走れ、映画よ、走るのよ(“The Film is on the Run”) DEMO2023.05.07

機乃遙

走れ、映画よ、走るのよ

 ミニDVを差し込んだカメラを回した。録画ボタンを押すと、カシャンと小さな機械音がする。画質の荒い電子ビューファインダーに像が写り出す。白と黒だけの世界。地球の重力がまるで二倍か三倍にでもなったように、コールタールの海は波打つ。岸壁に打ち付けられるたび、どす黒く粟立っては爆ぜていく。

 ガスのような匂いがする。

 この波打ち際はいつもそうだ。

 この黒々とした海と、匂いが、街から色彩を奪ったらしい。わたしにはそんな昔のことよくわからないけど。

「どう、良い感じに撮れそう?」

 ファインダーの向こう側。

 岩場にせり出した船着き場――もう誰も使ってない、ただのお飾り――の上で、彼女はスカーフを振った。鈍色をしたシルクのスカーフがガスの風にはためいて、いまにもどこか遠くに飛んで行きそうだ。

「喋らないで、ちゃんと演技してください。ここは大事なシーンなので」

「してるわよ。それに、ここは音楽を流すんでしょ? なら喋ってもいいじゃない」

「口が動いてるのがわかります」

「動いてたっていいじゃないのよ。人間はいくらでも独り言をいう生き物なんだし」

 トーコさんは、飛びかかったスカーフを右手で拾い上げると、そのまま自分の首に結った。まるで自殺する人間がそうするように、かたく、きつく。

「じゃあ、本番いきます」

 わたしが叫ぶ。途端にトーコさんは口を閉じた。耳に入るのは、波が壁に打ち付けるねっとりとした音だけになった。

「よーい、スタート」


     †


 走れ、映画よ、走るのよ。


     †



 初めて映画を見たのは幼稚園児のころだったと思う。そのころにはもうこの町に色彩なんてものはとっくになくて。だからわたしが見たミッキーマウスは文字通りのねずみ色で、およそリボンと服がなければミニーとミッキーを区別することはできなかったと思う。

 映画が好きだと自覚したのはいつだったか覚えてないけど。ああ、わたしこの映画好きだなって思った瞬間は覚えている。あれは忘れもしない十四歳のとき。その日は中学のマラソン大会で、わたしは運動が苦手だったから、ぜったいに出たくなかった。出たところで単位に関係するわけでもないし、一日くらい休んだところでなんだというのだ。

 だからわたしはその日、必死になって風邪のフリをして学校を休んだ。母は何も言わなかったし、具合が悪いなら寝てなさいと言って仕事に出て行った。

 でも、意外と一日ずっと寝てるのは大変なことで。昼過ぎ、わたしは冷蔵庫にあったジャムパンを頬張ってから、電車に乗って隣町にある映画館にまで行ったのだ。ちょうどその日はシルバー向けの映画デーで、昔の作品のリバイバル上映ばっかりをやっていた。

 そのとき見たのは、ニュー・シネマ・パラダイス。わたしのオールタイムベストの一つ。たぶんアレのせいだと思う、映画とかカメラとかを回してみたいって。ああいう画を自分も収めてみたいって、そう思い始めたのは。


     *


 一日に一度はテープを回そうと考えているし、一週間に一本は映画が見たいとは考えている。まあ、それが調子よく行くことはほとんどないのだけど。でも、幼い頃のトトがアルフレードの隣で映画を見ていたように、わたしもたくさんの物に触れたり学んだりしないと……とは思っていた。

 わたしはよく海を撮りに行く。これといった理由はあまりないけれど、たぶんわたしにとってしてみれば一つの復讐というか、呪いというか、怒りの表れなのだと思う。

 海、どすぐろい海。脂ぎった粘土のように、ゆったりと蠢いて波打つ。呼吸をするように粟立ち、獰猛な熊が静かに眠るように膨らんだり萎んだりを繰り返している。

 この海が、この街から色彩を奪ったという。

 そして、わたしの兄もこの海に消えた。

 わたしがニュー・シネマ・パラダイスを見た日を忘れられない理由が一つある。それは帰り際、同じシアターにいた老夫婦が言っていた言葉だ。


「アルフレードがトトに街に出て行くように諭すシーンが好きだった。シチリアの景色、白い街が夕暮れ赤く染まって、遠くに紫色の空と海が見えるあのシーンが。でも、もうその画は見れないし、撮れないんだな」


 そうだ。もうあんな画は撮れないし、誰ももうオリジナルの世界を見ることができない。それもこれも、ぜんぶこの海のせい。

 わたしはテープを回しながら、腰に挿した携帯式のラジオの電源を入れた。周波数はクラシックとジャズしか流さないように合わせている。ちょうどバッハのHerz und Mund und Tat Leben(心と口と行いと生活で)の途中だった。主よ、人の望みの喜びよだ。

 ――よーい、スタート

 わたしは心のなかでそう呟いて、ハンディカムのテープを回した。別に何を撮ろうというわけではないが、この憎たらしい海を――このコールタールの街を記録に収めておきたいと思っていた。


 しばらくテープを回していた。ラジオの向こうの交響楽団が演奏を終えて、チェロ独奏のジングルが流れた。わたしはそこでテープを停め、海に向けていたレンズを足下へと戻した。

「ねえ、通っていいよね」

 突然、声がしてわたしは驚いた。撮った画を確認しようと思った矢先だったからだ。

 声の主は、進入禁止の堤防沿いにいた。高くせり上がったコンクリートの壁。およそ二メートルはあろうそこに立って歩いていた。見た目は二十歳くらいか。わたしよりずっと年上だ。大学生みたいで、煤けたグレーのトレンチコートに、真っ白いくたびれたブラウスと、黒のチノパン姿だった。

「すみません。どうぞ構いませんので」

「そっか。何撮ってるの。映画?」

「そんなたいそうなモノじゃないです。ちょっとしたショートフィルムが撮れたらと思って」

「それにしては劇伴がヨハン・ゼバスティアン・バッハとは壮大すぎるでしょ」

「かもしれないです」

「見せてよ」

 よっ、とその人はコンクリートの塀からジャンプする。衝撃が足に行って痺れたようで、一、二秒だけうずくまったけども。

「見せるものでもないですから」

「作品は見せないと上手くならないものよ」

「今撮ったばかりですし、本当に海しか撮ってないんです」

「そっか。海ねえ」

 そう言うと、お姉さんはトレンチコートのポケットからタバコを取り出した。真っ黒い箱で、JPSと書いてあった。

「吸ってもいい?」

「構いませんけど。じゃあ、撮っても良いですか?」

「何を?」

「海をバックにタバコを吸う人を」

「ははは。どす黒い海を背景に、肺を黒く染めてる女を撮ろうってか。いいよ、撮りなよ。むしろ撮って欲しいくらいだから」

 そう言うとお姉さんはライターでタバコに火を点けた。静かに目を閉じ、煙が風に乗って遠くへ運ばれていく。

「何か言ったほうが良いよね。セリフとか、そういうの」

「別に言っても言わなくても」

「そう。じゃあせっかくなら何か言うよ。えっとね――私はトーコ。アリシマ・トーコ。二十二歳で、いまは大学生。一年浪人してるんだけどね。いろいろあって休学して、ふらふらしてる。実家はこっちなんだ。とはいえ、休学も親に反対されちゃってるし。もっと言えば大学も反対されてたから、合わせる顔がないんだけどね。そんなとこ。で、なんかやだなあと思って。海を眺めに来た。ねえ、君は――えっと、名前は?」

「レナです。藤江レナ。高校生」

「そっか。一年生?」

「二年生です」

「ふうん。就職先は決まった?」

「いちおう、先生のすすめで縫製工場に内定してますけど」

「”けど”って、エクスキューズがつくあたり納得してなさそうね。映画監督にでもなりたかったとか?」

 わたしは何も言わなかった。何を言ってもわたしが恥をかくだけのような気がしたからだ。

「まあいいや。実はさ、私も今になって映画作ってたらよかったのにって、最近すごく思うのよ。それもこれも古い映画を見たせいかもしれないんだけど。ニュー・シネマ・パラダイスって映画しってる?」

「知ってます。というか、オールタイムベストです」

「若いのに珍しいね。なんかさ、トトみたいに鳴りたかったなって。アルフレードが言うじゃない、『おまえとは話さない。おまえの噂が聴きたい』って。あのセリフでずーんと来てしまってね。ああ、私もそうなりたかったなって。人生は映画のようにはいかないけれど、でもそれってこの世の真理みたいな言葉じゃない?」

「真理、というと?」

「決まってる。ねえ、レナさん。あなたはここの生まれでここの育ち?」

「はい」

「そっか。じゃあ、この海をずっと見てきたわけでしょ。ならわかるはず」

 ――わかってる。

 けど、それを自分の口から言葉にするのがイヤだった。

「あのコールタールの海が、私達の世界にある色彩とかそういうものを奪ってどこかに追いやってしまった。だけど、それだけじゃない。二十二歳を過ぎてもこの世界で誰かにとっての色彩を認められた――というか、なにがしかのロールプレイングができない人間は、いずれ真っ黒になって失踪してしまうって」

 知ってるでしょ、ってトーコさんはわたしにウィンクした。言ってることとやってる仕草がチグハグすぎる。

「まあ、都市伝説だって聞いたけど。もしそうであるならば、こうして大学休んでプー太郎してる私は、そのうちあの海に吸い込まれて消えちゃうんだ。でもさ、仮にそうであったとしても、なんか不思議と怖くないんだよね。もっともそんな迷信は信じてないけど」

「迷信じゃないです」

 わたしはカメラの録画ボタンを押し、一度テープを停めた。ミニDVが回転運動をやめ、磁気テープに書き込む作業が止まる。あわててマシンが今までの画をまとめて書きつけた。

「わたしの兄は、黒くなって消えました」


     *


 人間は皆死んだときには白骨になってあの世に行くって、仏教ではそんなことを言ってたけど。でもまともに生きられなかった人は白くはなれず、黒くなって消える。ある日突然、その人はあのタールの海と同じ漆黒になって、距離や大きさや皮膚の感触だとか、体温だとかも感じられなくなって、消えてしまうって。

 何故だろう。わたし、今日はじめて会ったそのお姉さんに、ぼつぼつと兄が消えた話をしてしまった。いつもなら自分から話すのは控えているのに。

 もしかしたら、お姉さんに兄に近いものを感じてしまったのかも知れない。

 わたしはトーコさんと二人、コンクリートの塀の上に腰かけた。黒い海と、それに乗せられてやってくる焦げ臭い潮風を受けながら。トーコさんの髪は波のように行きつ戻りつ揺れていた。

「兄がおかしくなったのは、高校を卒業する直前からだったと思います。兄は元々本の虫で、図書館に入り浸るような人間だったんですが。卒業して就職を決めようってなったあたりから、なにか空回りをし始めたというか。うち、父がいないので、兄も母の楽をさせようと思って仕事に就くことを決めていたらしいんですけど。でも、そこからおかしくなって。十八歳の誕生日を迎えた夜から、兄はときおり何かに呼び寄せられるように一人ふらっと出かけるようになりました。出かけるのはだいたい夜で、わたしたちには何も告げずに、気がついたらどこかに行ってしまってました」

 波が鳴る。ぐぐ、ぐぐ、と黒い粘土質の海水が地鳴りのような音を鳴らして、この大地に打ち付ける。

「お兄さんはどこへ出かけてたの」

 トーコさんはそう言って、二本目のタバコに火を点ける。さっきまで吸っていたやつは、コンクリの上にもみ消して、あとは海に投げ捨ててしまった。一瞬で吸い殻は火がついたように真っ黒になって、その暗い影の中に同化して消えてしまった。兄のように。

「ここです」

 わたしは右手の人差し指で足下を何度か突き刺した。

「兄は夕方頃になると起き上がって、ふらっとここに来てました。そうして海沿いをずっと、ずっと歩き続けて。日が暮れて真っ黒になるまでこの水平線を眺め続けて。そうして深夜に近くなると帰ってきました」

「それが毎日?」

「そうです。ほぼ、毎日。飽きることもなく。兄はただそれだけをしていました。たまに本を持って行くこともあったそうですけど、でもそれだけ」

「お母さんは止めなかったの?」

「もちろん止めましたよ。でも一年も二年もかけて説得しても、兄はやめなかったんです。どれだけ説得しても、家の鍵をかけたり、バリケードを作ったとしても。兄は夜ごと盗人のように家を抜け出しては、黒く染まったこの風景を見に行ったんです」

「……そして、気がついたら?」

「四年が過ぎました。わたしは中学を卒業して高校生になり、兄は噂の歳になりました。でも、べつに誕生日の夜にすぐそうなったわけではないんです。ちょうど一年前の、今日くらいの日だったと思います。夜、いつものようにベッドを見たら兄が居ませんでした。わたしは何だか妙に胸騒ぎがして、母に相談したんですけど。でも、母は『いつものこと』だって言って、諦めていました。もう二十二歳の誕生日も過ぎていたし、あの都市伝説なんて初めから信じてなかったので。だけどわたしばかりは妙に不安に思えて。その夜、兄を探してこの埠頭まで来たんです」

「……それで?」

 タバコの灰が落ちる。白く燃え染まった灰が、海に落ちて黒く染まる。影が消え、飲み込まれてしまう。

「夜の十一時前くらいだったと思います。この海辺には兄は居ませんでした。妙に空が黒かったことを覚えてます。曇っていたからか、星がまったく見えなくって。でも妙に暗かったんです。いつも空港に向かっていく飛行機の軌跡が見えるんですけど、それもないし。街灯の光も吐いたり消えたりを繰り返していたかと思ったら、そのうち消えてしまったし。だからわたし、ちょうど持っていた非常用の手回しラジオ兼懐中電灯で足下を照らして探したんです。それで……」

 そこまで言いかけて、突然言葉が途絶えた。

 喉を、首根っこを見えない手で握りしめられたような気がする。言葉をひり出そうとすると、代わりに首が締め付けられ、ゆっくりと首筋から口に向かってそれを搾り取られるような感じがする。腹の奥底にたまった液体をごっそりと吐き出させようとする感じ。

 たぶんわたしは、妙な嗚咽をしていたのだと思う。それを見たトーコさんは何かを察してくれた。吸い止しのタバコをもみ消して、それを彼女は大事そうにコートのポケットにねじ込んだ。

「言いたくないことはべつに言葉にする必要はないし、それに言葉にするだけが表現とは限らないんじゃないかな」

 彼女はそう言うと、コンクリの塀を飛び降り、わたしと見上げた。じんと痛んだ脚を感じながら、彼女はわたしに手を差しのばす。

「レナちゃんがテープを回している理由、ちょっとだけ分かった気がする。でも、ちょっとだけ。ぜんぶじゃない。ぜんぶわかったら、それはあなたの悼みではなくなってしまうから。そうね、私にわかったのは、こう……レナちゃんと私という二人のベン図があったときに、わずかに接触したほんの数ミリ程度の箇所だけ。でもそれがわかるだけでも大変なことなんだけどさ」

 わたしはトーコさんの後を追って飛び降りる。やっぱり脚から股のあたりがじんじんと痛んだ。それでも二、三秒くらいうずくまったら楽になった。

「わたし、トーコさんに忠告したかったのかも」

「なにを?」

 翻したコート。彼女は路肩にある生け垣の近くまで駆け寄って、さっきの吸い殻を土の中に埋めた。

「兄みたいになって欲しくないって」

「そっか。でもさ、もし仮に都市伝説がそうであるとしたらだよ。私は誰かにとっての何かとして、この世界になにがしかのしるしを残さないといけない。つまり社会にとって何者かを演じないといけないんだ。何者かにならないといけない。毎晩海に来る人、なんてレッテルじゃあ、この世界は私達をシロとクロに区別して消し去ってしまうんだとしたらだよ。そうだね……」

 埋めたタバコ。丁寧に土をかけ、彼女は墓標とでも言わんばかりに葉っぱを一枚そこに立てかけた。

「私さ、映画をやってみたかったって言ったじゃない。女優、私女優になりたい。そしてあなたは縫製工場の女工なんかじゃなくって、映画監督になりたい。そうでしょ?」

「えっと……じゃあ、撮るんですか」

「そう。何が撮りたい?」

「えっと……」

 海が、海に飲み込まれる前の人間の生きている姿を撮りたい。それが生きた証だとしるしたい。それがたぶん、わたしにとっての復讐だと思うから。

「ショートフィルム、考えてるんです。兄の話。その主人公になってくれませんか」

「いいよ、任せなよ。脚本ホンはもうできてるの?」

「じつは書き始めてはいるんですけど。まだまとまってないです」

「オッケー。じゃあまとまったら教えてよ。でも、急いでよ。私ってばいつ消えてもおかしくない人間なんだからさ」

 トーコさんはそう言うと、上着のポケットからメモ帳と万年筆を取り出し、番号を書きつけた。ページをがさつに破って寄越すと、それが電話番号だとわかった。

「それ、私が今週止まってる宿の番号。用意できたらそこに電話して。なるべくすぐによ、いいね?」

「はい、じゃあ今夜じゅうにも頑張って仕上げます」

「オッケー。じゃあ、消えないうちにまた会おう」


     *


 けっきょくトーコさんに電話したのは、翌日の夜になっていた。理由はいくつかあるけど、学校

があったことと、進路面談とその就職先との最終の面談があったこと、そして夜に電話をかけても繋がらなかったから。

 面談の内容は、まあ、ちゃんと働けますかとかそれぐらいのこと。わたしは正直適当に答えていたので、なんて言っていたのか自分でもはっきり覚えていない。そんなことより脚本のことで頭がいっぱいだった。

 脚本と言ったって、本当に簡単なショートフィルムだから、あってないようなもの。

 

 ある海沿いの街で、一人の女が自分のことを紹介する。この世界には二十二歳までに何者かにならないと、黒くなって消えてしまうという噂がある。彼女は先日二十二になったばかりで、いつ消えてしまってもおかしくない。だから記録に残しておこうと思って、自分のことをノートに書きつけている。二日、三日と時が過ぎる。黒くなる時は訪れず、女はとうとう狂って海に身投げをする。でも、彼女は別にコールタールの海に消えることはなくって。ただ黒い水のなかでバシャバシャと泳いでこっちを見るのだ。ばしゃ、ばしゃ、ばしゃ、ねえちゃんと泳げてる? って。


 その脚本――というかメモを書きつけたノートをトーコさんに見せると、彼女は不思議そうな顔をした。

「ひとつ聞いて良い?」

「なんですか?」

「この海に身投げするのってどうやって撮るの?」

「えっと……」

 わたしたちはまた海沿いの通りに集まっていたが。トーコさんの視線はすなわち海に向かっていた。要は「これって私に飛び込めって言ってるわけ?」ということだ。

「高校の近くに使ってない運動場とプールがあって。この時期だと誰ももいないんです。そこで、そこにある消毒槽を勝手に借りて、水と墨汁を流し込んで再現しようと。カメラはできるだけ接写して、黒い水と泳ぐ顔だけ撮るんです。そんなことを考えてます」

「ふーん、なるほどね」

 トーコさんはノートを繰り返し舐めるように見た。撮影については納得したみたい。物語についての感想はというと、

「これは祈りだ」

「祈り?」

「そう。レナちゃんからお兄さんに向けた祈りだね。失踪したお兄さんもこういうふうに笑って犬かきしてるって」

「そうかもしれませんね」

「だとしたら、撮る価値はあるよ。今からやろう。どうせここに女優もロケ地もカメラも、監督もあるんだ。シーン1は私の独白からだったよね。このあいだみたいな感じで自分のことを物憂げに語ればいい?」

「そうですね、モノローグみたいな感じで」

 わたしは大慌てでカメラを取り出す。テープは昨日入れ替えてきた。バッテリーも満タン。イメージは五分以内のショートフィルムだけど、編集も考えるとたぶん三十分くらいのテープが必要。だから一応三十分のを二つ用意しておいた。

「私はいつでも準備OKよ」

 コンクリートの上によじ登って、トーコさんはこないだと同じグレーのトレンチコートを翻した。

「OKです。そう、潮風に黄昏れる感じで。うん、回します。よーい、はい」


     *


 わたしたちは結局八時過ぎまで撮影をしていた。日が暮れたのがだいたい七時前くらい。暗くなるまでは手回しラジオがずっとバッハを流し続けて、日が暮れてからは懐中電灯の光を頼りに撮影した。頼りない光で照らした海を、わたしとトーコさんは撮り続けた。

 いよいよ八時を回ると、燃えカスみたいな匂いのする風も若干冷たくなってくる。潮風がびゅうびゅうと吹き付けて、わたしたちの頬を殴ってまわった。

 わたしはそんなトーコさんの横顔を撮った。特に脚本にはないシーンだけど、撮っておきたかったのだ。ラジオから流れるクラシックは途絶えて、代わりに海の音がする。それからトーコさんが鼻歌交じりに知らない歌を歌っていた。

「走れ、もう戻ってくるな……」

 って、そんな感じの歌詞の歌だった。

「なんですかその歌」

「それ聞いちゃう?」

 トーコさんは不敵に笑みを浮かべる。その顔が暗がりの中でテープに焼き付いていく。

「私、女優になりたいって言ったじゃない。その前はさ、ミュージシャンになりたかったのよ。これはそのときの曲」

「なんて曲なんですか」

「タイトル? うーん、仮だけどついていたのはあったよ。たしか、『走れ、映画よ、走れ』って感じだった」

「映画が走るんですか?」

「メタファーよ。それにそのセリフ、きっとフォレスト・ガンプから取ったのよ。『ラン、フォレスト、ラン』ってあそこ。そこに私が『ニュー・シネマ・パラダイスが好き』とか言ったから、ワケわかんない曲になっちゃった」

「音楽、もうやらないんですか?」

「どうだろ。わかんないや。いまは女優になりたいかも」

 タバコに火を点ける。

 トーコさんはまた静かに息をついて、煙を夜空に浮かべた。今日は一段と空が黒くて、わたしは妙な胸騒ぎがした。このままトーコさんも消えてしまうんじゃないかって、そんな気がしたのだ。

「ねえレナちゃんはさ、ニュー・シネマ・パラダイス、完全版は好き?」

「えっと、最後に蛇足がつくやつ」

「その口ぶりは完全版否定派ね。私もそうだけど」

「だって蛇足じゃないですか。街を出ていったトトに、どうしてまた故郷のかつての恋人との愛なんてものが出てくるんですか。あれは思い出として残ったままのほうがいい。男の余計な欲望が出た悪い例だと思ってます」

「辛辣。でも言わんとすることはわかるよ。私もその意見に大賛成だ」

 吸い止しのタバコをまたトーコさんはコートのポケットにしまい込んだ。

「あと残ってるシーンはどこだけ? ラストの海に飛び込むシーンを残すのみ?」

「そうです。飛び込む直前のシーンは、前に撮った海の映像を継ぎ接ぎして作ろうと思うので、あとはボチャンと飛び込む瞬間と、泳いでいるシーンを撮りたいです」

「学校のプールだったよね。場所は分かるわ。明日の夕方、そうね、同じ時間なら八時くらいから集合でいい?」

「OKです。遅くないと、見回りの先生もいるかもしれないですから」

「じゃあそれで。墨汁、いっぱいいるよね。あと掃除の道具もいるな。レナちゃん持ってる?」

「学校から盗んで来ます」

「ははは、いいねそれ」

 コンクリートを降りる。空は暗い。街灯はまだついているけど、誘蛾灯になって虫がぶつかるたびについたり消えたりを繰り返している。

「じゃあ明日の八時に」とトーコさん。

「はい、明日の八時に」

 わたしは最後に回していたテープを止める。暗くなった空。雲の向こうに見える月の姿を小さく切り取った。


     *


 翌日、わたしは学校が終わったあと教室からバケツとモップ、それから誰かが使い切らずにおいていった墨汁を一本拝借した。バケツにモップ持って校舎を歩いていても「自主的に掃除してる真面目な生徒だ」くらいにしか思われてないみたいで、先生も素通りだった。もっともバケツの中身を見たら、なぜか墨汁が入っていたけれど。

 そのプールがいつから使われなくなったかは覚えていない。少なくともわたしが小学生のころには、もうプールはなくなっていた。

「水を怖がる生徒がいるから」

 って、なくなった理由を昔聞いたことがある。

 その昔、ある女生徒がいたらしい。成績優秀で、将来有望で、都会の大学への学校推薦までもらっていたような秀才。そんな子がある日、何を思ったのか海に飛び込んだらしい。もちろん彼女は助からなかった。目撃した人によれば、飛び込んですぐに「ぼすん」という鈍い音がして、水飛沫が上がり、海面が黒く粟立ったという。そして五秒後には、ずぶぶという音と共に彼女は黒く消えてしまった。

 以来、誰も水に近寄りたいなんて考えない。水の中に入りたいなんて思う生徒がいない、だそうだ。とはいえ泳げないと川遊びもできないから、この野外プールの代わりに、屋内のプールを使っている。それも授業は希望者のみに絞っている。わたしは一応プールを選択していた。泳げないと、兄を探せないし。


 七時。日は傾いて、暗かった。懐中電灯の明かりを頼りにして、小さな消毒槽に水と墨汁とを注いだ。一本丸々いれたらそれなりに黒くなると思ってたけど、意外とそうでもなくって。プールはダークグレーの染みみたいな感じになっていた。

 わたしはその水たまりの近く、プールサイドに腰かけてラジオを聞いた。周波数はいつものところ。今日もヨハン・ゼバスティアン・バッハが流れている。わたしはモーツァルトやベートーベンよりJSバッハのほうが好きだ。あとはヴィヴァルディも好きかな。

 ずっと音楽が流れて、遠くから波の音がして、虫が寄りつく羽音がして。刻々と時間が過ぎていく。小さなモノラルスピーカーからヴィヴァルディの四季、その夏が流れてくる。

 八時まで十分前。まだトーコさんはいない。弦楽器が切なく響くところで、わたしの心はかき乱された。

 八時まで五分前。

 なぜか妙な胸騒ぎがして、プールの周りを見て回った。墨汁のついた指で欄干を触れて回る。いない。フェンスの向こう、雑草だらけの道を抜けないとこのプールには来られない。

 ――トーコさん、場所分かるって言ってたけど大丈夫なのかな。

 八時。

 どこにもいない。不安になってプールの周りを散策し、さらに校舎のほうにも行ってみた。でも、どこにもいない。職員室に小さく明かりがついていて、残業中の先生が大きな欠伸をしているくらいだ。

 ヴィヴァルディが警告するようだ。

「トーコさんが消えたんじゃないか」と。

 でもまだ八時だ。そのうち来るさ。

 雑草をかき分けてプールに戻る。プールサイドには影と湿気に誘われてきたムカデとかダンゴムシとかがいるばかりだった。


 待った。少なくとも三十分くらいは。でもまだ来なかった。

 わたしは約束を破られたことよりも、トーコさんがいなくなってしまったのかもしれないと言う不安が勝って。気がついたら消毒槽を真っ黒にしたまま飛び出していた。

 まずは電話しなきゃと思って、学校を飛び出し、近くにあって公衆電話で電話をかけた。でも出なかった。代わりに店の留守電メッセージだけが聞こえたので、わたしはすぐに「トーコさん、これ聞いたら約束した場所に来てください」とだけ吹き込むと、電話ボックスを出て走った。

 行く場所は決まってた。兄が消えたのと同じ海だ。


 相変わらず岬の埠頭には黒い波が打ち付け、重力が重たくなったようにしてゆったりと水が流れていた。空は必要以上に黒く、どこまでも星が吸い込まれそうな暗い。わたしは必死に飛行機が飛んでないか探したけど、見つからなかった。

「トーコさん、いるんでしょ! まだ消えてないでしょ!」

 返事はない。

 代わりに音があった。風の音と、それを受けた布きれの音。翻ってバタバタと音を立てる。飛びそうになったグレーのスカーフを、海に吸い込まれるよりも前に拾い上げた。自殺者がそうするように、ロープのように固く首に締め付ける。

 トーコさんがいた。コンクリの上、いつものように高く立っている。暗すぎて空と海の境界線がわからない。

「よかった、まだいた。ねえトーコさん、もう九時過ぎてる」

「うん、知ってる」

 コートのポケットから吸い殻を取り出す。昨日吸ってたやつなのか、いま吸ってたものかはわからないけど。とにかく彼女はそれを海に向かって投げ捨てた。空と海の黒に吸い込まれて、音もなくどこかに消えていく。

 彼女はその様子を見ることもなく、二本目のタバコをついばみ火を点けた。

「ねえ、レナちゃんさ。テープ回してよ、いますぐに」

「どうして? 墨汁用意したから、早く――」

「いいから回して。いまさ、女優人生で大一番のアドリブかまそうって思ってんだ。だから、撮ってよ」

 反対できなかった。

 わたしは衝動的にカメラを回した。テープが回転運動を始める。暗い。光がない。感度を上げると画質がどんどん荒れ始める。

「こっち、来てよ」

 女優がわたしを煽る。ハンディカム、手ぶれした映像のまま彼女を追いかける。塀の上をよじ登り、やっとわたしは彼女と同じ視線に立った。

「祈りは通じるし、これは一つの証明だと思うんだよ。私は君に必要とされていたっていうさ」

 固く結ばれていたハズのスカーフが、なぜか風にイタズラでほどけていく。潮風に掴まれて暗い夜空に消えていく。

 かと思った、次の瞬間だった。

 トーコさんは一歩踏み出し、あの黒い海の中へと飛び込んだ。わたしは夢中でテープを回し、ファインダー越しにその姿を追った。

 荒れた電子ビューファインダーの向こうでは、ばしゃばしゃと爆ぜる水音と、粟立つ水面が在った。

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