其の名は記されず

門田秋

其の名は記されず

 嘆くにあらず。


 賢帝として名高い清帝は、そう述べて息を引き取ったと伝えられています。

 賛の国に四十年以上君臨し名君であった清帝は、その六十余年にわたる生涯のなかで、妃はおひとりだけでした。彼は帝であるがゆえ後宮をようしていましたが、こと妃に関しては誰の意見も受け入れず、側室の元へ渡ることはございませんでした。

 まつりごとでは辣腕らつわんを振るい、先帝時代より不安定だった王朝を正し、何事もまず民を思いやり、国という船の舵をとる──清帝とはそのようなおかただったのです。

 民からも官からも愛されかつ慕われた帝は、妃との間に八人もの子をもうけました。東宮たる長子も他の御子たちも皆優秀で、六人目の御子がお産まれになる頃には、ひとりしか娶らなかった帝を責める者はすっかりいなくなっていたのです。

 温厚な人柄に加えて自らを厳しく律することでも知られた帝は、本来であれば何もかもをほしいままにできました。しかし、彼は自らの地位におごることはありませんでした。

 自分のために後宮に集められた女性たちにはもれなく嫁ぎ先を用意し路頭に迷わないようにしたことと、自らは生涯ひとりの女性を愛し抜いたことが、とりわけ国の女たちから尊敬を集めました。それゆえ、賛の国では愛妻家のことを「清する者」と呼ぶようになったと言われています。


 ここまでわたくしがお話ししたことは、賛の国に伝わる歴史書『宝清伝』に記されておりますので、ご存知のかたも多いことでしょう。

 『宝清伝』より前の時代から、歴史書は宮中に詰める宦官が記すものとされていました。『宝清伝』もその例に漏れず、帝の側近であった宦官が記したと伝えられています。

 清帝の今際のきわの言葉もこの宦官が聞きとったとされているのですが、筆者にもかかわらず、その名は『宝清伝』に記されていません。

 これは公には伝えられていないのですが、

 名高い帝にとっては醜聞になるからでしょうか。賛の国には『宝清伝』以外にも史料は数多あまたあるものの、この宦官の名はどこにも記されていないのです。

 帝と宦官の間にどんな物語があったのだろうと歴史書を読み返してみると、行間──何も書かれていないところに思いを馳せたくなりませんか。



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