35 奇妙な来訪者

 伯爵がアムステルダムを発った翌日の昼間――といっても午後8時くらい――のこと。

 ヴァン・ヘルシングは暇そうにベッドに横たわり、伯爵が持ってきてくれた本を読んでいた。すると……。

「ちゃんと歩いてくださいっ!」

「何でこんなになるまで飲んだんですかっ?」

 女性たちの騒がしい声と、バタバタと大きな足音が近づいてきた。病室の入口を見ると、看護師二人に両側から支えられている30代くらいの無精ひげの男が入ってくるのが見えた。壮年の男は工場帰りだったのか、黒い油汚れのついたつなぎに木靴姿だった。相当酔っているようで顔が真っ赤だ。何より覚束ない足取りで、今にも転んでしまいそうに見えた。男はまるで“天国”にでもいるかのような表情で、ヘラヘラとしながら両隣の看護師二人にもたれ掛かったりしていた。

……酔っ払いか……。アルコール中毒だろうか?

 ヴァン・ヘルシングはくわばら、くわばらとでも言うように目を本に戻すと、いきなりベッドにガツン! と衝撃が来た。慌てて顔を上げると、先ほどの男がベッドの足元の柵に寄り掛かり、ヴァン・ヘルシングを敵視しているかのような目付きで見ていたのだ。ヴァン・ヘルシングはびっくりしつつ男を見つめると、恐る恐る尋ねた。

「……何か……?」

「おいジジイ……さっきおへほぉとみへはろぉ……?」

 男は何を言ってるのか分からないくらいに呂律が回っておらず、喋るたびに酒の嫌な臭いが鼻を突いてきた。ヴァン・ヘルシングは思わず手で鼻を押さえてしまった。

「モンスさんっ!」

「行きますよっ!」

 モンスと呼ばれた男は看護師二人によってベッドの柵から引き剥がされ、ヴァン・ヘルシングの向かいの一つ隣のベッドに寝かされた。看護師たちがベッドに寝かせようとしている最中もモンスは、俺は酔っ払ってねぇっ! と喚くのであった。

 ヴァン・ヘルシングはななめ向かいの患者の存在に、憂鬱な入院生活が始まるのか、と項垂れた。

 陽もだいぶ落ちた頃、モンスは落ち着きを取り戻したのか、呆然と、眠たそうな面持ちでベッドの上に静かに横になっていた。そこへ、看護師とともに一人の青年ぐらいに見える小太りの女性がやって来た。女性はどうやらモンスの妻のようで、工場労働者の妻のわりには中流階級の者が身に着けそうな、高そうなハンドバッグに華やかなドレス――伯爵の女姿のドレス程ではないが――を身にまとっていた。病室の白熱電球の淡い光の中で、こちらに近づいてくるにつれ、化粧や髪型でだいぶ若作りしているように見えた。実際のところモンスと同じく壮年ぐらいだろうか。

 モンス夫人は、自分は上流階級だ、と言わんばかりに、看護師を適当にあしらうと、モンスが横たわるベッドに向かった。

「あなたっ、また酔っ払ってきたのねっ!? 何度言ったら分かるのよっ!? 飲酒にお金を使わないでって!」

 夫人がモンスに怒鳴り散らしたかと思えば、モンスはバツが悪そうに縮こまった。それを傍から見ていたヴァン・ヘルシングは、そう言う夫人の方もだいぶ金を掛けてるな……と思うのであった。

 ヴァン・ヘルシングの視線に気づいたのか夫人がとっさに振り返ってきた。ヴァン・ヘルシングを見るなり、何だ、老人か、とでも言うように、見下すような目付きになったと思えば鬱陶しそうにモンスの方に向き直った。それを目の当たりにしてしまったヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせて、夫人の感じの悪さに少し不貞腐れながら本に視線を戻した。すると、横から声を掛けられた。

「すみませんね、ヴァン・ヘルシングさん……」

 ちらりと見上げると看護師が立っていた。ヴァン・ヘルシングは本を閉じると表情を和らげ、顔を看護師の方に向けた。

「いいえ、あれくらい何ともないですよ」

「まあ! ヴァン・ヘルシングさんみたいな心の広い男性がたくさんいれば良いのにねぇ」

 看護師はモンス夫妻を眺めつつ、ため息交じりに話を続けた。

「モンスさんたら先週も来たのよ。懲りてないわね……」

 そう言ったかと思えば看護師はしゃがみ込むとヴァン・ヘルシングの耳元で囁くように言った。

「……でも噂じゃ、あの二人駆け落ちしたらしくって――」

 ヴァン・ヘルシングは目を丸くしてモンス夫妻を盗み見た。看護師が話を続ける。

「モンスさん――旦那さんの方よ? モンスさんって元々は裕福な家柄の息子だったみたいで、なのにあの奥さんと結婚したいがために駆け落ちしたんですって。でも……」

 看護師は憐れむような目でモンス夫妻――否、モンスを見た。

「奥さんは働きもしないのに、家計のお金をドレスとか化粧に使って貧困なんですって。ホントにそうなら少しは旦那さんに同情しちゃうわね……」

 ヴァン・ヘルシングは、何でこの看護師は他人の家のことを知っているんだ? と思いながら、憐れむように、帰る準備をしているモンスを眺めた。確かにモンスの妻は自身に結構金を掛けている。定かではないが、まさか働いていないとは……。おまけにモンスは裕福な家柄の出だったとは……。完全に“財布扱い”されているではないか。先ほどのモンスの悪態は水に流しておこう、とヴァン・ヘルシングは思うのであった。

「ヴァン・ヘルシングさんも気をつけた方が良いですよ? 目を付けられるかも」

「私が、ですか?」

 ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせて看護師に向き直った。

「だってヴァン・ヘルシングさん、まさかアムステルダム市立大学の教授だったとはねぇ。ということは公務員ってことでしょ? 絶対狙われるわよ」

「まあ、大丈夫だと思いますよ。私はただの、そこら辺にいる老人と思われてるみたいですので……」

 ヴァン・ヘルシングは苦笑いを浮かべた。病室を去っていくモンス夫人に見つめられているのを知らずに――。


 翌日、昼間。

 ヴァン・ヘルシングがベッドの上で本を読んでいると、強い香水の匂いとともに女性の声がした。

「ヴァン・ヘルシングさんといったかしら?」

 顔を上げると、ヴァン・ヘルシングは思わず目を見開いた。そこに立っていたのは何と、モンス夫人だったからである。

 モンス夫人は昨日とは違うハンドバッグやドレスを身に着けており、右手首に見事な彫刻が施された金色のバンクルも着けていた。どれもこれも見るからに中流階級以上の女性が着けそうな代物だった。

 予想外の来訪者にヴァン・ヘルシングは内心ヒヤヒヤしながら答えた。

「そう……ですが? あなたは……モンス夫人――」

「モンス夫人だなんて……。リーケって呼んでちょうだい?」

 モンス夫人――リーケはまつ毛をパチパチさせて、上目遣いでヴァン・ヘルシングを見つめた。昨日とは全く違う印象の彼女に、ヴァン・ヘルシングは思わず困惑してしまった。おまけに自己紹介をした覚えはないのに、リーケ・モンスはヴァン・ヘルシングの名を言ったのだ。もしかしたら昨日の、看護師との会話を聞いていたのかもしれない。そうなると、リーケはとんでもない地獄耳の持ち主かも知れない……。

「えっと、リーケさん……。私に何かご用ですか?」

 ヴァン・ヘルシングが戸惑いつつ尋ねると、リーケは、待ってました! と言わんばかりにヴァン・ヘルシングの足をお尻でグイグイと押し退け、足元にドサリと座ってきたのだ。ヴァン・ヘルシングは避難するように、よいしょ、と身体をずらした。リーケはベッドの足元に深々と座ったかと思えば膝の上にバッグを置くと、がま口の口を開け、ガサゴソと中身を漁った。一体何を出してくるつもりなのか、とヴァン・ヘルシングは固唾をのみながらリーケの手元を見つめた。リーケは1枚の小さな紙を出すと、それをヴァン・ヘルシングに見せてきた。それは一人の女性が写った、色褪せた写真だった。写真の女性はとてもお淑やかに見え、細身で美人だった。ヴァン・ヘルシングは、これが何か? と言うように瞬きをしてリーケを見ると、当のリーケは動揺した様子でヴァン・ヘルシングを見つめていた。リーケは焦ったように言った。

「こ、これはわたしが若かった頃の写真ですのよ? どうかしら?」

 リーケは自慢げに話してきた。

 なるほど、とヴァン・ヘルシングは考えた。今は――失礼な言い方ではあるが――見る影もないが、リーケの若い頃がこのぐらいの美人なら、モンスが結婚したいと思ったのも無理はないかも知れない。だが、今のヴァン・ヘルシングは伯爵――カタリーナのせいで“目が肥えてしまった”ようで、写真の彼女に対して何も思えなかった。どんなに若い頃のリーケが美人で綺麗に着飾っていたとしても、ヴァン・ヘルシングにはカタリーナの威厳のある佇まいや優雅さ、品のある仕草に勝るものはないと思うのであった。たとえカタリーナが何も着飾っていなかったとしても、きっと“彼女”の方が魅力のある女性だと思うに違いない。

 ヴァン・ヘルシングは伯爵のことを思い浮かべ、思わず口元が緩んでしまった。それをリーケは勘違いしたのか、最初の調子を取り戻して話を続けた。

「夫とは駆け落ち同然だったの。夫がわたしとどうしても結婚したいって言うから、“親”の反対を押し切ったのよ?」

 果たしてモンスの親なのか、リーケの親なのか、どちらだろうか? と内心思いながらヴァン・ヘルシングは、そうですか……と呟いた。

「それで……えっと……ご用は何でしょうか?」

 ヴァン・ヘルシングが再び戸惑った様子で、苦笑しながら尋ねると、リーケは、へ? と間の抜けた声をもらした。どうやらリーケは別の言葉を期待していたようだ。

 ヴァン・ヘルシングはきっと自分のことを素敵な女性だ、と思い、お近づきになりたい、関係を持ちたい、と思ってくれるに違いない。そう期待していたようだった。だが、昔の美貌を以ってしてもヴァン・ヘルシングの心はこちらに傾くどころか、鈍感なのか、鉄の意志でも持っているのか、平凡な目で見てくるだけだった。たとえヴァン・ヘルシングに今“相手”がいたとしても、リーケには関係のないこと。何せモンスにも元々許嫁がいたのだ。それを横入りし、モンスの妻の座を奪ったのだ。まさかモンスが家から勘当されるとは思わなかったみたいだが……。

 リーケは呆然と言葉を失った。昔の美しかった自分――要するに彼女の今の虚栄心はあっさり打ち砕かれてしまったのだ。リーケは口ごもりながら小さな声で言った。

「さ、昨日の……ことで、謝罪を……」

「別に怒っていませんよ。では」

 ヴァン・ヘルシングは笑みを浮かべながら言うと、再び本を開いて読書を再開させた。ヴァン・ヘルシング的には早くリーケが立ち去ってくれるのを祈った。定かではないが、まさか自分に言い寄ってくるとは……。

 リーケは、ヴァン・ヘルシングに完全に相手にされなくなったことに恥ずかしさと憤りを感じ、そそくさと逃げるようにして病室を後にした。

……何としてでも絶対夫とは別れて、あの公務員のジジイに取り入ってやるんだから! 親から勘当された御曹司なんてただのゴミよ!

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