37 青い炎

 その後、リーケはすぐに目覚めた。何事もなかったかのように、ふらつくモンスの脇を支え、病院を後にした。

 看護師の話によると、モンスは記憶が曖昧だったようで、何故自分が病院にいるのか分かっていないとのことだった。おまけにイェネーファは一杯しか飲んでない、とのことだ。

 その日の夜、ヴァン・ヘルシングはずっと思い悩んでいた。

……あんなに酒臭くなるまで普段飲んでる人が、たった一杯の酒であんなに泥酔するのか?

 ヴァン・ヘルシングは不思議そうに腕を組んだ。

 間もなくして看護師が巡回にやって来て、消灯することを告げてきた。いつの間にか夜になっていたのか、とヴァン・ヘルシングは、不謹慎ではあるが、お陰で外に出られないという憂鬱さを紛らわすことが出来た。


 深夜。

 ヴァン・ヘルシングはじっと真っ暗な天井を見つめながらベッドに横たわっていた。

 昼間あんな騒動があったので気が紛れていたが、いざ夜になり、真っ暗な病室に自分一人だけになって静かになると、心細くなって寂しさが込み上げてきた。

……ヴラドのもふもふの腹に顔を埋めたい。背中でも良い――って、何考えてるんだっ、私は! 

 ヴァン・ヘルシングはハッ! と我に返り、首を横に振った、が……。

「……モフりたい」

 結局のところ鉄の意志を持つヴァン・ヘルシングですら、精神が弱ってる時は、欲求に勝てなかった……。

 それからしばらく経ったが、ヴァン・ヘルシングはまだ眠れないでいた。大分目も慣れ、少しだが病室内を見れるようになった。全く眠れないので、何度も寝返りを打っては昼間のモンスの症状について再度考えていた。

……たった一杯の飲酒で泥酔……。

 ヴァン・ヘルシングはあらゆる可能性を思案した。

……泥酔の原因が酒じゃない、としたら――。

 一気に覚醒したようにヴァン・ヘルシングはガバッ! と起き上がった。その反動で骨折している右脚に激痛が走った。

「うぅっ……」

 掛け布団越しに右脚を擦りながら、ふぅ、と息をつく。

「痛み止めが欲しいな……」

 そう呟きながらヴァン・ヘルシングは冷静な表情で手元を見つめた。

……泥酔の原因は……薬とアルコールによる相互作用かも知れない……。

 しかし、それを裏付ける証拠はない。

 モンスがもし何かしらの薬を服用しており、医師からの注意事項を無視して酒を飲んでいたら、これは単なるモンスの自己責任だ。だが、“何者”かによって知らず知らずのうちに薬を飲まされ、それを知らないモンスが酒を飲んでいたとすれば――。

 そう考えてしまったヴァン・ヘルシングは思わずブルッと体を震わせた。その“何者”かに心当たりがあるからである。出来ればただの杞憂であってほしい……。そう願い、ため息をついていると――ボッ! と、突然病室の入口の方が青白く光った。ヴァン・ヘルシングは驚きのあまりすかさずそちらを見ると、何と、暗闇の中ランタンが一つ、独りでに浮遊し、その中に青い炎を携えて辺りを照らし出していた。あまりの出来事にヴァン・ヘルシングはヒュッと息をのんだ。

 とうとう心霊現象に遭遇してしまったのか、それとも既に自分は眠っていて夢でも見ているのか、若しくは頭が本当にイカれてしまった――そう思いたくはないが――のか、と。

 青い炎を灯すランタンはぷかぷか浮遊しながらヴァン・ヘルシングの方に近づいてきた。それと同時にヴァン・ヘルシングの心臓が早鐘を打ち始めた。ヴァン・ヘルシングは掛け布団を手繰り寄せ、口元まで引っ張り寄せつつ近づいてくるランタンを凝視していると、ランタンは静かにサイドテーブルに着地した。それと同時にキィ、と小さく鳴く声が膝元から聞こえた。勢いよく掛け布団を捲り自身の膝元を見下ろすと、大きな黒いコウモリがヴァン・ヘルシングを、薄暗い中でも分かる真っ赤な瞳で見上げていたのだ。ヴァン・ヘルシングは目を見開いた。

……ヴラド……?

 青い炎に照らされ、コウモリの瞳はドラゴンズブレスのように妖しく不思議に煌めいていた。ヴァン・ヘルシングは何のためらいもなくコウモリを持ち上げ――コウモリはされるがままだった――、首元に抱き寄せた。かすかなココアの匂いにヴァン・ヘルシングは、このコウモリはヴラドだと確信した。

「ああ、ヴラド。帰ってきたんだな。おかえり」

『ただいま、エイブラハム。遅くなった』

 コウモリは伯爵の声で“言う”と、ヴァン・ヘルシングの首筋に頬擦りをしてきた。

「お前が無事に帰ってきてくれて何よりだ」

 ヴァン・ヘルシングはコウモリを再度持ち上げ、自身の膝に優しく置いた。コウモリにとっては物足りなかったらしく、ヴァン・ヘルシングの胸元をよじ登ってきた時だった。突然コウモリが、何かを感じっ取ったのか彼の病衣の胸元をスススススススンッ! と超高速で嗅ぎ回ってきたのだ。その行動にヴァン・ヘルシングは目を丸くせざるを得なかった。

「な、何だよっ!?」

 そんなヴァン・ヘルシングを無視し、コウモリはさらに、先ほどよりも素早い動きでよじ登ってくると、彼の鼻と自身の鼻が引っ付くぐらいに――否、引っ付かせ、怪訝そうな目付きでヴァン・ヘルシングの顔を見上げた。ヴァン・ヘルシングの目が寄り目になる。

『君……“よろしく”したな……?』

 コウモリ――伯爵の声は落ち着いていたものの、その耳は苛立っているようにひょこひょこと忙しなく動いていた。

「よ、“よろしく”ぅ? だっ、誰がするか!」

 ヴァン・ヘルシングが反論するとコウモリはさらにスンスンと匂いを嗅いできた。

『惚けるでない。看護師たち以外の、女のにおいがする……。どういうことかね?』

 コウモリは首をかしげ、ジトッとした目付きで再度ヴァン・ヘルシングの鼻先に自身の鼻先を押し付けた。

「だ、だから違う! これは昼間――てかお前、この病院の看護師全員のにおいを把握してるのか!?」

『当たり前だ。君に“変な虫”が付いては俺が気に食わん』

 コウモリはヴァン・ヘルシングの頬を親指の付け根でツンツン突いてきた。

「何だよ、嫉妬でもしたのか? 俺もまだまだ捨てたもんじゃないだろ?」

 ヴァン・ヘルシングは自慢げに笑みを浮かべながら、ははっ! と笑ってやった。コウモリは衝撃を受けたのか悲しげに耳をへたりと倒したかと思えば顔を離し、静かな声で尋ねてきた。

『君は……その女と再婚でも考えているのかね……?』

 コウモリの問いにヴァン・ヘルシングは驚きの表情を見せる。

「再婚!?」

『もし君が再婚したい、というのであれば、俺は出て行くよ……』

 コウモリはヴァン・ヘルシングの胸元を後退するように降りていくと、とぼとぼと回れ右をした。その様子は何かに敗北し、潔く身を引く男に見えた。ヴァン・ヘルシングはてっきり、コウモリ――伯爵は不平不満をぶち撒けてくると思っていたので、予想外のことに一瞬目を点にした。

「さ、再婚なんかするもんか!」

 ヴァン・ヘルシングは戸惑いながらコウモリを引き止め、背後からとっさに持ち上げた。コウモリはだらりとヴァン・ヘルシングの両手に乗っていた。

「俺が悪かったって。もうこんな老いぼれだ。言い寄られたって辞退するさ。それに――」

 ヴァン・ヘルシングはコウモリの向きを変え、胸元に抱き寄せた。

「再婚だなんて……。お前のせいで、他の女性に対して魅力を感じなくなってしまった。どうしてくれるんだ。責任取ってもらうからな?」

 コウモリは目をパチクリさせると、照れ隠しかヴァン・ヘルシングの胸元をバシバシ叩いて――痛くはない――、ぎこちなくただキィキィと鳴いて誤魔化してきた。ヴァン・ヘルシングは破顔しながら言った。

「人語じゃないと分からないぞ?」

 ヴァン・ヘルシングがコウモリを首元に抱き寄せると、コウモリも両腕を広げ、ヴァン・ヘルシングの首筋に縋り付いてきた。コウモリのもふもふの毛並みについ、ヴァン・ヘルシングの口元が緩んでしまう。

……今夜はよく眠れそうだ。まさか、お前のことがこんなに恋しくなるとは……。

「Goedenacht, Vlad.」

『Noapte bună, Abraham.』

 ヴァン・ヘルシングはベッドに横たわると、コウモリの背を撫でながら今までの寝不足を取り戻すように深い眠りに落ちていった。

 







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