第12話 僕らのうちに帰ろう④
実際のところ、伊都はすぐに事務所に帰れたわけではなかった。
警察に手錠を外してもらった後、伊都はヨータと一緒に二十三区内の病院に運ばれた。手錠が擦れてできた手首の傷を手当てし、一晩休み、翌朝から色々な検査をされた。あんなに検査をされたのは、人生で初めてだったと思う。高校の健康診断だって、もう少し簡単だった。
カウンセリングも必要らしい。一晩で終わった誘拐劇で、ずいぶんと大ごとになってしまったものだ。
やっと検査が終わったと思ったら、今度は熱が出た。検査には目立った異常はなかったのだが、強いストレスを受けていたところから、無事に救出されて気のゆるみが出たらしい。急に熱が上がった。軽い脱水症状もあって、数日入院せざるをえなかった。
点滴を受けて、解熱剤を貰って、ただベッドに横たわるだけで時間が過ぎる。
想定外だったのは、今回の一件でついに叔母に連絡が行ってしまったことだ。
家を飛び出したまま何カ月も音信不通で、てっきり怒られるのかと思ったら、そうではなかった。
「良かった……生きてて……。誘拐されたと聞いて、どうしようかと思った……」
病院で再会した叔母は、少しだけやつれたようにも見えた。
叔母が面会に来た時は、伊都はまだ熱が下がりきっていなくて、ぼんやりとした頭でそれを聞いていた。
ずっと叔母にとって自分は厄介者なのだと思っていたので、普通に心配されていたことに少なからず驚いた。家族の情なんて期待していなかったから。
「もう伊都は高校を卒業しているし、叔母さんからとやかく言うのもどうかと思って我慢していたけれど……。うちに帰って来なさい。貴方の部屋は、ちゃんと残してあるから」
叔母は、こんなことを言う人だっただろうか。
伊都は、川越の叔母の家に帰った自分を想像した。今の自分なら、もう少し上手くやれるかもしれない。きっと夕食の支度だって手伝えるし、将来のことも少しくらいは相談できる。それに叔母の家にいても、池袋にある真淵探偵事務所に電車の乗り換えなしで通勤することができる。悪い話ではない。
だけど。
「叔母さん……僕、やりたいことができたんです」
少しずつ話した。家を出た後、しばらくネカフェにいたこと。親切な人に助けてもらったこと。今はその人の元で住み込みのアルバイトをしていること。
「僕、その人の元で……、母さんの行方を探したいと思ってます」
もう、何もできずにうずくまっているだけの子供ではないから。まっすぐに、前を向いて歩いて行きたいから。
叔母は少し驚いた顔をして、しかし、しっかりと頷いた。
「そう。でも、せめて月に一度くらいは連絡しなさいね」
「はい」
熱で
叔母が、少しも伊都のことを厄介者だと思っていなかったと言ったら、恐らくそれは嘘になる。叔母の口からわずかにヤミイトが漏れ出るのを、伊都は何度も見たことがあるのだ。伊都は決して扱いやすい子供ではなかったから、叔母の心労を思えば仕方のないことだったかもしれない。
伊都はヤミイトを気にしすぎて、叔母の本質を見失っていたのだ、きっと。
本当は、伊都が思っていたよりかはずっと、優しい人だった。
「ゆっくり休めばすぐに良くなるって、お医者さんがおっしゃっていたわ。退院する時に、もう一度来るわね」
そう言って、叔母は去っていった。そばにいるとかえって気が休まらないと思っていたのかもしれない。正直に言えばありがたかった。叔母とどう向き合っていけばいいのか、まだわからなかったから。
病院の天井をぼうっと見上げながら、伊都は何だかこそばゆいような気持ちになっていた。あれだけ避けていた叔母との面会が、思いのほか穏やかで優しいものだったことに、理解が追いついていない気がする。
点滴の管を見つめながらそわそわしていると、今度は別の客人が入ってきた。陽気な金色の髪が病院に不似合いなイケメン。光留だ。
「伊都くん、熱が下がらないんだって? 具合どう?」
「熱だけなんで、大丈夫です」
「熱が出ている時点で、あんまり大丈夫じゃないね」
先程まで叔母が座っていた椅子に、光留は腰掛けた。今日の格好は、写真がプリントされたTシャツに、濃い色のデニム。相変わらず、シンプルな格好がモデルのように決まる人だ。
「さっき、ヨータくんの様子も見てきたよ。意外と元気そうだった。肋骨にヒビが入っていたみたいで、無事とはいえないんだけど」
「僕よりも大怪我じゃないですか」
「うん。でも、伊都くんも熱を出してるんだから、どっちもどっちだと思うよ」
病状で競っても仕方がない。伊都は素直に頷いて、光留の髪を見た。窓から差す陽光でキラキラ輝いて見える。奥多摩の屋敷で見た、あの光のイトのことを思い出した。
「光留さん、僕、気になっていたことがあって」
「何?」
小首を傾げる光留に、伊都は聞いてもいいことなのかどうか、一瞬迷った。しかし、何も聞かずに黙っているのも違う気がして、卒直に尋ねてみることにした。
「僕を助けてくれた時……、光留さん、もう自分のせいで誰かが死ぬところなんて見たくないって言いましたよね」
「え?」
光留は珍しく、少し動揺した。目線が左右に揺れる。
「言ったっけ?」
「誤魔化さないでください」
ピシャリと言い募ると、やがて光留は観念したようだった。
「……ああ、うん、言ったね」
「誰か、死んだことがあるんですか? その、光留さんの『ギフト』で……」
悪運で最悪の事態を回避する光留の『ギフト』は、逆に言えば死ぬようなことは決して起こらない『ギフト』とも言える。実際、彼方が光留にターゲットを変えた途端に、悪運が発動した。
それはつまり、光留以外の人間の生死には『ギフト』は関与しないということなのではないか。彼方が伊都を狙ったままだったら、伊都が本当に撃ち殺されていた可能性もあったのではないか。
光留は少しだけ考え込んだ後、ぽつぽつと語り始めた。
「俺の両親はね、俺と姉さんが高校生の頃に亡くなったんだ。車の事故だった。事故の時、俺は車の後部座席にいた。両親は死んで、俺だけが助かったんだ。俺は今でも、この悪運の『ギフト』のせいで両親が死んだんじゃないかって、思っている」
それは光留のせいではない。そう言ってあげたかった。だけど、言えなかった。光留の『ギフト』の効果が光留自身にしか発揮されないのなら、決して有り得ない話ではないからだ。
「姉さんも、俺たちを引き取った祖父も、悪運のせいじゃないって言ってくれたよ。でも、疑念はずっと残ってた。いつかまた、誰か巻き込んで死なせるかもしれないと思って、怖かった」
光留は伊都の手を握る。指先に伝わる、体温。
強くて優しいこの人にも、怖いものがある。そのことを、伊都は忘れずにいようと思う。
「伊都くんを助けられて良かった。俺はね、今回はちょっとだけ自分の悪運に感謝したよ。この『ギフト』がなければ、君を失っていたかもしれなかったから」
結果論かもしれないが、光留が伊都を庇っていたから、撃たれずに済んだ可能性は十分にある。伊都としては、命を危険に晒すような真似は控えてほしいけれど。
しばらく、二人の間に沈黙が降りた。決して嫌な沈黙ではなかった。
このままうとうとしてしまいたい気分だったけど、ふと思い出したことがあって、伊都は目を開いた。
「そういえば、白羽彼方って見つかったんですか?」
あの事件の後、ずっと気になっていたことだった。検査後すぐに熱を出してしまったので、警察はまだ伊都の病室には来ていない。だから、事件がどうなっているのか、聞く機会がなかったのだ。
光留は渋い顔をした。
「まだ見つかっていない。生きて逃げたのか、死んでるけど遺体があがってないだけなのかもわからないんだ」
「そう、ですか……」
このまま見つからないのだろうか。
生きていたとして、彼方はわざわざ伊都には会いに来ないかもしれない。顔を見知っている光留がいるし、伊都が警察に保護された以上、迂闊に近づけば捕まるリスクが高まる。リスクを冒してまで伊都に近づくとは思えない。
彼方が執着しているのは、きっと伊都が持つ『ギフト』に対してで、伊都自身ではない。だから『ギフト』が手に入らないとわかったら、殺そうとさえした。
もし伊都が彼方に感化されていたら、どうなったのだろう。考えただけで、ゾッとする。
光留は「うーん」と少し悩むそぶりを見せた後、小さく息をついて伊都の手先を優しく撫でた。
「白羽彼方の家族はね。『ギフト』に否定的な考えの持ち主だったみたいだ。それが彼の『ギフト』優生思想のきっかけだったのかもね。『ギフト』の持ち主が、選ばれた優れた存在だと誇示することが、家族への復讐だったのかも。……そうだとしても、同情はできないけど」
「それも、警察が調べたんですか?」
「いや、さすがにそこまでは聞かなかったよ。ただ、マスコミがね。根掘り葉掘り調べて、ガンガン流しまくってるんだよね。被害者である伊都くんはもう保護されてるし、すぐに公開捜査になったから」
「ああ、なるほど……」
納得した。
たとえどんな同情できる事情があったとしても、それが犯罪を犯していい理由にはならない。『ギフト』のせいで散々な目にあってきたというなら、伊都や光留だってそうなのだ。
「早く見つかるといいですね」
「うん。伊都くんをひどい目に合わせたヤツだしね。ちゃんと裁きを受けてほしいよ。それに……」
「それに?」
伊都が聞き返すと、光留はやや苦笑いになって、肩をすくめて見せた。
「橋本さんが落ち込んじゃってすごいんだよ。犯人に窓から逃げられるなんて大失態だってね。姉さんがめちゃくちゃ慰めているところ」
「それは……うん、そうなりますよね」
凶悪犯を現行犯逮捕するはずが、あと少しのところで取り逃がしたのだ。さぞ悔しかっただろう。伊都を保護したのも、警察ではなく光留であったし。
「あの時、屋敷の周りは警官が包囲していたらしいんだけど、裏側は川に面した崖みたいになっていて、警備が手薄だったらしいんだよね。テレビとかでは警察側の不手際を指摘する放送とかもあって、大変みたい」
「結構……騒がれてる感じですか?」
「うん。あ、どこも伊都くんの名前は出していないから、そこは安心していいと思うよ。名前を出さないように、姉さんが圧力かけてるから。お金の力って偉大だね」
寝込んでいるうちに、ずいぶん色々と進んでいたらしい。それにしても、お金持ち便利だな、と思ってしまう。
「『フェザー』にいた子たち、これからどうするんでしょう……」
全国に指名手配されているとなれば、彼方が今まで通りの活動ができるとは考えづらい。『フェザー』をよりどころにしていた人たちは、どうなるのだろう。空中分解して思い思いの場所に散っていくのか、居場所のない者同士で助け合って生きていくのか。伊都を攫った実行犯にはそこそこ年配の男もいたはずだが、彼方以外の誘拐に関わった人間は警察に捕まっているだろう。まとめ役の大人がいないなら、コミュニティの維持は難しいかもしれない。
「『フェザー』自体が、結構ヤバいことに手を出してることが、明るみに出ているみたいだからなぁ。ほら、湊くんと渚ちゃんの事件の時に、お母さんを変な方向に暴走させた『ギフト』優性思想の
「え、アレもですか……」
世間は狭いというべきなのか。それとも『フェザー』が案外母数の大きい集団だったと見るべきなのか。なんにせよ、恐ろしい話だ。
「似たような思想の集団がいくつもあったら、それはそれで嫌だけどね」
「確かに……」
話が一段落つくと、再び睡魔が襲ってきた。熱があるのに、少し話し過ぎたかもしれない。
「伊都くん、眠い?」
「……はい、……ちょっとだけ」
本当はだいぶ眠いけれど、まだ光留と話していたい気持ちもある。離れがたさを感じて、眠気を何とか外にやろうと目をパチパチと瞬かせた。やっぱり、眠い。
「いいよ、眠りなよ。伊都くんが眠るまで、ここにいるから」
「でも……」
「また明日も会いに来るよ。退院したら、みんなでお祝いしようね」
光留の穏やかな声が耳に心地よく響いて、ゆっくりと
「おやすみ、伊都くん」
ぽんぽんと、胸元を優しく叩かれる感触。それを最後に、伊都は深い眠りの中に落ちていく。
その日、伊都はとても幸せな夢を見た。まだ母親がいた頃。はちみつとりんごのすりおろしを入れた、これでもかというほど甘い、辛くないカレーを作ってもらった時のこと。
きっと光留や華織は、あの甘ったるいカレーはあまり好きではないだろうから、庶民メシの会では出すことはないだろうけれど。そういうあたたかな思い出が自分の家庭にもあったことを、いつか話してみたいと思った。
◆
事件から五日後。無事に熱も下がって、警察の聴取も済み、伊都は退院した。
退院前には、ヨータが面会に来てくれた。ケガが心配だったが、意外と元気そうだった。『フェザー』には戻らず、バイトをしながら自活を目指すらしい。
別れ際にLINEを交換した。友だちになれたみたいで、嬉しかった。
ヨータに退院したことを伝えると、「がんばれ!」というネコのスタンプが押された。光留といい、ネコ好きは多いようだ。
退院に必要な手続きは、全て叔母がやってくれた。そのまま、叔母の家に帰るかどうか聞かれたが、伊都はかぶりを振った。
伊都が帰る家は、もう決まっている。
叔母とはロビーで別れ、病院の入り口に立つ。
病院には、華織が例のスポーツカーで迎えに来てくれた。恐ろしく病院前の風景になじまない。
「退院おめでとう、伊都くん」
スポーツカーから降りてきたイケメンに、病院前にいた見舞客と思しき人々がざわつく。無理もない。だけどその人、運転席じゃなくて助手席に乗っています。
スポーツカーの後部座席に乗り込むと、華織がサングラスをかけて運転席に収まっていた。スポーツカーを乗り回す美女のサングラス姿、迫力がある。
「伊都くん、お疲れ様。今日はさすがに、料理は作らせられないから、デリバリーを頼んだわ。退院祝いだからちょっと豪華なやつ」
「え、普通に作りますよ。お休みたくさんもらっちゃいましたし」
「病み上がりなんだから、無理をしないこと。いいわね」
「……はい」
本当に大丈夫なんだけどな、と思わないでもない。心配をかけたのは事実なので、今回は素直に華織の厚意に甘えることにした。
だんだん車の窓から見える景色が、池袋の見慣れた街並みに変わっていく。駅前の道を走り、オフィス街を抜けて、やがてすっかり馴染み深くなったノース池袋ビルのガレージにたどり着く。
帰ってきた。伊都の居場所に。
「本当に体調、大丈夫? 仮眠室はいつでも使えるようにはなってるけれど、しばらくうちに泊まってもいいんだよ?」
光留の言葉に、伊都は苦笑した。光留はかなり過保護になっているようだ。
「大丈夫ですよ。ここ、エアコンがきいてて、寒くもないですし。昼間はまだ暑いくらいだし」
「しばらくは、うちに夕食作りに来る時は、行きも帰りも光留をつけるわよ。途中で倒れても助けられるし、また襲われても困るもの」
「華織さんまで」
確かに光留がいれば大体何とかなるだろう。それはわかる。しかし、二人ともあまりにも心配しすぎではないだろうか。
「実際、一人でうちに来る途中に襲われたわけだしね。大丈夫、社員への福利厚生のひとつだから」
「え、社員って……」
伊都が聞き返すと、光留は神妙な顔をして、「ソファに座って」と促した。大人しく伊都が座ると、光留は何やら書類を持ってくる。雇用契約書。
「伊都くんを、アルバイトから正社員に昇格しようと思って」
「えっ……依頼があんまり来ないのに!?」
思ったことがそのまま口から出た。向かいに座った真淵姉弟は、どこか納得した様子でお互いに顔を見合わせる。
「あ、そこに驚くんだ、っていう」
「この反応、ザ・伊都くんって感じがするわね」
うんうん、と二人にうなずかれ、伊都は前髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。この姉弟、反省していない。この事務所に来てからの伊都の功績といえば、真淵家のエンゲル係数を下げたことくらいな気がするのだが。
「正社員になる方が伊都くんの経歴にもなるし、長くうちで働いてもらいたいと思っているから。あとね」
光留と華織が、お互いを見る。アイコンタクト。
「お母さん、探すんでしょ?」
そうだ。光留と約束した。一緒に、行方不明になった母親を探すと。
「それにね、俺が……俺たちが、伊都くんにここにいてほしいんだよ」
そこまで言い終えてから、光留は「あ、もちろん伊都くんが良ければだけど」と焦った様子で付け加えた。
ここに来て、大変なことはもちろんあった。光留は家計を気にせず高価なパンやデリばっかり買ってくるし、客に物を投げられて怪我もしたし、誘拐もされたし。
だけど、良かったことが数えきれないほどある。孤独だった伊都を受け入れて、世界を広げてくれたのはこの場所だ。
「あとさ」
光留が付け加える。伊都は首をかしげる。他に何かあるのか。
「責任とってください、って言ったのは伊都くんだよ。だから、責任とったんだよ?」
「え、ええ、あの時のことは忘れてくださいよ!」
何せ大泣きしながら、勢いで話したことだ。普通に恥ずかしい。
「俺はあの言葉、嬉しかったけどなぁ」
「え? 私はその話聞いていないんだけど、ちょっと詳しく聞かせてもらえる?」
「わぁぁぁ! 華織さん、聞かないでください!」
伊都は慌てて首をぶんぶん振る。本当に止めてほしい。
九月も後半の東京、池袋。
数か月前までは想像もしなかった場所に、今、伊都は立っている。
お腹が減って、お金もなくて、ひとりぼっちだったあの日の自分が、今の自分を見たらどう思うだろう。きっと驚くだろうな、と思う。
あの日の自分に、教えてあげたい。孤独は永遠には続かない。どこかで、必ず誰かの手を取る日がやってくる。伊都にとってその誰かの手は、光留の手だった。
教えてあげたい。
――大丈夫。君はちゃんと幸せになれるよ。
ヤミイトと悪運探偵 藍澤李色 @Liro_A
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