第11話 僕らのうちに帰ろう③

 伊都は、暗闇の中で身動きもできず、座り込んでいた。頬に触れる感触で、自分がどうやらベッドにもたれかかっているらしいことがわかる。

 何も見えない。自分の呼吸音だけが、やけに大きく感じる。彼方はもう、この部屋にはいないはずだ。出て行った音がしたし、気配はない。それなのに、ヤミイトに覆われた視界が元に戻らない。

 自分が震えているのがわかる。寒くはない。ただただ怖い。

 一人きり、ベッドの端に身を預けながら、伊都は母親のことを思い出していた。

 母は、伊都に『ギフト』のことを隠すように言った。ヤミイトが見えることは誰にも言ってはいけないと。

 もしかすると母にも、こんな風に視界をヤミイトで埋め尽くされて、恐怖に怯えたことがあったのかもしれない。

 人間は誰にでも悪意や敵意が存在する。特別に強い悪意を持つ、彼方のような人間だっているだろう。悪意を視認する力は、悪人からすれば邪魔な能力だ。しかし、使いようによっては、悪人を見分ける便利な能力でもある。伊都の『ギフト』は利用価値があるのだ。

 ――だから、狙われた?

 頭の中で、不安がぐるぐると回っている。光留と華織はどうしているのだろう。伊都が姿を消したことに気づいているだろうか。探しているのだとしたら申し訳ない。

 泣きたかった。助けに来てほしい。だけど、危険な目には遭わないでほしい。どれくらい時間が経っているのだろう。

 どれくらい気絶していたのかもわからない。時間感覚はとうになくなっていた。

 華織の恋人の橋本は刑事だし、警察が動き出しているかもしれない。警察は、ここを見つけられるだろうか。信じるしかない。

 はぁ、と息をついた。自分の呼吸音が妙に耳につく。視覚が役に立たない分、聴覚は鋭敏になっているのかもしれない。

 タッタッタ、とかすかに足音が近づいてくるのが聞こえた。数秒遅れて、カチャリと鍵が鳴り、ドアが軋み、開かれる音がする。

 彼方が戻ってきたのだろうか。伊都は身を固くして、音がしたドアの方を向いた。相変わらず視界は暗闇のままだったけれど。

「おい、大丈夫か、お前」

 声をかけられ、肩を揺すられた。何となく、声に聞き覚えがある。誰だろうか。

「お前、『フェザー』の事務所に来た金髪ヤローの隣にいたやつだろ!」

 言われて、記憶と声が一致した。池袋にいた赤い髪の少年、ヨータだ。彼方は『フェザー』のメンバーがこの建物を管理しているのだと言っていたから、いてもおかしくはない。

「カシラは何でお前を捕まえてきたんだ? ま、こまけえことはいいや。立てるか? ん? 腰抜けてんのか?」

 二の腕を掴んで持ち上げられた。伊都はよろよろと立ち上がる。何も見えないから、ヨータがどちらを向いているかもわからない。ヨータの腕にすがり、何とか転ばずに済んだ。

「手錠のカギはオレもどこにあんのかわかんねー。でも、とりあえず裏口までは案内できる。もっとちゃんと立て」

「どうして……」

 ヨータは『フェザー』に出入りしている少年だ。言ってしまえば、彼方の仲間だ。伊都を逃がすことは裏切りになるのではないか。

 不安が顔に出ていたらしい。ヨータはフンと鼻を鳴らした。

「オレはカシラのことすげーって思ってるけど、弱っちいヤツ攫ってきて、手錠かけて閉じ込めるのは何かちげーだろ。オレはオレがちげーって思うこと、ぜってーやりたくねー」

 ほら、とヨータが背中を押す。しかし、伊都は二、三歩前に行っただけで、立ち止まってしまう。

「どーした。逃げたくねーのか」

「逃げたいけど、今、目が見えなくて……」

「は? やべーやつじゃねーか、病院行くぞ、病院! こんなところにいる場合じゃねーよ」

 恐らく、病院に行ってもこの目は治らないのだが、ヨータの励ましは心強く感じる。

 伊都の身体を両手で支えながら、ヨータは出口へと誘導してくれるようだった。ドアのところで「段差気をつけろ」と言ってくれる。口は悪いけど、優しい少年だ。

「ゆっくりでいい。オレから離れんな」

 探るようにゆっくりとしか歩けない伊都を小声で叱咤しったしながら、ヨータは伊都の手を引いた。カチャリと手錠がなる音にも、冷汗が出る。気づかれたら、ヨータも危ない。

「くっそ、ここ二階なんだよな。目が見えねーやつに階段降りさせんのか!? 無理じゃね?」

 ヨータの焦った声が間近に聞こえる。伊都も焦っている。だけど何も見えないから、どうしようもない。うかつに動いたら壁にぶつかって派手な音を立てるかもしれない。とりあえず、ヨータもろとも階段から落ちるのだけは避けたかった。

「どうする? 何とかしてオレが背負うか? 手錠ジャマだな?」

 伊都の手錠がなんとか外れないかと思ったのだろう。ヨータがカチャカチャと手錠の鎖を鳴らす。

「ちっ、やっぱ外れねーな。いいか、何とかなんだろ」

 ヨータは諦めたようだ。伊都を支えながら再び歩き出す。伊都が少しずつしか歩けないせいもあるのだろうが、なかなか階段にたどりつかない。かなり広い邸宅のようだ。

 廊下に見張りはいないのだろうか。ヨータが息を潜めている。この階に他の見張りがいなかったとしても、階下にはいるかもしれない。

 必死に目を凝らしても、ヤミイトに塞がれている視界は戻らなかった。これも彼方の『ギフト』の力なのだろうか。それとも伊都自身の絶望が、この目を塞いでいるのだろうか。

 自分はどうなるのだろう。自分を助けようとしているヨータも。

 必死に、希望だと思えることを探している。自分にとって希望とは何だろう? そう考えると、自然と光留のことが思い出された。

 ――俺は伊都くんが来てくれると嬉しいなぁ。

 探偵事務所の仕事に誘われた時のことは、今も鮮明に思い出せる。『ギフト』のことを含めて、自分を受け入れてくれる場所がある。そのことが、自分にとってどれほど嬉しいことだったのかを思い知る。たとえ受け入れてくれても、彼方のような相手だとごめんだが。

 真淵探偵事務所に来たのが初夏。そして今は初秋。ほんの数カ月だけのできごとだ。しかしあの場所でできた思い出は、伊都にとって何物にも代えがたいものだった。

「ほら、ヘタばるな。シャンとしろ」

 ヨータの励ましが、耳元で響いた。何とか気力を振り絞って、歩く。この廊下はどこまで続くのだろう。長く歩いているように思えているけれど、実はほんの数メートルしか進んでいないのかもしれない。もう方角も距離感も、全然わからない。

 ドン、と大きな音が遠くで何度かした。何の音だろう。

「あ、やべ、見張り来た。ちょっと隠れるぞ」

「えっ」

 急にぐいぐいと押されて、伊都はよろけそうになりながら横を向いた。正確には横だったのかもわからないのだが、とにかく方向転換させられた。ガチャリとドアが開く音がして、背中を押された。どうやら、近くにあった部屋に押し込まれたようだ。

「黙ってろ」

 ヨータの声がすぐ近くでした。どういう状況なのかはわからないが、まずい気がする。ヨータが持ち場を離れて、伊都もいなくなっていると気づいたら、どうなってしまうのか。

 恐らく廊下の方で、誰かが話している気配がある。

 ドタドタと二人くらいの足音が響いている。やはり、気づかれたか。

「ヨータくん、僕のことはいいから、戻って! バレたらヤバいよ!」

 伊都を助けたことで、ヨータがひどい目に遭うのは嫌だ。少なくとも、仲間にしたいと言うくらいだから、彼方は伊都を殺そうとはしないはずだ。むしろ危ないのはヨータの方だ。

「う、うるせー、男に二言はねー」

 ヨータは少しだけ動揺した様子。伊都は手探りで壁を探り当て、耳を当てる。

 微かに声が聞こえる。逃げた。探せ。見張りはどうした。まだ中にいるはずだ。――やはり、気づかれている。この部屋を探し当てられるのは、時間の問題に思えた。

 彼方のところにも、すぐ話がいくだろう。どうしよう。どうすればいい。伊都は元から武闘派でもなんでもないし、今は目も視えない。光留だったら、自力で包囲網を突破できそうなのに。

「ここを調べろ」

 ドアの向こうで声がする。まずい。

 伊都はぎゅっと目をつむった。つむったところで視えるのが暗闇なことには変わりなかったけれど、人間は追い詰められると、できる行動が限られるのだ。

 ガチャリと扉が開く。伊都は後ずさる。ヨータはどうしているだろう。どかどかと足を踏み入れる音。

「おい、ヨータ、これはどういうことだよ」

「彼方さんの大事なお客さんだって、わかってやってんのか?」

 大切なお客さんなら、手錠をかけて拉致監禁はしないだろう。そう言い返してやりたかったが、声は出ない。遠ざかっていた恐怖が、また戻ってきた。状況が見えないことが、こんなに不安なことだとは思わなかった。

「ぐえっ!」

 ヨータの悲鳴。何かがぶつかった鈍い音。殴られているのか、蹴られているのか、わからない。どうしてこんな時に、何も見えないのか。

「ヨータくん!」

 名前を呼んでも、どうにもできない。助けてほしい。心から願った。自分のために、誰も傷つかないでほしい。

 その時だった。不意に、どよめきが走った。

「な、誰だお前……!」

「なんだ!? 敵か!?」

 誰か、『フェザー』の面子以外の闖入者 ちんにゅうしゃがいる――?

 伊都は目を開いた。そして顔を上げた。こんな場所に、乗り込んでくるような、第三者。

 まさか。目を瞬かせる。

 真っ暗で、何も見えなかったはずだった。彼方のヤミイトによって閉ざされた、深い漆黒の闇の世界。

 その中心に、金色の光が生まれた。柔らかい日の色。伊都は、その金色から光留の金髪を連想した。日本人なのに、妙にしっくりと似合っている金色。そして、その笑顔も思い出す。笑っていると少しだけ童顔に見える相貌。

「助けに来たよ、伊都くん!」

 それは、今一番聞きたかった人の声だった。

 暗闇の中に差した光は細く長く、だけど力強く輝き始めた。眩しく感じるほどのその光が、次第に伊都の視界をクリアにしていく。

 ――金色の、糸。

 今まで、ヤミイトは散々見てきたのに、光の色をした糸を見たのは初めてだった。

 金色の光は、やがて弱まり、蛍光灯の色に馴染んで消えていく。

 そして、伊都は視界が開けた途端に、視界の端に白い影を捕らえる。

「ぎゃあっ!」

「うわっ!? な、何っ!?」

 悲鳴を聞いて思わず身構えると、伊都の一メートルくらい横を、見知らぬ青年が転がっていった。誰だ。

「うちの所員に手を出したこと、後悔するといい!」

「ひぃっ!」

 再び、知らない男の身体が宙を舞う。先に転がった青年の横を、ヨータと同じくらいの、少年といってよさそうな歳の男だった。

「えっ? ええっ?」

 三秒くらい遅れて、見張り達が投げ飛ばされてきたのだと気づいた。

 うめく男たちを呆然と見て、しばらく目をぱちくりさせていると、声が近づいてくる。

「伊都くん、良かった、無事だった!」

 その声に、改めて向き直った。伊都からだと少し見上げるほど高い身長と、日本人なのに不思議と似合う金色の髪。柔和そうな目元。――会いたかった。

「光留さん……!」

「助けるのが遅くなってごめんね!」

「光留さん……本当に、光留さんだ……夢じゃない」

「うん、夢じゃないよ」

 光留は伊都を腕の中に抱き寄せる。温かい。冷え切った心に、ほのかな熱がともっていく。しばらくあやされる子供みたいに、光留の腕の中にいた。こらえきれなかった嗚咽が、喉の奥から漏れてくる。泣き顔を見せるのは恥ずかしいと思ったが、どうにもならない。

「うっ……ひくっ、ううっ、光留さん……」

「うん、怖かったよね。もう大丈夫だから」

 小さい子供にするように頭を撫でられて、ようやくひと心地ついた。

 やや冷静になって、ヨータのことを思い出した。彼は殴られていなかったか。

「ヨータくん!」

 ヨータは、光留がのしたと思しき二人組とは逆側で、腹を押さえてうずくまっていた。気絶しているのかと思えば、「うう、いってぇ」と声を漏らしている。ひとまず意識はあるようで、安心した。

「光留さん、ヨータくん、僕のことを逃がそうとしてくれて、それで殴られて」

「そうか。優しい子だな、ヨータくんは」

 光留がヨータの肩を叩く。ヨータは腹を押さえたまま、顔を上げる。

「大丈夫? 立てる?」

「うるせー、オレにかまうな、金髪ヤロー! これくらい平気だっての!」

 憎まれ口を叩く余裕があるなら、ひとまず命に別状はなさそうだ。安心した。

 目が見えるようになって改めて観察すると、ヨータも、光留に物理で倒された見張りの男たちも、何故か真っ白な服を着ている。ここの制服か何かだろうか。伊都は何となく気持ち悪さを感じた。あの白い部屋といい、彼方の趣味なのかと思うと、ますます気持ち悪い。

「そうだ、ここ……『フェザー』の……、白羽彼方の本拠地みたいで」

「うん、ヨータくんがいた時点で、そんな気はしていたよ」

 ヨータを助け起こしながら、光留はうなずいた。

「俺の名前で同姓同名なんてそうそういないだろうから、多分名前から俺たちが探偵事務所の所属だって推測したんだろうね」

「そのことなんですけど、白羽彼方は『ギフト』の持ち主みたいなんです。何か、残留思念を読み取る能力らしくて。それで、僕のことを調べて『ギフト』のことも知っていて……」

 彼方が『ギフト』のことを知っていたことを伝えると、光留は怪訝けげんな顔をした。

「あいつが伊都くんの『ギフト』を?」

「はい、僕のことを仲間にしたいって……」

 言いながら、改めて本当におかしな言い分だな、と思った。仲間にしたい人間のことを誘拐して監禁しているわけだから。彼方なら、伊都が言うことを聞かなくても、洗脳すればいいと思っていそうで怖い。実際、『フェザー』という団体は、恐らく彼方が自分の手駒を揃えるために信者を増やして作ったものなのだろうから。

 ヨータ以外に拉致監禁を疑問に思った人間がいなかったのが、嫌な意味で彼方のカリスマ性の証左となっている。

「伊都くん、本当に何もされてない?」

 光留が伊都の身体をペタペタ触りだした。そして、手首の手錠に気づいて「あっ』と声を上げる。カチャカチャと何度か動かす。もちろんそんなやり方では外れない。何度も外そうと動かしたせいだろうか。手首にはいくつか擦り傷ができていた。ひどく痛むわけではないが、少しだけヒリヒリする。

「大丈夫?」

「なんか薬で眠らされたり、手錠かけられたり、ヤミイトで真っ暗になってしばらく目が見えなかったりしたけど、おおむね大丈夫です」

「それ、全然大丈夫じゃないよ」

 光留は立ち上がり、転がされた見張りたちがまだ気絶していることを確認した後、伊都を支えて立たせた。

「ここを出たら病院に連れていくからね。ヨータくんもできれば病院に診てもらった方がいいと思うけど」

 光留がチラリとヨータを見る。ヨータは「けっ」と唾を吐き出した。

「オレは病院なんていらねー、そいつをさっさと連れてけ。目ぇ見えなくなってんだぞ」

「あ、いや……目は見えるようになった。多分ストレスで、一時的に見えなくなってただけで」

 伊都が言うと、ヨータは信じていなさそうな顔で、うろんな眼差しを向けてくる。

「オレはバカだけど、お前が全然大丈夫じゃねーってのは、わかる。これだけは金髪ヤローと同感だぜ」

「そ、そうかな……」

「監禁されて大丈夫なヤツの方が少ねーだろ」

「うん、それはそう、だね」

 予想外のマジレスが返ってきて、伊都は神妙な顔で頷いた。ヨータは口は本当に悪いのだが、性根は驚くほどまっすぐな少年だ。

「橋本さんに連絡したから、ここにはすぐに警察もやってくるはずだ。安全なところで保護してもらえる。ひとまず外に逃げよう。ヨータくんも、動けるならとりあえずついてきてくれる?」

 光留が伊都の手を引いて立ち上がる。少しだけふらついたが、光留が肩を支えてくれたので転ばずに済んだ。

「伊都くん、手錠はここじゃ外せないから、もう少し我慢してね」

「はい」

 さすがに警察が来れば、手錠を外すことができるだろう。まずは安全な場所に退避することだ。

「光留さん、他の見張りは?」

「そこにいるやつら含めて、目についた見張りはだいたい全部気絶させてきたから、しばらくは大丈夫だと思う」

「え……やば……」

 それはいくらなんでも、物理で強すぎないだろうか。思わず素になって呟くと、光留は少しだけ苦笑した。

「誘拐するヤツの方がよっぽどやばいよ」

「そうなんですけど、改めて規格外だなと思いました。探偵より格闘家の方が向いてませんか?」

「どうだろ。試合と実戦は違うから。不意打ちとかできないし」

 確かに、試合で不意打ちはできない。実戦慣れしすぎてる人は、言うことが違う。一番向いているのは、傭兵かもしれない。

 伊都、光留、ヨータの三人でドアの方に向き直る。光留が乗り込んできた時に、開け放たれたままのドア。その向こうに。

「そう簡単に帰すと思いましたか?」

「……!?」

 いつの間にか、彼方が立っていた。何の音も気配もなかった。ヤミイトさえ出していなかった。

「伊都くん、君に仲間になってもらえなくて残念です。最初はとまどっても、最終的には私の思想に共感していただけると思っていましたけれど……仕方ないですね」

「共感なんて、するわけないでしょう」

 先ほどは恐怖に吞まれてしまったが、今は光留がすぐそばにいてくれる。危険をおかしてでも助けようとしてくれたヨータだっている。きっと光留を連れてきてくれたのは華織なのだろうし、橋本も動いてくれている。伊都を守ろうとしてくれる人が、こんなにたくさんいるのだ。

「僕は、僕を大切に思ってくれる人のことを信じます」

 母がいなくなってから光留に出会うまで、伊都はずっと孤独だった。光留が真淵探偵事務所に誘ってくれたから、今の自分がある。自分の『ギフト』を、誰かのために使おうと思えたのも、光留のおかげだ。

「そうですか。理解を得るというのは、なかなか難しいものですね」

 ふと、彼方の身体からじわじわと広がるように、ヤミイトが伸びてきた。また、視界を埋め尽くすのだろうか。思わず身構えた伊都は、彼が持ち上げた右手を見た。

 銃だ。

 彼方の右手には、拳銃が握られている。

 そんなものを、一体どこで手に入れてきたのだろう。

「素直についてきてくだされば、こんなものを出さずに済みました。伊都くん、私はね」

 ゆったりと微笑んで、彼方は銃口を伊都に向ける。光留でも、ヨータでもなく、伊都を見ている。

「手に入らないものを他人にみすみす渡すくらいなら、消してしまう方がいいんじゃないかって思う方なんですよ。探偵の方を始末しようと思っていましたが、気が変わりました」

「伊都くん!」

 光留が伊都の肩をつき飛ばす。伊都がいた位置に、光留の体が躍り出る。

 庇われた、と理解した時には、すでに視界の半分がヤミイトに覆われていた。

 銃声。

 一発目の銃弾が、光留の耳をかすめる。

「光留さん!」

 伊都が叫ぶ。ダメだ。伊都を助けようとしたせいで、光留が死ぬのはダメだ。それだけは絶対に、ダメだ。

 伊都はよろめいて、床に倒れた。手錠をかけられたままの手では受け身がとれずに、肩から落ちた。痛い。それでもすぐに立ち上がろうとする。

「伊都くん、離れて!」

 光留の声。彼方が銃を構えている。今度は光留に向かって。

「そうだ。狙うなら伊都くんじゃなくて俺にしろ!」

 光留が挑発する。

 伊都は何とか体勢を立て直す。このままでは、光留が撃たれてしまう。急所を外したとしても、大怪我はまぬがれない距離。

「光留さん、ダメだ……!」

「おい、やべーぞ!」

 ヨータの声。光留が伊都を庇うように前に立つ。

 間に合わない。

「光留さん……っ!」

 彼方が引き金を引く。

 その瞬間を見たくなくて、伊都はぎゅっと目をつむった。

 破裂音。

「え……」

 普通の銃声ではなかった。もっと、小さな爆発が起こったような音。

 恐る恐る目を開く。光留は無事で、今も伊都を庇うようにして立っていた。

 伊都は何とか立ち上がって、光留の脇から様子をうかがう。

 彼方が立っていた。しかし銃を構えていない。銃を持っていたはずの右手が、血に染まっている。

「な、何が起こって……?」

 光留は無傷だった。ちらと伊都を横目で見てから、彼方へと視線を戻す。

「銃が暴発したんだ」

 彼方の銃は、彼の足元に落ちていた。その上に、彼方の右手から滴る血が、ボタボタと落ちていく。

「これが『悪運』の『ギフト』ですか……」

 彼方は憎々しげな表情で呟いて、光留を見た。

 今まで、悪意すらも薄い微笑で覆い隠していた彼方が、初めてあからさまな敵意を見せていた。ヤミイトを見るまでもなくわかる、憎しみの感情。

「そんな、曖昧あいまいでいい加減で、わけのわからない『ギフト』のせいで、私の願望は叶わないわけですね……」

 伊都はハッとした。やはり彼方は、伊都だけではなく、光留の『ギフト』のことも知っていたのだ。ただ、悪運の『ギフト』がどういう性質を持っているかを、理解していなかっただけで。

 光留の『ギフト』は、悪意を自分に引き付けてしまう。だから彼方も、あっさりと伊都から光留へとターゲットを移した。

 しかし、光留の悪運は自分に悪意や敵意を向けられた時にこそ、高確率で発動する。命の危険があっても、運命的な偶然で、もしくは光留が会得えとくした自身の体術で、不思議とどうにかなってしまう。

 確かにそれが『ギフト』だと言われても、多くの人はピンとこないだろう。伊都だって、この目で光留があっさり生命の危機を脱するところを見ていなければ、『ギフト』のことを信じられなかったかもしれない。

 彼方はきっと、悪運の『ギフト』を甘く見ていた。こんな風に、ありえないほどの確率で死の運命を回避する『ギフト』だとは思っていなかった。思っていたとしても、彼の目的のためにはあまりに扱いづらい『ギフト』だ。光留を仲間にしようとは、考えなかったのだろう。

「俺の『ギフト』のことは、俺自身にもわけがわからないところがあると認めるけど、今は貴方に好かれなくて良かったと感謝したいよ」

 光留はそう言って、彼方に歩み寄った。そして腕を振り上げて、彼方の頬を殴りつけた。

「ぐっ……!」

 彼方がよろめいて、頬を押さえる。光留は、成人男性を投げ飛ばす力がある人だ。恐らくは、多少の手加減はしただろう。

 それでも、彼方から放出されているヤミイトは、やや弱まった。痛みに意識がいったからだろうか。

「貴方が伊都くんにしたこと、俺は絶対に許さない。本当は一発殴るくらいじゃ足りないくらいだけど、貴方を裁くのは俺じゃなくて警察だから、これで我慢しておくよ」

 光留が珍しく、不快感を露わにしている。光留の口から彼方に向けて、わずかな量のヤミイトが出ていた。

 ――この人にも、敵意はあるのだ。

 思えば当たり前のことだったが、初めて見たので驚いた。初めて見る光留のヤミイトが、伊都のために怒ってくれたからなのだと思うと、かなり複雑な心境だ。

 その時、彼方は何かに気づいたようだった。伊都や光留、ヨータも無視して、窓際に駆け寄る。

「何をするつもり――」

 光留が言い終わるよりも前に、数人の男たちが部屋に突入してきた。

「そこまでだ、白羽彼方!!」

 橋本だった。拳銃を窓際にいる彼方に向けている。他にも数人の刑事が、後に続いて入ってきた。

 警察に銃を向けられているのに、彼方は平然としていた。微笑んでいる。ヤミイトも消えた。笑っているのに感情が見えない、光のない瞳。

「私は『ギフト』を持っていない人間の手にかかるつもりはないですよ」

 彼方は窓を開け放つ。夜風に、カーテンがふわりと舞い上がった。

 暗いバルコニーの向こう側に、川が流れる音がしている。

「さようなら、皆さん。どうかお元気で」

 そう言って、彼はバルコニーから身を躍らせた。

「待て!」

 そう叫んだのは、光留だったか、それとも橋本だっただろうか。

 一瞬遅れて、何か重いものが落ちたような水音が響いた。

「くそっ、下は川か! おい、外の奴らに連絡しろ! 川を捜索だ!」

 駆け寄ってきた橋本が部下に指示を出しながら、バルコニーから下の川を覗き込む。光留も、自分もバルコニーから落ちて追いかけそうなほどに身を乗り出して見ていた。伊都は慌てて光留の服の裾を引っ張って、彼を引き留めた。光留が振り返る。

「伊都くん……」

 光留は、どこか納得がいかなそうな顔をしている。彼方を取り逃がしたのが、悔しいのだろう。しかし、伊都には彼方のことよりも重要なことがある。

 伊都はまだ手錠がかかったままの両手で彼の胸を叩いた。体幹が良すぎる光留は、そんなことをしてもびくともしなかったけれど、気にせず叩く。

「光留さん……」

「どうしたの、伊都くん?」

「どうして僕を庇ったんですか!」

 自分でもびっくりするほど、大きな声が出た。

「僕が撃たれそうになったからって、体張って守ることないでしょう? 相手は銃を持っていたんですよ!?」

 口から、どんどん光留を責める言葉がでてくる。違う。そんなことを言いたいわけじゃない。そう思うのに、止まらない。

 不安だったのだ。怖かったのだ。彼方のヤミイトのせいで視界が真っ暗になったことも怖かったけれど、それよりも光留が死ぬ方が怖い。光留のおかげで視界を取り戻したのに、自分のせいで光留を失うかもしれなかった。それが、一番怖かったのだ。

「いや、俺だったら悪運の『ギフト』で助かるかもしれないし」

「死ぬかもしれなかったんですよ!!」

 どことなく決まりが悪そうな顔をして、光留は伊都から目をそらす。伊都はもう一度、強く光留の胸を叩いた。

 じわりと、瞳に涙がせりあがっていくのがわかる。目の奥がジンと痛くなる。

 泣きたくない。まるで子供が駄々をこねているみたいだ。光留を困らせたいわけではないのに。止まらない。

 慌ててうつむいて、長い前髪で顔を隠す。

 震えながら、もう一度光留の胸を両手で叩いた。

「悪運頼みで命を軽んじるのはやめてください! 死ぬくらいなら僕のことなんて助けないでください!」

「だって伊都くんが死ぬのは、嫌だよ。もう俺のせいで誰かが死ぬところなんて、見たくなかったから」

 光留は困惑した様子で、伊都の頭を撫でる。

 もう限界だった。ついに決壊した。涙が、両目からあふれていく。さっきも泣いたのに、また泣いてしまった。恥ずかしい。穴があったら入りたい。

 ポタポタと、バルコニーの固い床に涙が落ちていく。

 しばらく、黙って泣いていた。光留はその間、ずっと伊都の頭を撫でてくれていた。本当に子供扱いだな、と思わないでもなかったが、安心するのでされるがままにしていた。

「……僕を雇ったのは光留さんなんですから、責任取ってそばにいてください」

 出会って数ヶ月の間柄で、こんな重たいことを言うべきではなかったかもしれない。何を馬鹿なことを、と笑われる覚悟もした。

 だけど光留は笑わなかった。真剣な目をして、しっかりとうなずいてくれた。

「うん、そうだね。俺がいるよ。姉さんだっている。伊都くんの居場所は、ちゃんとここにあるよ」

 光留は指先でそっと、伊都の涙を拭う。

 潤んでいた視界が、少し晴れた。

「危険だからって、今更僕を遠ざけたりもしないでくださいね」

「うん。もちろん危険な目に合わせないように努力はするよ」

 そう言って笑う光留の周りに、ふわりと金色の糸が舞う。ヤミイトではない、希望の色の糸。

 自分に見えるのは、敵意や悪意。人間の中にある黒い感情だけなのだと思っていた。ヤミイトだけが、見えるのだと。

 違ったのだ。きっと、今まで見ようとしていなかっただけで、それはいつでもすぐそばにあったのだ。

 希望は、ここにある。

事務所うち に帰ろうか、伊都くん」

 光留が手を差し出す。伊都は両手で包み込むようにその手を取って、顔を上げる。

「帰りましょう」

 涙でぐしゃぐしゃだったけど、精一杯笑った。

 踊る、金色。

 その『イト』はきらきらと、光となってほのかに辺りを照らす。その光景の美しさを、伊都は生涯忘れないだろう。

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