じだよ。途中で言ってた四十七センチとか何の話してるんだって思った。めちゃくちゃで、言ってることの半分もわからなかった」
うにににと声にならない声が喉の奥で渋滞する。
「でも」
逆説の言葉は、確かに摂津の口から響いていた。
「ナギサは変わってないんだなぁって思ったよ」
最初からずっとね、と続くその言葉の意味を考える。変わってないって。
「どういうこと?」
「ナギサは頭がいいのに、察しは悪いんだね」
摂津はクスクスと、次第にそれは大きくなってあははと笑い始めた。
「本当、ナギサっておかしい」
失礼なことを言われているはずなのに、心が躍る。
電車が止まる。
開いたドアから、ひらひらと蝶が迷い込んできた。
〇
大人に近づくにつれて嗜好も変われば思考も変わる。コーヒーは苦いだけの飲み物だと思っていたのに、高校生になった今では定期的に飲んでいるし、机を持って運びなさいと言っていた先生の意図も察することができるようになっている。
それでも今もって摂津の意図を察することは難しい。こうしてとか、あれをどうしてと言われてもその意味を考えなければ咀嚼できない。これが恋は盲目というやつだろうか。
「……思っただけで恥ずかしい」
登校中にあんなことを勢いで言ってるから、授業中も頭はそれでいっぱいだった。まるで呪いだと思う。でも呪いもおまじないも、相手を思ってかけるものだ。なら摂津になら呪われてもいいかもしれないな。
頭をぶんぶんと振る。奇異の視線が向けられた。眠かったんですよというアピールで目を擦る。そんなことをして何が変わるわけでもないのに、周りの視線が気になるのは今置かれている状況が状況だからだろうか。
身の入らない授業はあっという間に過ぎていった。光陰矢の如しとはよく言ったもので、恋は盲目と合わせれば、時間はいつだって矢より、音より速くなるに違いない。光の方が速いとかいう人はセンスがないから気にしない。
担任が来るまでの時間がもどかしい。
連絡事項なんて後から聞けばいい。
今はただ、この衝動に身を任せて動きたい。
ホームルームが終わり、教室を出る。
靴箱へと向かう足取りは自然、軽く。
逸る気持ちが回る足を追い越して、躓くようにして廊下を走った。
見えてくる。
明るい栗色のしっぽがこちらに気付いて揺れた。
「お待たせ、」
私は摂津の下の名前を呼んだ。
「初めてじゃない? ナギサが私の名前呼んだの」
「そうだったかな」
「そうだよ。ちゃんとしてない私でも、そのことはちゃんと覚えてるから」
摂津にとっての私はなっちゃんはナギサへと一度変わった。今更その意味を悟り、かあっと熱が内側から湧いてくる。でも悪くない熱さだと思った。冷たくて動けなくなるよりはずっと心地がいい。
「行こう、なっちゃん」
四十七センチという距離はその意義をなくし、手と手が、指と指が絡み合う。
折れて混ざってぶつかって、一つになってゼロになる。
行き場をなくした色の褪せたミサンガが、その役目を終えたようにぽとっと床に落ちた。
机間距離 時任しぐれ @shigurenyawa
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