38 背徳の予感、そして宣戦布告

 翌日、午前5時半頃。日の出まで少しばかり時間があり、ヴァン・ヘルシングはまだベッドの中でぐっすりと眠っている。その首元でコウモリがうとうとと顔を上げた。

……もうすぐで夜が明ける。

 窓の向こうの空は薄明かり色に染まり、間もなく夜が終わるのを告げていた。

 コウモリはヴァン・ヘルシングの首元から離れると、姿を歪ませ伯爵の姿へと戻った。それからほどなくして朝日が病室内に差し込み、室内をオレンジ色に染め上げていった。伯爵はベッド脇の椅子に腰掛け、ヴァン・ヘルシングが目覚めるのを待った。別に叩き起こすつもりはない。ただ昨日の甘ったるい香水の匂いが気になっているだけだ。

 ヴァン・ヘルシングは入院生活で大分疲れが溜まっている様子だった。たったの十日間伯爵が不在だっただけで、帰還してみればヴァン・ヘルシングは以前よりも増して老け込んで、痩せこけたように見えた。それを無理に起こすのは気が引けた。伯爵は微苦笑を浮かべては、時々むにゃむにゃと寝言を言うヴァン・ヘルシングを眺めていた。

 少しして、病室に松葉杖を持った看護師がやって来た。まだ夜明け間もないのに、既に伯爵がヴァン・ヘルシングが眠るベッドの脇に座っていたものだから、またもや看護師は悲鳴を上げそうになったが、伯爵が自身の唇に指を当て、静かにするよう促した。看護師はとっさに息をのみ、松葉杖だけを置いて立ち去ってしまった。


 それから1時間後、ヴァン・ヘルシングが目を覚ました。

「おはよう、エイブラハム。よく眠れたみたいだね」

「おはよう、ヴラド……」

 ヴァン・ヘルシングはゆっくりと上体を起こすと、思いっきり伸びをした。

「ああ。久々にちゃんと眠った気分だ」

「それは何よりだ。ところで――」

 伯爵がズイッと顔を近付けてきた。ヴァン・ヘルシングの目が寄り目になる。

「まだ昨夜の話が済んでおらんな……」

 伯爵はそう言いながらヴァン・ヘルシングの胸元に手を置いた。病衣越しから伝わる伯爵の氷のような手の冷たさと、怪訝そうな視線にヴァン・ヘルシングはドキリとした。

「まあ、その前に身なりを整えよう」

 伯爵は手を離すとベストとスラックス姿になりテキパキとお湯の入ったピッチャーや洗面器、カミソリ、タオル、新しい寝間着などを準備した。その間ヴァン・ヘルシングは尿意にそわそわしつつ、眼鏡を掛けるとベッドの柵に立て掛けてある松葉杖に注目した。

……そろそろ歩く練習をして良いってことか。

 ヴァン・ヘルシングはサイドテーブルで作業をしている伯爵を見上げた。

「なあ、ヴラド」

「何だね?」

 伯爵が振り向く。

「松葉杖を取ってくれないか?」

 ヴァン・ヘルシングはベッドの柵越しの松葉杖を指差した。伯爵は少しの間松葉杖を見つめると、何事もなかったかのように作業を再開させた。ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせた。

……え? 無視された?

「ヴラド……?」

 恐る恐る伯爵に声を掛けると、伯爵が振り向いてきた。

「まだ歩くのは良くないと思うが」

 伯爵なりに何か考えがあったのかも知れないが――まだ医者からも、歩く練習をしよう、とは言われていないので――、だが、ヴァン・ヘルシングにとってはどうでも良かった。先ずは一刻も早くトイレに行きたいのだ!

「なっ、なら、お前が便所まで運んでくれるのか?」

 ヴァン・ヘルシングは少々苛ついた声で尋ねた。

「何だ、またトイレかね」

 伯爵はため息交じりに言うと作業の手を止め、足元でガサゴソと、何かを漁った。

「“小”の方なのだろう? ならば――」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは嫌な予感を覚えた。

……まさか……。

 伯爵が足元から取り出したのは――またもや尿瓶だった……。

……か、神様……。私は何か悪い事でもしたのでしょうか……?

 ヴァン・ヘルシングはただ呆然と、伯爵が持つ尿瓶を眺めることしか出来なかった。


「きゃぁぁああ! 勝手に“前”を開けるな! 見ようとするな! この変態!」

「君も同類だと思うがね?」

「どこが!?」

「俺の“裸”をいつも見ては撫で回しているであろう?」

「は? 何の話だ!?」

「俺がコウモリの時だが?」

「コウモリは翼と脚以外もふもふだろ! それに変なところ触った覚えはないぞ!?」


 朝っぱらから繰り広げられるヴァン・ヘルシングと伯爵のよく分からん口論を、看護師たちがヒソヒソしながら眺めているのは言うまでもない。

「あの“親子”、コウモリで揉めてるの? それとも下ネタで揉めてるのかしら?」

「それにしても、似てないのに仲良いわねぇ」


 “事”を終え、ようやく落ち着くと、伯爵はヴァン・ヘルシングの寝間着やユニオンスーツをベッドの足元に置き、サイドテーブルにお湯の入った洗面器を用意した。

「エイブラハム、身体を拭いてやろう」

 伯爵はそう言いながらワイシャツの袖を捲り上げ、タオルをお湯に浸して絞った。

……結局脱ぐのか……。

 ヴァン・ヘルシングは小さくため息をもらすと、潔く病衣やユニオンスーツのボタンを外し始めた。かれこれ一週間以上シャワーを浴びれていないのだ。身体中が汗でべたついて居心地が良くなかったのは事実。上半身裸になると早速伯爵がヴァン・ヘルシングの背中を拭き始めた。あんな怪力のわりには背中を拭く力加減は丁度良く、ヴァン・ヘルシングは心地良さそうに息をついた。

……もしノエルが生きていたら、こんな風に私の世話をしてくれたのだろうか?

 そう考えると思わず涙腺が緩んでしまい、視界が――眼鏡を掛けているのに――ぼやけて見えづらくなってしまった。

「……ヴラド、ありがとう……。こんな身寄りのない老いぼれなんかの世話を焼いてくれて……」

「今は存分に焼かれるがいい」

「そうさせてもらうよ……」

 身体中を――何故か左の首筋を念入りに――拭いてもらうと、ひげも綺麗に剃ってもらい、ユニオンスーツや寝間着も新しく着替え、久々にさっぱりしたヴァン・ヘルシングは心機一転したようにいつもの調子を取り戻した。

 それから少しして、看護師が朝食のトーストにスライスされたチーズ、飲み物は牛乳を持ってきた。質素な食事を目の当たりにした伯爵は自身の目を疑った。

「エイブラハム……」

「ん?」

 ヴァン・ヘルシングは既にトーストにチーズを乗せてかぶり付いていた。

「食事はまだ来るのだろうね……?」

 伯爵は目の前に出された、トレーの上の食事を指差しながら尋ねた。ヴァン・ヘルシングはゴクンと飲み込むと、首を横に振った。

「これで全部だ」

「何だこの粗末な食事は?」

 伯爵は眉を潜め、怪訝な目でトレーに乗っている食事を見つめた。

「お陰で腹ぺこだ……」

 ヴァン・ヘルシングは苦笑いを浮かべながらトーストとチーズを食べ終えた。あと牛乳を飲んでしまえば、もうおしまいだ。

「家からサンドイッチを持って来よう。あとココアも」

 伯爵からの提案にヴァン・ヘルシングの顔がニヤけた。

「おお、背徳の予感だ」

 そう言いながら嬉しそうに両手を擦り合わせた。

「あ、だが、看護師には見つからないようにな?」

 ヴァン・ヘルシングが付け加えると、伯爵は、もちろん、と返し、病室をあとにした。ヴァン・ヘルシングは久々の伯爵の手料理を心待ちにするのであった。

 30分も経たないうちに伯爵がバスケットを持って戻ってきた。伯爵はバスケットをヴァン・ヘルシングのベッドのサイドテーブルに置くと、サンドイッチを取り出して彼に差し出した。

「さあ食べると良い、ブラム」

「ありがとう、ヴラド」

 ヴァン・ヘルシングは周囲を気にしつつサンドイッチを受け取ると、一口かぶりついた。刹那、ヴァン・ヘルシングは感無量といった様子でどんどんサンドイッチを食べ進めた。

「紅茶も飲むかね?」

 伯爵がティーポットとカップを出してきた。ヴァン・ヘルシングはサンドイッチを飲み込んで答えた。

「飲みたい」

 伯爵はカップに紅茶を注ぎ、ヴァン・ヘルシングに差し出した。

「どうぞ」

「ありがとう」

 ヴァン・ヘルシングは紅茶を一口飲み、安堵のため息をもらした。

「美味しい……」

「まだ食べるかね?」

 伯爵がサンドイッチを差し出してきた。

「ああ。もらうよ」

 ヴァン・ヘルシングはもう周囲のことを気にするのも忘れ、サンドイッチを眼の前に、ほっこりと表情を緩ませてはパクリと頬張った。

……ああ、久しぶりのちゃんとした食事。美味い……。

 看護師から隠れての――先ほどから全くやって来ないが――伯爵の手料理にヴァン・ヘルシングは背徳感を覚えたものの、だが自分は内科的ではなく外科的な症状で入院してるんだ。別に食事を管理される筋合いはない! と開き直り、伯爵が作ってくれたサンドイッチに舌鼓を打ち、最後は満足した様子で紅茶に続きココアも飲み干した。

「美味しかった。ありがとう、ヴラド」

「それは良かった」


 ヴァン・ヘルシングの朝食を終え、落ち着いた頃。

 伯爵はベッド脇の椅子に座り、ヴァン・ヘルシングに向き合っていた。昨夜の話の続きである。ヴァン・ヘルシングは腕を組み、考える素振りを見せた。

「実はな、お前がここを発った次の日にだな――」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵がアムステルダムを発った翌日からのことを話し始めた。

 モンスという壮年の男が酩酊状態で運ばれてきたこと。その日を境に泥酔で運ばれてくることが多くなってきたこと。その妻であるリーケのことも話した。伯爵は最初、静かに聞いていたものの、看護師から聞いたモンスの家柄のことやリーケの話になると次第に目元にシワを寄せ始めた。ヴァン・ヘルシングはとくに気にせず話を続ける。

「だからもし、モンスさんが何か、薬を盛られて飲酒もして、となったら相互作用で薬の作用が強く出る。それこそ最近出来た睡眠薬――バルビタールなんかも危険な薬になる」

【バルビタール。不眠症の薬。20世紀初頭に発明され、20世紀半ばまで使われていた錠剤の睡眠薬。通常は10〜15粒。50粒ぐらいから致死量。少し苦くて無臭。水に溶けやすい。副作用:頭痛、めまい、息切れ、昏睡、血圧・体温低下、運動失調等。依存性があり、長期に渡って使いすぎると耐性がついて効きにくくなる。諸説あるが、この薬の過剰摂取によって小説家の芥川龍之介が自殺している】

「ほう。治療のための薬も使い方を間違えば“毒”になる、ということだね?」

 伯爵は興味深そうに口元に手を当て、うなずいた。ヴァン・ヘルシングも深くうなずく。

「そうだ。それで俺が一番危惧してるのが、薬物とアルコールの相互作用による――」

 ヴァン・ヘルシングは少し間を置いて、深刻そうに噛みしめるようにして、声を潜めて言った。

「……殺人、だ」

「ほう、まさに“背徳の予感”がするね」

 伯爵が少し楽しんでいるような口調で言った。そんな伯爵にヴァン・ヘルシングはため息をつきつつ、行き詰まったように唸った。

「だからといって、それを裏付ける証拠が――」

「だが、我々が干渉する必要がそんなにあるのかね?」

 伯爵が遮るように言った。ヴァン・ヘルシングはキョトンとした表情で伯爵を見た。伯爵が話を続ける。

「まだ未遂である以上、部外者は口出しも出来まい。それに聞いた話、許嫁がいたにも関わらず他の女にうつつを抜かすなど、その御曹司とやらの自己責任だと思わんかね? それは己で解決すべきであって、我々の関与することではない」

 多分伯爵は、自身の生前の出来事と重ね合わせた上での意見を述べたのだろう。伯爵――ヴラド三世なりに生前、何とかして当時の妻であったアナスタシアと離婚してカタリーナと結婚しようと、当時のローマ教皇ピウス二世に、アナスタシアとの結婚を無効にしてほしいと二回も手紙を出していたのだから。結局報われることはなく、生涯を終えてしまったが……。

 ヴァン・ヘルシングは思い悩むようにため息をもらした。

「まあ、そうとも言えるが……。だが――」

 ヴァン・ヘルシングは言い掛けたところで伯爵を真っ直ぐな目で見つめた。 

「俺は……本来病を治すための道具や薬で誰かが殺されるのが嫌なんだ。医者である俺が見過ごせると思うか? 可能性がある以上見て見ぬふりは出来ない。せめて、俺の杞憂だった、と分かるまでは、俺の見れているところではモンスさんが死なないように見守りたい……」

 ヴァン・ヘルシングの嘘偽りない真っ直ぐな言葉に、伯爵は肩を落とし、仕方がないなと言った様子で眉尻を下げた。

「流石、君らしい……」

 伯爵は少し身を乗り出すと、微苦笑を浮かべた。

「俺は、そやつらのことはどうでも良いが、君が既にその女に目を付けられてるのが気に食わんからね。協力しよう」

「ありがとう、ヴラド」

 ヴァン・ヘルシングは先ほどの表情とは打って変わって、にっこりと破顔してみせた。

「それで、エイブラハム。次にそのモンスとやらが運ばれてきたらどうするのかね?」

 伯爵の問いにヴァン・ヘルシングは即答した。

「先ずは聞き取りをしたい。だがきっとリーケさんもいると思う――」

 その時だった。

「モンスさん! 分かりますか!?」

「病院ですよ!?」

 病室の外から看護師たちの慌ただしい声と足音が響いてきた。昨日の今日だというのに、もう運ばれてきたのか、とヴァン・ヘルシングはヒヤヒヤしながら、看護師たちが持つ担架で運ばれるモンスを眺めた。案の定その後ろにリーケもくっついてやって来た。

……お出ましだ。

 ヴァン・ヘルシングと伯爵は宣戦布告するかのように、お淑やかな表情で前を通り過ぎるリーケを見つめた。






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外伝 〜ヴァン・ヘルシング教授の助手・20世紀初頭編〜 Inside story 〜Dr. Van Helsing's Assistant・The Early 20th century series〜 スグル @bange0203

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