36 リーケの企み

 数日後、5月5日の昼間。

 ヴァン・ヘルシングは退屈しのぎに本を読んでいたが、つまらなそうにため息をつくと向かいの窓の外を見つめた。

……今頃ヴラドはトランシルヴァニアか……。

 再びため息をつくと本を閉じ、ベッド脇に置かれてある車椅子を一瞥した。早く松葉杖を使えたら良いのに……。ヴァン・ヘルシングはそう思うのであった。

 自分が医師として患者を車椅子に乗せて、移動させたことは数え切れないほどたくさんあったのに、いざ自分が患者となって車椅子に乗せられて運ばれるのは、妙な感じがした。それと同時に自身の無力さも覚えた。

 早く自分の足で歩きたい。せめてベッドから出たい……。そのもどかしさが最近ヴァン・ヘルシングを思い悩ませ、彼の精神を弱らせていた。


 午後6時をもうすぐで迎える頃。窓の外はまだ明るかったが、晩の病院食が出されたのでヴァン・ヘルシングがちびちびと食べていると、数日前と同じようにバタバタと騒がしい足音がした。そちらに目をやると案の定、またモンスが看護師二人に支えられながら病室に入ってきた。前回よりも酩酊――否、泥酔しているようで、今日はとても静かだった。モンスが入ってきたとたん、酒の臭いが鼻を突き、食欲を削がれたのは言うまでもない。

……イェネーファ【オランダのジン。ジュネヴァとも。アルコール度数約40度】でも飲んできたのか? まあ、私には関係ない……。

 食事を再開させようとすると、モンスたちの後にリーケも一緒にやって来たのが目に入り、思わずヒュッと息をのんだ。危うく貴重なタンパク質であるチーズを掛け布団の上に落としそうになる。

 今伯爵は不在で、尚且つベッドから出られないという精神的疲労に、さらに追い打ちを掛けられたヴァン・ヘルシングは大きなため息をもらした。

 リーケはまたもや以前と違うドレスにハンドバッグ、宝飾類を身に着けていた。そして不謹慎にも何故か、モンスが正体をなくすほどに泥酔しているというのに彼女は表情を輝かせており、モンスがヴァン・ヘルシングの向かいのベッドに運ばれていく中、真っ直ぐ、何とヴァン・ヘルシングの元に向かってきたのだ。ヴァン・ヘルシングはすぐさま顔を背け、食事に集中した。

「こんにちは、ヴァン・ヘルシングさん」

 リーケはヴァン・ヘルシングに構わず、彼をのぞき込んできた。ヴァン・ヘルシングは固唾をのむように口の中のトーストを飲み込むと、怪訝な表情でリーケを見上げた。

「何か……?」

「ただ挨拶に来ただけよ? では、ごきげんよう」

 リーケは軽く会釈したかと思えばあっさりとモンスの元に行ってしまったのだ。ようやく懲りてくれたのか、と安堵し、ヴァン・ヘルシングは食事を再開させた。


 午後8時半を迎え、窓の外が夕焼け色に染まり始めた。未だにモンスはベッドで眠っており、その傍らにリーケが座って上品ぶって本を読んでいた。ヴァン・ヘルシングも本を読んでおり、時折視線を感じるとそちらをちらりと見た。予想通りリーケがこちらを見ていた。どうやらまだ懲りていないらしく、ヴァン・ヘルシングはとっさに本に視線を落とした。

 陽が沈み、その頃にようやくモンスが目を覚ました。モンスは自分が何故病院にいるのか分かっていない様子で、病室内を朧げに見渡していた。それを見逃さなかった看護師がリーケに、帰宅しますか? と尋ねた。リーケは少し動揺していたが、ため息をついてうなずいた。

 帰る準備を覚束ない様子で行うモンスを横目に、リーケがまたヴァン・ヘルシングの元に歩み寄ってきた。ヴァン・ヘルシングは読書に集中しているように装った。

「ではヴァン・ヘルシングさん、ごきげんよう」

 リーケは軽く会釈し、モンスの元へ戻っていった。ヴァン・ヘルシングはちらりとモンス夫妻を一瞥した。リーケがモンスの脇を抱えて歩かせていた。傍から見れば夫思いの妻に見える。

……何だ? この違和感……。

 ヴァン・ヘルシングは首をかしげながら読書を再開させた。


 数日後の昼間。伯爵がアムステルダムを発ってはや十日。まだ伯爵は帰ってきていない。

 ヴァン・ヘルシングは何かやることも、やりたいこともなく、朝からただ呆然とベッドの上で自分の脚を見つめていた。寝不足のせいかその顔は老け込み、無精ひげが目立ってきて、今にも枕に倒れ込みそうに見えた。

……“僕”は、一生外に出られないんだ……。

 この状況がヴァン・ヘルシングの、昔の嫌な記憶を否応なしに思い出させた。

 少しでも良いから外に出たい……。切実にそう思っていると、またもやバタバタと騒がしい足音がした。ヴァン・ヘルシングは深いため息をつき、横になると掛け布団で顔を覆った。


――スさん、――かりし――ださ……。

「モンスさん! しっかりしてください!」

「ここが分かりますか!? 病院ですよ!」

 ヴァン・ヘルシングははっ! と目を覚ました。

 女性――看護師たちの今までとは違う切羽詰まった叫び声が、ただ事ではない、と否応なしにヴァン・ヘルシングに悟らせた。ヴァン・ヘルシングはガバッ! と起き上がると、眼の前の光景に驚愕した。何とななめ向かいのベッドに全く動かないモンスが横たわっており、それを数人の看護師が慌ただしく囲んでいた。その脇では例のごとくリーケが静かに立って、モンスを眺めていた。

「意識がないわ!」

「誰か早く先生を連れて来て!」

「モンスさんの身体が冷たくなってきてる!」

「呼吸が浅いわ!」

 慌てふためく看護師たちにヴァン・ヘルシングが一喝した。

「君たち!」

 看護師たちが一斉に、ヴァン・ヘルシングに振り向いた。

「先ずは掛け布団以外にも毛布を持ってきてモンスさんの身体を温めるんだ! それと嘔吐するかも知れん。洗面器を持ってくるのと、あと脱水症状を起こしてるかも知れんから吸い飲みに水を持ってきなさい!」

「「はいっ!」」

 ヴァン・ヘルシングに指示された看護師たちはテキパキと行動を起こし、モンスへの処置を行った。それを離れたところで、リーケが嬉しそうに眺めていたのだ。そんなリーケを見る余裕のないヴァン・ヘルシングや看護師たちは、ただただモンスの回復を待った。

 しばらくして、ヴァン・ヘルシングの的確な指示の下、看護師たちの懸命な看護の甲斐あってモンスはぼんやりとだが意識を取り戻した。

 看護師がヴァン・ヘルシングの元に歩み寄ってきた。

「ヴァン・ヘルシング先生、モンスさんが起きました」

「良かった。では吸い飲みで少しずつ水を飲ませて。あと内科の医師に診てもらうように」

「はい」

 看護師が離れていき、ヴァン・ヘルシングが安堵のため息をついていると、そろそろとリーケが近づいてきた。

「ヴァン・ヘルシングさん」

 リーケに名前を呼ばれ、ヴァン・ヘルシングはギクッ! と肩を震わせた。

「は、はい……」

 恐る恐る振り向くと、リーケは今にも泣き出しそうな潤んだ目でヴァン・ヘルシングを見つめていた。

「夫を助けていただき……ありがとうございます」

 リーケは深々と頭を下げた。今まで見てきた彼女とは全く思えない素振りにヴァン・ヘルシングはあたふたしながら手を振った。

「あ、頭を上げてくださいっ……リーケさ――」

 その時、リーケがそのまま前のめりになり、ヴァン・ヘルシングの胸に倒れ込んできたのだ。

「大丈夫ですかっ?」

 ヴァン・ヘルシングは自分の胸にもたれ掛かるリーケを起こそうと、その両肩を掴むと、リーケが彼の病衣にしがみついてきた。

「わたし……夫に暴力を振るわれてるの……」

 リーケがボソリと呟いてきた。ヴァン・ヘルシングはドキリとし、手が止まった。

「暴力……ですか」

 ヴァン・ヘルシングは小さな声で聞き返した。リーケは続ける。

「あんなに酔うまでお酒を飲んでるでしょ……? お酒が切れると暴力。酔っても暴力……。もう嫌になっちゃうわ……」

 リーケは瞳を潤ませてヴァン・ヘルシングを見上げた。ヴァン・ヘルシングは眉をひそめ、静かに、落ち着いた声で尋ねた。

「その暴力、というのは……?」

 ヴァン・ヘルシングの問いに、リーケは少し考える素振りを見せた。

「な、殴られたり……蹴られたり、よ……? き、昨日なんか頬を殴られたの」

 そう言ってリーケは自身の右頬を押さえた。だがその頬には打撲の痕は一切見られない。医者であるヴァン・ヘルシングには一目瞭然だった。ヴァン・ヘルシングは内心ため息をつき、少し強引にリーケを起こした。

「傷はもう治ってるみたいですね」

 ヴァン・ヘルシングが素っ気なく言うと、リーケは目をパチクリさせ、再度彼の胸元に倒れ込んできた。

「えっ!? リーケさん!」

 リーケの肩をどんなに揺さぶっても彼女は全く目覚めようとしなかった。それにはヴァン・ヘルシングも焦りを覚えた。

「リーケさん? しっかり! 誰か!」

 ヴァン・ヘルシングは自分の胸にもたれ掛かるリーケの背を強く叩きながら起こそうと懸命になった。すかさず看護師二人が駆けつけ、モンスよりも重そうなリーケの身体の両脇を支えると、隣のベッドに寝かせた。ヴァン・ヘルシングはびっくりした様子で隣のベッドに横たわるリーケを見つめた。何とも言い難い強い香水の匂いがヴァン・ヘルシングの病衣に残ってしまった。ヴァン・ヘルシングは嫌に甘ったるい香水の匂いにため息をつくと、ふと、あることに気づいた。

……そういえば、今日はそんなに酒臭くない……。ならば、モンスさんは何故……。

 ヴァン・ヘルシングは、朧げな表情で水を飲んでいるモンスを怪訝な目で見つめた。









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