第8話 ココカラハジマル
翌朝は少し早めに起きて、東京に戻る準備。11時過ぎの新幹線だが、レンタカーの返却などを考えると9時にはここを出る必要がある。早い時間だったにもかかわらず松田家の全員が一緒に朝食の席に着いてくれて、最後まで賑やかな食事を楽しむことができた。そして、いよいよ別れの時。
「お世話になりました。お陰でとてもリフレッシュできた気がします」
「こちらこそ、料理してもらって悪かったわね。また来てちょうだい。今度はちゃんと主人が料理するから」
「はい。有り難うございます、美咲さん。ご主人も腰、大事になさってくださいね」
「おうよ! 七海がいい婿さん見つけて継いでくれるまで、倒れるわけには行かねえな! 今度はオレが料理の腕を見せるから、また来てくれよ」
「はい、必ず!」
「……」
七海ちゃんは最後まで何も言わなかったが、車に乗り込む直前に駆け寄ってきて右手を差し出した。
「色々有り難う。私も頑張るから、玄人も就職活動、頑張ってよね」
「こちらこそ、観光楽しかったよ。七海ちゃんも頑張って。また、君の歌を聴きに来るよ」
「……バカ」
ちょっと照れながらそう言った彼女。最初に新幹線で会った時は近寄り難い感じだったが、今は随分と柔らかい、可愛い表情を見せてくれている。この出会いが東京だったなら……いや、別れのこの時にそんなことを考えるのは止めようか。後ろ髪を引かれる思いをしながら車を発進させる。バックミラーで松田家の皆さんが見送ってくれているのを確認しながら、国道204号線を北に向けて走り出した。
玄海町を勧めてくれた同僚に博多駅でお土産を購入し、自分用にもお菓子や明太子、それに新幹線の中で食べる弁当などを買い込む。新幹線に乗り込んだ時はまだ心が玄海町に残っていて寂しさも味わったが、少しずつ東京生活の厳しい現実も思い出されて複雑な気分だ。
ふとスマートホンの写真フォルダーを見返して、再び玄海町のことを思い出す。観光している間や夕食の時にふざけて撮った写真も入っていて、写真の中ではイキイキとした笑顔の七海ちゃんが。彼女はこれから板前をしてくれる誰か素敵な男性と結婚して、あの民宿の女将としてやっていくのだろうか。
そんなことを考えながらぼーっと写真を見ていると、メッセージが入る……美咲さんからだ。ご主人が退院したあの日、食材の買い物を引き受けた際に『何かあったら連絡して』と、アドレスを交換したのだった。あちらを出る前に七海ちゃんともアドレスを交換したが、まさか美咲さんから先にメッセージが来るとは。
『まだ新幹線の中かしら? 就職先が決まったら連絡ちょうだいね。もちろん、ウチに就職してくれてもいいわよ。七海が寂しそうだし』
と、文面では本気なのか冗談なのか分からない内容。写真で彼女の笑顔を見直して、彼女が『寂しい』と思ってくれるなら……そんな考えが心の中に芽生えた。ただ今はまだ玄海町を名残惜しいと思う気持ちが強すぎて、冷静な決断はできそうにない。
──東京に戻ってから、ゆっくり考えよう。
結論は先延ばしにして、
『有り難うございます。考えてみますね』
とだけ美咲さんに返事し、ゆっくりと目を閉じた。東京まではまだまだ時間がかかる。弁当も食べたし、少し眠ることにしよう。
三ヶ月後、駅前でスケッチブックを持って立っていた僕の前を一台の車が通り過ぎ、近くのレストランの駐車場で停まった。僕が駆け寄ると相手も車から降りてきてこちらに走ってくる。そして勢いよく僕に抱きついた。彼女がやっていたヒッチハイクの真似を思いつきでやってみたけど、他の車が止まったらどうしようかとちょっとドキドキした。
「おかえり!」
「ちょっ……七海ちゃん!?」
「『ちゃん』はやめてよね」
「あー、まだ慣れなくて。じゃあ、七海……ただいま」
「おかえり、玄人!」
玄海町の観光から東京に戻って、転職活動をしようかとも考えた。でも、松田家の人々……七海のことが忘れられず、その思いは日に日に強くなるばかり。電話やメッセージで頻繁に連絡を取っていたのもあるかも知れない。それに加えて美咲さんが料理人向きだの、その腕で会社に就職するのは勿体ないだの……半分勧誘じみたメッセージをくれるものだから、ついその気になってしまった。でも、後悔はしていない。自分の腕が活かせるのなら、こういう道もアリだろうと今は思える。
「さあ、乗って、乗って。ちょっと寄りたい所があるから」
「あ、うん。じゃあ、運転よろしく」
前回も通った、ちょっと遠回りの海沿いの道。ドライブを楽しみながら玄海町に向かうと、彼女が車を停めたのは『浜野浦の棚田』の駐車場。車を降りて彼女に手を引かれながら展望台まで行き、『恋人の聖地』のモニュメントの横に立たされた。棚田には水が張られていて、夏の眩しい日差しを反射する。前回は見られなかった景色だ。
「これ、持って」
「はい」
モニュメントの鐘から伸びた紐の片方を持つように言われる。彼女は近くにいた人に声を掛け、自分のスマートホンを渡して写真を撮ってもらえる様にお願いしていた。その後走ってモニュメントの横に戻り、彼女ももう片方の紐を掴む。
「じゃあ、撮りますよー。はい、チーズ! ……カシャッ!」
「ありがとうございます!」
撮ってくれた親切な人からスマートホンを受け取ると写真を眺め、とても満足そうに笑っている。そして僕にも写真を見せてくれた。
「良く撮れてる」
「あ、ああ。なんかちょっと恥ずかしいけど……」
「この前来た時、今度は恋人と来るって言ってたでしょ? こんなに早く願いが叶って、良かったね」
「ハハハ、そうだね」
恋人……正確にはもう婚約者かな。東京にいる三ヶ月の間に彼女と結婚を前提にお付き合いすることになって、暫くは民宿で板前見習いとして働くことになっている。僕の腕前ならすぐにでも民宿を任せられると美咲さんには言われたが流石にそれは無茶なので、まずは従業員扱いで働かせてもらうことにした。
「なに? 不満でもあるわけ?」
「いーや、トントン拍子に事が運びすぎて、ちょっとビビってるだけ。でももう覚悟はできてる。これからよろしくね、七海」
「うん! こちらこそ!」
一度旅行で訪れただけのこの地で、しかも前職とは全く違う業種で働こうなんて自分でも思い切ったことをしたものだと呆れている。でも彼女の笑顔には、それだけの決断をする価値があると思った。それに玄海町のこの雰囲気は、自分に合っている気がする。前の会社を退職したときはどうにもやりきれない気持ちだったが、今から考えればここに至るための運命だったのでは? とさえ思えた。
──ここからが僕のスタートだ。
田植えが始まった棚田とその奥に広がる海に陽の光がキラキラ光る。僕たちの前途もきっと輝かしいものだと信じて、七海の手を握った。さあ、二人の新しい生活の第一歩をを、ここから始めよう!
ココカラハジマル たおたお @TaoTao_Marudora
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