白き聖獣と朝露の花

如月姫蝶

白き聖獣と朝露の花

「お待ちください、レオキリアン様!」

 デニウスは、愛馬を駆りながら、前を走る疾風へと呼び掛けた。

 彼の馬よりも速く、一人の少年が、己の足で疾走しているのだ。神殿内の訓練場で、輝かしい金髪を鬣のごとく棚引かせながら。

 少年——レオキリアンは、肉体強化魔法の使い手である。魔法の力で、人の身でありながら、駿馬よりも速く走ることができる。

 そのうえ、傍系とはいえ皇帝の血統に連なる皇子でもあるのだ。

 デニウスは、魔法を磨くべく神殿にて生活しているレオキリアンの守役もりやくだ。

 この神殿は、軍神の妹にして身体壮健を司る女神——タッハーヤを祀っている。そして、肉体強化魔法の研究や指導を盛んに行なっているのだった。


「朝露の花あっ!」

 馬上のデニウスは、疾風と化した主君めがけて、後方より声を張り上げた。

 それは、強力な攻撃呪文……などでは、決してない。高貴な身分であれば誰もが知る、比喩的表現なのである。

「皇子よ、今日こそは、朝露の花につきまして、とっくりと話し合わせていただきますぞ!」

 すると、レオキリアンの姿は、忽然とかき消えた。もしもデニウスの愛馬が愚かなら、そのまま訓練場を囲む柵に激突していたかもしれない。

 皇子は、ただ走るのをやめて立ち止まっただけであり、デニウスの後方に独り佇んでいた。

 レオキリアンは、十三才。皇族に多く見られる美しい金髪が、その肩に流れ落ちている。

 彼は今、ひどい膨れっ面をしており、年齢よりも少しばかり幼く見えた。

「デニウス……俺の体の秘密を知っているおまえが、どうしてしつこくその話をするんだ!」

「朝露の花を咲かせることは、皇族方のしきたりにございますれば……」

「俺は、皇族として出世できなくとも、この神殿で肉体強化魔法を極められれば、それでいいんだ! この俺に女友達を持てと言うのなら、まずは、俺様と同じくらい肉体強化魔法を使いこなせる女を連れて来い!」

 皇子は、守役にきつく言い渡したのだった。


 吾輩わがはいは、毛長獅子けながじしである。野生のそれより体が大きく、たてがみをはじめ全身を覆う毛が、白く長く艶やかなのだ。ただし、名前は秘密である。

 ただの野獣ではなく聖獣であるので、タッハーヤ神殿の中庭にて、人の出入りを禁じて、気儘に過ごせる身の上なのだ。

 今日も今日とて、腹や肉球をさらして草の上に仰向けに寝転がり、午睡を満喫していた。

「ほら、見てごらん。あれが聖獣だよ。神殿では聖獣を飼うのが習わしなのだ」

「うわあ、真っ白でモッフモフだぁ……でも、ライオンって、人を襲うよね?」

 吾輩は、耳をぴくつかせた。人の出入りは禁じたはずである。

 最初の声はデニウスのものだ。しかし、もう一つの声を、吾輩は知らなかった。

 おそらく、未だ声変わりしていない男児であろうと思われたが……

「ほら、この通り大丈夫だよ。聖獣は、獣の姿をしていても、人を襲ったり食べたりはしないものなのだ」

 吾輩は、微睡に閉じていた両眼をかっと見開き、血走らせることになった。

 なんと、デニウスめが、毛むくじゃらの右手を握り締め、仰向いていた吾輩の口に、やおら、肘まで突っ込んだのである。

 喉が苦しいうえにくすぐったいではないか! 無論、人間ごときが、その毛の量や質において、毛長獅子に及ぶべくもないのだが。

 デニウスの言う通り、聖獣たる吾輩は、人肉など食さないが、噛んでやりたくなってきたぞ……

「ねえ、ライオンが苦しそうにしてるよ?」

 デニウスが同伴した男児が言った。そうだそうだ! もっと言ってやってくれ! 物理的に反論を封じられている吾輩の代わりに……

「そなたは、心優しき良い子だな」

 デニウスは、殊更に褒め称えて、ようやくその腕を引っこ抜いたのだった。


 見知らぬ男児だが、年は十才くらいだろうか? 髪は黒く短く、華奢な体に奇妙な意匠の服を纏っている。まさか、デニウスめ、異国どころか異世界から拾ってきたのではあるまいな?

「そうだ、ケイ、この神殿で暮らしてくれるなら、この聖獣に好きに呼び名を付けて良いぞ?」

「シシシンオー!」

 デニウスが提案して、ケイと呼ばれた子供は即答した。

「だめ? ぼくの世界に、昔、そういう渾名の王様がいたみたいなんだけど……獅子心王しししんおう

 デニウスは、復唱を試みたが、「ちょっと言いにくいな」と、難色を示した。

「じゃあ、ガオライガーとか、マジュージャーレオとか……」

「それも、そなたの世界の諸王の名か?」

「まあ、そんなもん」

「後者を縮めて、レオではどうかな、呼びやすい」

「ガオライガーだと?……響きがかっこいいではないか」

 ケイは、二度ばかり瞬きした。

「レオ」を推したのは、眼前のデニウスだ。しかし、「ガオライガー」を褒めたのは誰だとばかりに、その視線が左右に動いてから吾輩に辿り着いた。

「レオって、言葉を話せるの!?」

「そうとも。吾輩は特別な存在なのだ」

 レオ呼びが決定事項と化したらしいことはともかく、ケイの驚いた顔は、なんだか好ましかった。

 デニウスめは、悪党じみた笑みを浮かべると、「腹をさすってやるのが何よりの挨拶だよ」と、そんなケイを唆したのである。


 おい! 吾輩の腹は敏感なのだぞ!

「こんにちは。ぼくは、石和圭いさわけい。こことは別の世界の日本という国から、デニウスさんに連れて来られたんだよ」

 絶妙に優しい手つきで敏感な腹をさすられたら、甘受してゴロゴロと喉を鳴らすしかないではないか! この子供、モフりの天才かもしれん。それにしても、ケイは笑顔でさらっと大変なことを言ったような気がする……

「ケイとやら、おまえは孤児なのか?」

 吾輩は尋ねずにいられなかった。もしもデニウスが、親元に無断で異世界の子供を転移させたというなら、穏やかではない。

「ぼくの親なら、生きてるよ。でも、子育てはしんどいからって、ぼくのことを施設に捨てちゃった。デニウスさんの言う通り、こっちの世界で魔法使いになれるなら、ぼくはそれがいい」

 ケイは、さばさばと言ってのけた。

 吾輩は、がばりと跳ね起きた。匂うぞ、匂うぞ、魔法の才覚の匂いだ。デニウスもケイの才能を察知して転移させたに違いない。

 吾輩は、もう一度くんと鼻を鳴らした。微かな違和感を覚えたからだ。

「ケイ……おまえ、男臭くはないのだな」

「そりゃあそうだよ、ぼくは女だもん。お転婆だって言われるけどさ。レオは……オスだよね?」

 ケイは、吾輩の股間を一瞥してから、笑顔を見せたのである。

 途端に、吾輩の頭は沸騰した。気づけば、ケイとデニウスを振り払って、その場から走って逃げ出していた……


「レオ、どうしちゃったんだよ……あれ? 最初は四本足だったのに、途中から二本足で走ってない?」

 突然取り残されたケイは、戸惑いながら、傍らのデニウスを見上げた。

「いやはや、なんとも……」

 デニウスは、少しばかり出っ張った腹を揺すって大笑いしたのだった。


 レオキリアンは、一気に私室まで駆け戻ると、とりあえず服を探し身に付けることから始めた。

 中庭にも服の一式を持参していたのだが、急に逃げ出すことになったため、回収できなかったのだ。


 レオキリアンは、女性が苦手だ。

 高貴な身分ゆえ、元々彼を取り巻く女性たちといえば、美しく着飾り社交界での情報戦に従事する者たちだった。狡知で攻撃的な存在でありながら、総じて体は弱く、触れただけで壊れてしまいそうですらある。もう、どう接してよいやらわからない。

 魔法を極めるべく神殿に入り、神官の中にも女性はいるが、俗世の貴婦人よりは物腰が抑制されていることに一安心していたのだが……

 デニウスは、朝露の花を咲かせろと言う。しかし、それには女性と協力することが不可欠だ。

 レオキリアンは、朝露の花など咲かせたくはない。そもそも女性が苦手だからというだけではなく、彼の体には秘密があるからだ。

 レオキリアンは、彼の父が咲かせた朝露の花である。体の秘密は、母方の血統に潜んでいたのかもしれないが、確かなことはわからない。

 彼は、獣人だ。人と獣の二つの姿を持ち、自分の意思でどちらかの姿を選べる存在なのである。

 獣人は非常に稀であり、皇族に限れば、記録を漁っても前例が出てこない。そして、獣人とは、子供向けの寓話において、常に悪役を担わされるような存在でもあるのだ。

 彼が朝露の花を咲かせてしまったら、その血が子孫に受け継がれてしまうではないか!


 ただ、傍系とはいえ皇子であるレオキリアンは、いつ命や身代金を狙われても不思議ではない。彼の体の秘密は、身を守るためにはむしろ好都合だと、守役であるデニウスは言ってくれた。

 レオキリアンは、神殿に入って以来、折に触れて聖獣の毛長獅子として過ごすようになった。聖獣を演じる際には言葉遣いも変えるなど、工夫はしているつもりだし、彼が獣人であることは、高位の神官たちにしか知らされていなかった。

 そんな凪いでいた私生活に、まるで男児のようだがそうではないとんでもない異世界人が降って湧いたのだった……


「こちらは、レオキリアン様。神官としては未だ見習いだが、肉体強化魔法の使い手としては、神殿内でも指折りの存在だ。そして、ここエルナタリア帝国の皇子であらせられる。ケイよ、今日からはレオキリアン様が、そなたに魔法を教授する師であるぞ」

 翌日、デニウスは、神殿内の訓練場で、さも初対面であるかのように皇子とケイを引き合わせた。主君について語る時、デニウスは、我が事のように胸を張るのだ。

「初めまして。ぼくは、圭。異世界の日本という国からこちらへ来たばかりです。魔法使いになって誰かの役に立ちたいので、よろしくお願いします」

 神官用の白い運動着を纏った少女は、ぺこりと一礼してはきはきと抱負を語った。その肢体は、小柄ながらすらりと引き締まっている。

 そして、それ以上にレオキリアンにとって印象的だったのは、彼が皇子の身分だと知っても、眼前に肉塊をぶら下げられた獣のような反応を、ケイが一切示さなかったことである。彼女は、社交界の貴婦人たちとは随分と異なる存在らしい。

「俺のことは、レオと呼んでかまわないぞ」

 皇子は、気を良くして言った。

「え? それだと、聖獣の呼び名と同じになっちゃいますけど」

「それでいいんだよ!」

 実は獣人だと明かすわけにはゆかないものの、皇子は胸を叩いたのだった。


「肉体強化魔法は、大きく二つに分類される」

 金髪の皇子は、説明した。

「一つめは、筋肉を硬化して防御力を上げる防御魔法。デニウスはこれを使えるから、聖獣の口に腕を突っ込むなんて無茶をする」

 皇子は守役を睨みつけ、守役は白々しく目を逸らした。

「二つめは、足を速くする機動魔法。俺やケイは、こっちに適性がある」


「軍神の妹よ、肉体の守護者よ、我は、汝を容れる器なり……」

 デニウスは、十三才の少年と十才の少女が、基礎的な呪文の詠唱を行うのを見守りながら、数日もすれば、ケイの身にも訓練の効果が現れるのではと予想していた。

 しかしながら、彼は甘かった——


 華奢な少女が疾風と化して、彼の愛馬を追い抜いた。さらにそれを、金髪を棚引かせた少年が嬉しげに追い抜いて、飽きることなく訓練場を周回する——

 そんな光景が、ものの一時間後には繰り広げられることになったのだから。

 ケイの才能は、デニウスの予想よりも余程早くに開花したし、少女を一番弟子とした皇子の機嫌の良さも、彼の予想を遥かに上回っていた。


「はぁー楽しかった! レオ皇子ってすごいね! ぼくだって、風を感じたことならいくらでもあったけど、風になったのは初めてだよ」

 ケイは、初めての訓練を終えた後、神殿の中庭で、聖獣の腹に横顔を預けながら言った。皇子に、聖獣と触れ合えば疲れが取れると吹き込まれたのである。そんな皇子が中庭に先回りして毛長獅子へと姿を変えたなんて、知る由もない。

「そうだろうとも。あの皇子はすごいぞ。帝国随一だと、吾輩も思うぞ」

 興奮冷めやらぬケイの枕になってやりながら、毛長獅子はちゃっかりと言ったのである。

「今日はほんとに、鉄矢てつやたちと走り回って遊ぶよりもわくわくしたなー……」

 そこで、ぴくりと耳を動かした聖獣である。

「テツヤ? 誰だそれは……男なのか?」

 どこか咎めるように尋ねたのだった。

「うん。鉄矢は、元の世界で同じ施設にいた男の子だよ。一番仲のいい友達だったけど、あいつとはもう絶交だ。だって、鉄矢のやつ、デニウスさんに怪我させようとしたんだから!」

 レオには話が見えなかった。ケイは、異世界転移に至ったその顛末を語り始めた。


 圭たちが暮らす施設は、日本の片田舎に存在した。町おこしのために毎年市民マラソンが開催されるのだが、何年か前にランナーが心臓発作を起こして亡くなるという出来事があった。

 だから、夜更けに、まるで道に迷ったように、施設の周囲を走り回る人影を見掛けた時、圭や鉄矢や仲間たちは、ランナーの幽霊ではないかと盛り上がったのだ。

「ああいう幽霊は、目の前にゴールテープを張ってあげると、それを切った瞬間に成仏するらしいよ」

 圭は、都市伝説を集めた本に書いてあった知識を披露した。

「どうせ張るなら、こっちにしようぜ。一回やってみたかったんだよ」

 鉄矢は鉄矢で、倉庫からワイヤーを持ち出してきた。夜道にワイヤーを張るという悪戯のせいで人が亡くなったと、いつだったかニュースでやっていた。

 そして、他の子供たちも鉄矢に賛成したのである。

 圭は、彼らを振り切り、謎の人影目掛けて全力疾走した。

「おじさん、止まって! この先にワイヤーを仕掛けたバカがいるんだ! 幽霊だったら、ワイヤーにぶつかっても、体がちぎれたりはしないのかもしれないけど……」

 その人影は、幽霊ではなくデニウスだった。彼は、出会い頭に少女の魔法の才覚を察知して、「奇跡だ! 女神様のお導きだ!」と感涙にむせいだのである。

 実のところ、ちょっと酒臭かった。

「なんでも、デニウスさんは、主君と喧嘩した後に自棄酒やけざけして、酔った勢いで異世界への魔法陣を起動しちゃったんだって。で、転移した先で座標を見失っちゃって困ってたらしいよ」

 しかし、圭との邂逅をきっかけに冷静さを取り戻し、彼女を伴って無事に帰還したというわけだ。

「あ……デニウスさんの主君って、レオ皇子だよね? じゃあ、ぼくと出会った時に酔っ払ってたってことは、皇子には内緒にしたほうがいいかも……」

「俺はあいつと喧嘩なんてしてない! あいつが変なことを言うから、ちょっとばかり怒っただけだ」

 ケイは、毛長獅子の腹に両手をついて乗り上げると、その目を覗き込んだのである。

「あれ? レオ、その喋り方って……」

 長い睫毛に縁取られた澄んだ瞳が、レオのことを真っ直ぐに見下ろしていた。

 レオの頭は、またもや沸騰した。彼は、四本足の全力疾走で、その場から逃げ出したのである。

 ケイだけではなく、衣服を預かり物陰に控えていたデニウスのことも置き去りにして……


 数日後、雨が降った。

「ケイ、今日は訓練は休みだぞ」

 金髪の皇子は、どこか緊張した面持ちで言った。

「あれ? なんだか甘くていい匂いがするね」

 レオは、小さな袋をケイに突きつけた。

「食べてみろよ」

「わ、クッキー?」

 袋を開けたケイは、顔を綻ばせた。

「うん、おいしい! 豆がカリカリしてて香ばしいね」

 蜂蜜風味のクッキーに、日本では節分に撒くような炒り豆が、まるごとコロコロとあしらわれているのだった。

「おお、口に合うか! 実は俺、クッキーといえば、これじゃなきゃダメなんだよ」

「レオが作ったの?」

「まーさーか! 俺様は機動魔法一筋だぞ、料理なんてしない。俺が神殿に入る時、デニウスだけでなく、城の料理人も付いて来てくれたんだよ。で、時々好物のこれを作ってもらってるんだ」

 レオとケイは、出会ってからの数日で、まるで友達のような口を利き合うようになっていた。レオが望んだことである。

「今日はこれから、神殿が運営する孤児院に、このクッキーを差し入れに行くぞ!」


(……どうしてこうなった……)

 レオは、心の中で独りごちた。

 その眼前で、防御魔法を使ったデニウスが、よじ登れる遊具として孤児たちに重宝されていた。

 ケイはケイで、勉強中だった孤児たちの輪に加わり、ここエルナタリア帝国について学び始めていた。

 帝国は多神教を奉じており、タッハーヤ神もそのうちの一柱である。

 皇帝が教皇を兼任しており、政治も信仰も掌握している。

 また、現在、帝国の国力は充実しているため、他から戦争を仕掛けられる危険性は低い——

 そうした話に、目を輝かせて聞き入っているのである。

「ケイ、そろそろクッキーを配って帰ろう。俺ははなから、差し入れするだけのつもりだったんだ」

 レオは、彼女に耳打ちした。

 レオとて、慈善が皇族や神官の責務であることは弁えている。しかし、幼児は貴婦人以上に壊れやすく感じられて苦手なのである。

「そうなんだ。ぼくはもっと勉強したいな。今日じゃなくてもいいからさ」

 ケイが浮かべた清々しい笑みが、レオを強かに打ちのめした。

 レオは、得意の機動魔法以外のことを勉強するのが大嫌いなのだ。「勉強したい」なんて言葉は、下手な攻撃呪文以上に彼を戦慄させたのである。

「だって、ぼくは、こっちに来たばかりなんだよ? この世界のことを学ばなくちゃ、生きていけないよ」

 いやいや、機動魔法という一芸さえ磨けば、充分に生きていけるはずだが……

「ねえ、レオ、このクッキーってさ……小さな子供が食べても大丈夫なの?」

「何言ってんだよ。俺は、子供相手の慈善の贈り物は、いつだってこのクッキーに決めてるんだよ」

 ケイは何かを気にしていたが、レオは、持参したクッキーの小袋を、せっせと配り歩いたのである。

 子供たちは歓声をあげ、レオの好物の甘い香りが立ち昇る。なにしろ、蜂蜜と豆を使った、おいしくて栄養たっぷりのクッキーである。


 それは、ようやく役目を果たせたとばかりに、レオが、孤児院を辞去しようとした時だった。

 三才くらいの子供が一人、ぺたりと座り込んで、ぼんやりとていた。ケイは、それを見逃さなかった。

「きみ、大丈夫? あーって、声出してみて」

 ケイは、駆け寄り、呼び掛けた。かつて暮らしていた施設で学んだ対応である。

 しかし、子供が反応しないため、その背中を強く叩いたのである。

「ケイ、何やってんだよ!」

 レオも駆け付け、子供の顔色が悪化するのを目撃した。

「まさか……毒? 俺、回復魔法が使える神官を呼んでくるよ!」

 レオは、一陣の疾風と化して駆け出した。

 この孤児院は神殿の敷地内にあり、回復魔法の使い手が常駐する詰め所に近いのだ。

 

 子供の背中を叩いても効果がない。ケイは、子供の背後から腕を回して、その胃の辺りを、握り拳でぐいっと押し上げた。

「どうしたのだ?」

 そこへ、デニウスもやって来る。

「この子、クッキーを喉に詰めたみたい。吐き出させないと、息ができなくて死んじゃう!」

「既に顔色が悪いな。やむを得ん、少々手荒に行くぞ!」


 神官を連れて戻ったレオは、とんでもない光景を目にした。デニウスが子供の両足を掴んで逆さ吊りにして、ケイがその背中を叩いていたのである。

「何やってんだよおまえたち!」

 その時、逆さ吊りの子供の口から、何かが落ちた。それは、間違いなく、贈り物のクッキーに使われていた炒り豆だった。


「この子は、俺のクッキーで死にかけたのか……」

 レオは、癒し手の詰め所にて、寝台に乗せられた子供を見下ろした。

「皇子よ、既に呼吸も安定しております。あとは我らの回復魔法で事足りましょう」

 癒し手の神官は、穏やかな口調で言った。

「レオ、癒し手を呼んできてくれて、どうもありがとう」

 ケイは、皇子の手を握った。

「ただ……実は、ぼくが育った施設では、子供が五才になるまでは、豆を食べさせないんだ。小さな子供ほど喉に詰めやすいから。それから、一才になるまでは蜂蜜もダメ。赤ん坊には毒になっちゃうからだって。魔法が使えるこっちの世界では、事情が違うかもしれないと思ったんだけど……」

「ケイよ、こちらの世界でも、幼子が食べ物を喉に詰まらせるのは、ままあることだ。しかし、五才までは豆を食べさせるななどと言っても、庶民は聞く耳を持つまい」

 デニウスの言葉に、ケイは目を見張った。

 帝国の国力は充実しているというが、庶民が入手できる食材は限られているのかもしれない。元の世界でもそうだった。

 ケイは、小さな悲鳴をあげた。彼女がレオの手を握っていたはずなのに、急に、痛いほど強い力で、彼に握り返されたからである。

「ケイ……おまえは、魔法の才覚に恵まれているばかりか、物知りで勇敢なんだな。どうか俺と一緒に、朝露の花を咲かせてくれないか!」

 皇子の両眼は、燃えるように輝いていた。

 ケイと二人でなら、どんな困難も乗り越えられる——彼はそう確信したのである。


 それから程なくして、教皇カンヌマリアが、タッハーヤ神殿の視察に訪れた。

 彼女は、教皇にして皇帝であり、文字通り帝国の頂点に君臨する人物である。

 有志の神官たちにより、肉体強化魔法を駆使した御前試合が行われ、機動魔法の部門では、見事レオが一位、ケイが二位に輝いたのである。

 戦争の足音すら聞こえぬ今、帝国の機動魔法の使い手は、スポーツ選手のような形で生きてゆくこともできるらしい。

 その後、レオキリアンは、神官服ではなく皇子の正装を身に纏い、カンヌマリアに内密での拝謁を願い出たのである。


「皇帝陛下に申し上げます。わたくしレオキリアンは、この度、朝露の花を咲かせることとなりました!」

 普段の彼よりは、余程凛々しい物腰だった。

「何?……そなた、よわいはいくつであった?」

「十三才でございます」

 玉座のカンヌマリアは、なぜかほろ苦い表情を浮かべた。その頭上に結い上げられた髪は、皇子と同様に輝かしい金色である。

「レオキリアンよ、そなた、朝露の花のしきたりを、どのように心得ておるのだ?」

「はい。皇族の結婚には政略が付き物ですが、皇族であっても、初めての恋人だけは、政略を度外視して選ぶことができ、第一子をもうけることも許されると承知しております」

 それは、エルナタリア帝国の皇族の血が濃くなりすぎぬよう工夫されたしきたりであり、皇族にとっては、生涯でただ一度、心のままに恋することが許される機会でもあるのだ。

「私は、こちらのケイを選びました! ケイの了承も既に得ております!」

 レオキリアンは、高らかに宣言したのである。

「ちょ……ちょっとレオぉ、ぼく、そんなの聞いてないよぉ……」

 まさか、傍らに控えた張本人が、困りきって泣き出しそうな反応を示すなんて、皇子は思ってもみなかったのである。

 カンヌマリアは、さもありなんと、神官服の少女に視線を移した。

「ケイとやら、先程のレオキリアンに次いでの準優勝、見事であった。聞けば、そなたは、異世界よりエルナタリアへ参ったばかりというではないか。そなたにも言い分があろう、述べてみよ」

「あの……ぼくは、この前、レオと一緒に孤児院を訪ねました。その時、『俺と一緒に、朝露の花を咲かせてくれ』と頼まれて、『うん、いいよ』と答えました。けど……朝露の花がどんな花なのか知らなかったんです! ぼくは、以前暮らしていた施設で、花壇の世話が得意だったから、そういう用事を頼まれたんだとばっかり……レオ、ごめんなさい!」

 ケイは、皇子に向かって、直角にお辞儀した。

「……とのことだが?」

 レオキリアンは、ある種の躍動感に満ち溢れたポーズで、石像のごとく固まっていた。容易くひび割れて砕け散ってしまいそうな風情である。

 反応が途絶えた彼に、カンヌマリアは畳み掛けた。

「朝露の花という言葉の意味、帝国の皇族であれば当然存じておろう。しかし、ケイはそもそも異世界の者ぞ? そなたは、踏むべき手順を諸々すっ飛ばしておろう」

「踏むべき手順……踏むべき手順……」

 レオは、ぶつぶつと繰り返した。


 そうだ、俺だって、父と父が見初めた女性が咲かせた朝露の花なのだ。けれど、おそらく母が秘密を抱えていたせいで、獣人として生まれてしまった事実に、俺は悩んでいる。俺は危うく、母と同じマネをしてしまうところだった。まずは、ケイに真実を打ち明けなければ——


「ケイ、聞いてくれ。実は、この神殿で聖獣として飼われている毛長獅子は……」

「レオ、ごめんなさい、それは知ってる」

 ケイは、レオにみなまで言わせようともせずに、再び直角にお辞儀したのだった。

「なん……だと……」

「初めて魔法の訓練を受けた日に、中庭から急に逃げ出したライオンのこと、ぼく、思わず追いかけて、見ちゃったんだよ……」

 ケイは、上目遣いに、長い睫毛をわななかせた。

「でも、レオは悪いやつらの目を欺くために、ライオンに変身できることを秘密にしてるんだって、デニウスさんに聞いたから……知らないふりをしてたんだ。それに、ぼくが秘密を知ってることがバレちゃったら、もうモフらせてもらえないかもしれないと思って……」

「なんでだよ!」

「だって、あのライオンって、レオの素っ裸なわけでしょ!?」

 ケイは、一旦奥歯を噛み締めてから、羞恥心を振り払うように叫んだ。

 その発想はなかった……とばかりに、レオは打ちのめされ、よろめいたのである。

「なんだと……俺は、おまえのことを妃にしたいほど愛しているというのに、おまえは、俺の体をモフることだけが目当てだったとでもいうのか!?」

「ちゃんと機動魔法の師匠として尊敬してるよ! けど、いつか絶対追い抜いてやるから!」

「させるか!」

「じゃあ、勉強で勝負する?」

「そ、それは嫌だ!」


「のう、デニウス。は一体、何を見せられておるのだ?」

 玉座のカンヌマリアは問うた。

「いやはや、皇子の守役としては少々お恥ずかしゅうございますが、なんとまあ甘酸っぱいことで」

 デニウスは、腹を揺すって笑ったのだった。


「ぼくは、勉強のために、あの孤児院に通いたい」

「そんなに本気で勉強したいなら、俺を頼れよ! 俺なら、専属の教師を手配してやれるぞ」

「いいの?……嬉しい。でも、いつかまた一緒に、あの孤児院に行こうよ。料理人さんと一緒に、クッキーの新しいレシピを考えて」

「……そうだな」

 どちらからともなく手を握り合ったところで、レオキリアンは、はたと気づいた。

「あれ? カンヌマリア様は?」

「とっくにお帰りになりましたぞ。極めてご多忙なおん身にあらせられるゆえ」

 デニウスは、澄まし返って言ったのだった。

「ただ、レオキリアン様へのご伝言を承っております。『朝露の花を咲かせて良いのは、成人した皇族のみである。また、相手も成人でなければならぬ。皇室のしきたりを一から学び直せ』とのことです」

 因みに、皇族の成人の儀は、十八才から二十才の間に執り行われる。

 そして、ケイが十八才になるには、あと八年かかる。

「なんだと! なぜ今まで教えてくれなかった!」

「お話しようとするたびに、機動魔法を使って走って逃げ回っておられたのは、どなたですかな?」

「だからって、自棄酒したのは誰だよ!」

「えへへ……その自棄酒のおかげで、この世界に転移できたのは、誰でしょう?」

 レオキリアンは、声の主を見遣って、眩しそうに目を細めたのだった。




 


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