ドア/こなくそ

真花

ドア/こなくそ

 おっかなびっくり開けたドアから漏れて来た瘴気に息を詰める。閉じて、逃げる訳にはいかない。だが、入ることも出来ない、それは最初から分かっていたことだが、入らなくて済むことの安堵と、入らないままでいる危機のどちらが重心を持つか、咄嗟に答えが出ない。瘴気は必ず私を蝕む。毎度のことだ。蝕まれてもその内に、いや、努力があるが、苦痛もあるが、いつもの私に戻る。分かっているが、その長いプロセスを思うとため息が出そうだ。私が開けたかった訳じゃない。君が、開けて欲しいと言ったのだ。その声をキャッチした私は、速やかにドアの前に立った。君と声だけしかやり取らなくなってどれだけ経っただろう。

「来たよ」

 ドアの隙間を這わせるように声を放つ。君のテリトリーに私が入れていいのは声までで、私自身じゃない。本当は前みたいに会いたい。その手を握りたい。禁じたのは君だ。「僕にはその資格がない」と最後に残る君の姿は俯いていた。

 ときに電話をした。生産性はない。くるくる踊るだけの電話だ。

「うん」

 声は弱々しくはなかった。私の緊張を少し解いて、空いたところに別の緊張が入った。何かを伝えようとしている。ここに私を呼んだ理由だ。悲しく鳴らないで欲しい。だが、予感は、緊張を新たに生んでいる。

「どうしたの?」

 君は準備をする、気配がする。ドアの隙間から漏れ出て来る瘴気がいっそう濃くなる。時計の音がしないから、時間は刻まれずに続いて、徐々に間延びして行く。引き延ばされた時間が上げる悲鳴が私の腹を締め付ける。このままここで永遠に堕ちるのは嫌だ。君の目の前だけど、こんなところで終われない。

「僕は惨めだ」

 それは、そうだと思う。だが、決して私の口からは言えない。「そんなことないよ」と半分嘘の言葉をこれまでも吐いて来た。でももう半分は真実なのだ。君が君でいること自体に価値がある。でもそれは私にとってだけかも知れない。

「そうなんだ」

 君はどんな言葉を期待していたのだろう。元々何かを期待して話すことを君はしないのは知っているけど、今この場面ではやはり否定を望んでいたのではないだろうか。でも私はそうすることをやめた。君の沈黙が意味するものが分からない。

「僕は、惨めであることをやめる」

 私はひゅっと息を呑む。君が続ける。

「仕事に行く。継続的に行く。行ったり行かなかったりを繰り返したことが惨めさを生んでいると思う。今回は長い休みになったけど、だから最初はものすごい惨めな日々を送るだろうけど、行く」

 私は君の言葉を反芻する。君が仕事に行けなくなるのは病気だ。だけど職場の人も、君も、病気だから不在と言う迷惑をかけていいとは微塵も思っていない。ハラスメントをする人がハラスメントをするとき、必ずその場所に存在して、本人の意志で行なっている。君の病気では、その場に不在になるし、君の意志でもない。ハラスメントの人は罰を喰らうこともあるが、本人は気負いなどしない。君は、罰を得るかも知れないと怯えながら、不在の間に何が起きたのかを知ることも不十分で、気持ちを擦り減らした。擦り減った気持ちで、病気がまた悪くなって、繰り返した。

「それはいいことだけど、対策は何かあるの?」

「僕は惨めじゃない、とツッパる」

 気合いや根性でどうにかなるものじゃない。そんなこと君だって分かっている筈だ。でも、言われてみるとそれは存外いい方策かも知れない。どうせ惨めなのだ。安定的に働くようになって、周囲が君が休んでいたことを忘れるくらいまでは、心臓をおろし金で擦られるような気持ちを続けるしかないのだ。

「ツッパれるくらい、心の力が回復したんだね」

 瘴気の重さが減る。私の体から力が半分抜ける。

「余裕ある僕になりたいと思った。だけど、状況はそれを許さない。なら、こなくそ、ってツッパったらどうかって。無理やり、いい感じの自分にするんだ。……上手く行くかは分からない。だけど、これまでして来なかったことを試す価値はあると思うんだ。とにかく朝に行くことに気合いの全てを注入するんだ。後のことは考えない」

 私も朝が辛いよ、と言いかけて、やめた。同質のものとはとても思えない。全く違うこととか、ズレていることを、同じように分かったと言うのは、君を傷つけることになる。何度も失敗して学んだ。分からないと言うことが一番いいこともあるのだ。正しい共感には分からなさが含まれる。

「壮大な実験をするんだね」

「もし、上手く行ったら、きっとそのときには、会いたい」

「今じゃダメなの?」

「僕はあなたに会うのに不十分過ぎる。惨めさに歪んだ顔を見せたくない」

 どんな顔だっていいのに。でも君が許可しないのなら私はこのドアの内側には入らない。ここまで来たって入らない。君の実験の結果を待とう。私は私の人生を進めていかなくてはならない。

「分かった」

 君は少し黙って、漏れ出た瘴気を回収するような間。

「じゃあ、今日はありがとう」

「うん。じゃあね」

 ドアが閉まる。

 私は息を吐く。やっぱり蝕まれている。鉛が肺の底に沈澱したような重さ。あと何回これを繰り返すのだろう。君の実験は上手くいくのかな。いかなかったらまた今日が来る。そのときには別の案を出すだろう。そうならないことを願うが、予測はなる方に傾いている。君はきっとしんどい。だけど、私も同じではない形で擦り減るんだ。死ぬまで繰り返すのだろうか、それともどこかで安定するのだろうか。もしくは、社会に関わることを放棄する日が来てしまうのではないか。社会的な死だけでなく、肉体的な死の可能性だって常にある。いくらでも気持ちを刻むことが出来る。

 私のためのドアはあるのだろうか。


(了)

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