34 伯爵、トランシルヴァニアへ

 5月1日の夕方、午後9時過ぎ。日の入りを迎え、伯爵はコウモリに変身するとアムステルダムを発った。運河の上はコウモリ姿で飛んでいたとしても渡れないので、少し億劫だが運河を避け、住宅街や歩道の上を飛んでいった。目指すは、我が領地であるトランシルヴァニアである。

 陽が沈んだばかりのアムステルダムから東側へと向かい、空はより一層漆黒の闇に染まっていった。そこに小さく輝く星たちが散りばめられ、その美しさに思わずため息をつく。

……エイブラハムにも見せてやりたいものだ。


 そこから伯爵は頑張った。

 先ず、翌日5月2日の日の出前にドイツに入ると、半円柱がいくつか横たわったような特徴のある建物、フランクフルト中央駅から始発の列車に乗ってオーストリアのリンツを目指した。

 因みにどうやって駅舎に入ったか、って? 伯爵は駅の職員や近くにいた人、強いてはそこらを飛んでいた鳥や、駅に住み着いていたネズミや小さなコウモリに催眠術を掛けて招かせたのであった。今の伯爵にとって一人で出歩いてどこかの建物に入るというのは、少し苦労を感じるものだった。もう伯爵にはヴァン・ヘルシングの存在が色んな意味で必要不可欠となっていたのだ。

 リンツに着いたのは日の入りを迎えた午後9時ぐらいだった。リンツからはコウモリとなってハンガリーのブダペストを目指す。

 日付をまたいで5月3日の午前5時半頃、日の出を迎えるとともにブダペストに到着した。日の出ギリギリの到着だったもので伯爵もヒヤヒヤしたに違いない。ブダペストからは始発の列車に乗り、我らがカルパチア山脈の麓、トランシルヴァニアのビストリッツへと向かう。

 午後7時ぐらいにビストリッツに到着し、そこから乗り合い馬車を拾ってボルゴ峠を目指す。

 蹄鉄状に広がるカルパチア山脈の麓は少しばかり雪が残り、頂上付近は未だに真っ白に染まって太陽の光をキラキラと照り返していた。その雄大な、懐かしい景色を伯爵は、馬車の窓からじっと眺めていた。

 午後8時半を過ぎると陽が沈み始め、辺りは急に暗くなりだした。そのボルゴ峠までの道中、馭者や数人の同乗者が鬱蒼とする暗い森の奥から聞こえる狼の遠吠えや、この辺りには吸血鬼が住んでいるという噂に怯えつつ、聖ジョージの話をして恐怖を紛らわしていた。そして伯爵に、こんな夜にボルゴ峠で降りるのは危ない、と話し掛けてくる同乗者もいたが、伯爵は、心配無用だ、と返すのであった。

 5時間半近くを掛け、ボルゴ峠に着いた。着く頃には辺りは真っ暗で、真夜中を過ぎて5月4日となっていた。

 真っ暗な中乗り合い馬車が去って行くのを見送った伯爵は、コウモリに変身すると我が城へと飛んで行った。

 鬱蒼とする深い森の中の街道を、右にそれた道を飛び進み、8年ぶりの帰還を果たしたのであった。

 城は以前にも増して荒廃しており、城壁の至る所に茨やツタが這っていた。

 確か8年前のヴァン・ヘルシングの手記には、伯爵の城にホスチアを置いていき、城に逃れられないようにした、と書いてあったが、エーゲルが言っていた、『あっ、あなた様の居城の憎たらしいホスチアはこのミハイが全て葬り去りました! 安心してご帰還頂けます!』という言葉は本当だったようだ。

 伯爵は難なく城の中に入るとかつて自分が使っていた、埃まみれで家具のあまり置かれていない――300年以上前の色んな国の金貨や装飾品、宝石類が隅にある机の上に積まれている――部屋に入ると、そのまま横切って部屋の奥の大きな扉を開けた。扉の向こうには下へと続く石造りの螺旋階段があった。伯爵はその真っ暗で陰気な階段を澄まし顔で降りていく。降りた先にはトンネルのような通路があった。周囲にはドブのような、鼻を突く嫌な臭いが漂っており、通路の奥にある扉を開けると廃墟と化した礼拝堂が現れた。礼拝堂の中は真っ暗で、カビ臭いような、何かが腐ったような悪臭が以前と同じように未だに漂っていた。地面の土は掘っ繰り返された跡がそのままで、シャベルやツルハシもそのまま無造作に置かれていた。

 礼拝堂のさらに奥に地下墓地へと続く階段がある。それをまっすぐ降りてさらに奥へ――。左右に立ち並ぶ石棺を通り過ぎてその奥に行くと、荘厳で、この中で一番大きな石棺が姿を現した。その石棺こそが伯爵の“寝床”だった。

 その石棺の上に厚く積もる埃を払ってみれば、蓋にはただ、


DRACULA


とだけ彫られており、それ以外の彫刻は一切見当たらない。伯爵はそれに虚しさを覚えたのと、この悪臭がつくとエイブラハムに嫌われるかも知れない、と思い、石棺の中で眠るのをやめた。アムステルダムに帰ったらたんまりと眠って、エイブラハムから血をもらえば良い。そう考えたのだが、自分は何のためにここに来たのかを思い出し、頭を左右に振ると、素早く礼拝堂を後にした。螺旋階段を登り、自分の部屋に戻ってきた。

 自室の隅に積まれている埃の被った金貨や宝石類をかき集め、古びた革の袋に詰めていった。他に金目のものがないか、と室内を見渡した時、地下墓地へ続く扉の横の、オーク材で出来たクローゼットが目に入った。その時ふと、懐かしい気持ちになって、クローゼットに近づくと恐る恐る戸を開けた。中身は衣装でも装飾品でも宝石類でもなく、ビロード生地で出来た真四角のクッションの上に一束、長く美しい金髪の三つ編みがぐるりと巻かれて置いてあるだけだった。それを目の当たりにした伯爵は震える手で三つ編みを慎重に、優しく持ち上げた。

「……カタリーナ……」

 伯爵はガクリとその場に両膝を突くと三つ編みに額を押し付け、肩を震わせた。

……こんなに近くにあったのに……。忘れてて……すまなかった……。

 400年以上が経っても当時の美しさを失わない、豊かな金髪の三つ編みを、伯爵はしばらく眺めたり、撫でたりして生前の、カタリーナとの追憶にふけった。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。窓の外が白み始めてきた。伯爵はおもむろに窓に近づき、外を眺めた。

……夜が明ける。

 少しして、太陽が顔を出し始め、窓の外の景色をオレンジ色に染めた。

 伯爵は三つ編みをクッションの上に静かに置くと、窓を開け放った。ヒューッと冷気をまとった風が流れ込んできた。窓枠を乗り越えると伯爵は、城壁の側面に“立った”。“例のごとく”城壁を登り、城の屋根の上に降り立つと、カルパチア山脈の雄大な景色を眺めた。

 銀嶺のカルパチア山脈の山際から日光が漏れ出し、それが後光のような神々しい光に見えた。その光景に伯爵はようやく帰ってきたのだと実感した。

 陽が完全に昇り、部屋に戻ると“発掘”のための準備を始めた。今夜は聖ジョージの日の前日である――。


 午後11時過ぎ。辺りは既に真っ暗で、夜空には星が点々と輝き、城下の深い森からは無数の狼の遠吠えが聞こえてきた。“夜の子ら【The children of the night】”の音楽に少し狩猟心をくすぐられた伯爵は、シャベルやツルハシを持って城を発った。

 ここからは時間との勝負である。

 以前城に置いていた馬は既にいないので、伯爵は黒い馬に変身すると自身で馬車を引っ張り、ボルゴ峠までの街道を駆け出した。後は午前零時――5月5日になるのを待つのみである。

 鬱蒼とする森の中の街道を進み、峠と城の中間辺りで停まると、黒い犬に変身した。変身するや否や、犬は森中に響き渡るような遠吠えを発すると、周囲にいた狼たちもそれに呼応するように遠吠えを発した。それと同時にトランシルヴァニアは午前零時、5月5日を迎えた。

 そこから伯爵は頑張った。

 伯爵扮する黒い犬は、青い炎を見つけては目印となる石を置いていき、次を探す。一度出てしまった炎はもう出現することはない。無論一人では見逃してしまうこともあるので、この森に潜む狼たちにも手伝わせた。

 午前6時。カルパチア山脈の山際が白み始めてきた。もうすぐで夜が明ける。既に青い炎も出現しなくなり、黒い犬は朝日の中、伯爵の姿へと戻った。

 街道に置いていった馬車に戻ると、今度はシャベルとツルハシ、革の袋を持って石の目印を置いていった場所や、従順に待つ狼たちの元へ掘りに向かったのであった。


 約半日を掛け、全ての目印や狼たちが待つ場所を掘り終えた伯爵は、“発掘”した金銀財宝を馬車に乗せて城へと戻った。あっという間に夕暮れ時になっていた。玄関ホールで発掘したものを仕分け、価値のあるものだけを選りすぐんだ。荷物は出来るだけ少なくしてアムステルダムに帰りたかったからである。

 必要なものだけをトランクに詰め込み、最後に自室に向かうと、例のクローゼットを開け放った。クッションにぐるりと巻かれて置いてある金髪の三つ編みを、伯爵はそっと持ち上げた。夕日の光の中、三つ編みは艷やかに照り輝いていた。伯爵は三つ編みをクッションの上に戻すと、懐から白い布と、シャトレーンに付いていそうな小さなハサミを取り出した。三つ編みの毛先の下に布を添え、ハサミで毛先を切り落とすと、慎重に布を折り込み、金髪の毛を包んだ。そしてそれを上着の胸ポケットにしまい込む。

……カタリーナ、今度こそは君を忘れない。

 クローゼットを閉めると、大切そうに胸ポケットを押さえながら伯爵は部屋を後にした。玄関ホールへ向かい、出発の準備をする。

 伯爵はアムステルダムに帰ってからもやることがたくさんあり、忙しいのだ。着いたら着いたで銀行や質屋に行って持ち帰った金貨や宝飾類を現金に換えるのだ。そして家の下の階に住む大家さんに家賃を支払い、入院費を確保する。伯爵は、今頃エイブラハムはどうしてるだろうか? と思いながら日没が来るのを待った。

 少しして、窓の外が一瞬強いオレンジ色に光ったと思えば、徐々に弱まっていき、薄明に染まっていった。日没が訪れた。

 伯爵は姿を歪ませてコウモリに変身すると、金貨や宝飾類が詰まっているトランクを両足で器用に持ち、翼をはためかせて城を飛び立った。城を出ると眼の前には黒い森とその後ろに、ほのかにオレンジ色に輝く銀嶺のカルパチア山脈、そしてトワイライトの空の美しい光景が広がっていた。

……もう、ここに戻ることはないだろう。

 そう悟った伯爵は、最後にこの景色に別れを告げた。

……さらばだ、我が領地よ。

 コウモリはその景色を清々しそうに眺めると、カルパチア山脈に背を向け、西に向かって飛び立っていった。






※原典“第二章、ジョナサン・ハーカーの日記”より、伯爵の言葉。


“Listen to them–the children of the night. What music they make!”

『お聞きなさい、夜の子らがどのような音楽を奏でるのかを!』


 本作での伯爵のコウモリ姿のモデルはクロオオコウモリで(ただし伯爵の場合尻尾がある)、オオコウモリの飛行速度は時速20kmから60kmとのこと。伯爵には時速50kmで飛行してもらいました(笑)。

 当時(明治時代)の列車の速度については、時速約30kmから40kmとのこと。時速40kmで計算しました(ちょっと速かったかしら……?)。

 原典第一章、ジョナサン・ハーカーの日記にて、ジョナサンは、5月1日の午後8時35分に列車でミュンヘンを出発し、翌日の午前6時46分の1時間遅れでウィーンに着いた、と記載しています。ミュンヘンからウィーンは約400km(Googleマップより)なので、原典での列車は時速37kmぐらいかと。当時としては馬並みの速さで、なおかつ途中で休ませる必要もなかったので(馬車は途中で馬を休ませないといけないので)、画期的な交通手段だったでしょう。

 あと、『31 救出』の※で記載しました、ヴラド三世の政策に対する報復でカタリーナ・シーゲルがドイツ系商人の妻たちの人質になってしまった際、2つのおさげを切られてしまったのですが、ヴラド三世はカタリーナを救ったあと片方のおさげを取り戻した、という逸話が残っている。取り戻したおさげはクローゼットの中に大切に保管していたそうです。そしてヴラド三世はカタリーナと結婚すべく、当時の妻であったアナスタシア・マリア・ホルシャンスカとの結婚を無効にしてほしい、と1460年にローマ教皇ピウス二世に2回も手紙を出していた。

 こちらの記事より↓

https://comentator.ro/planeta/1219-vlad-tepes-si-obsesia-lui-pentru-sasoaice-blonde-fara-pedigree#google_vignette

(ルーマニア語です)


 オオコウモリは高いところから落ちるようにしないと飛べないのですが、チスイコウモリはなんと、地面から飛び立つことが出来るんです! 因みにオオコウモリの英語名は“Flying fox【空飛ぶ狐】”で、小さなコウモリと顔立ちが全然違いますし、狐みたいな顔で、主食は果物。オオコウモリとってもかわゆいです。

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