33 車椅子と尿瓶

 翌日朝、5時半頃。

 日の出の数分前。ヴァン・ヘルシングはまだ眠っている最中だった。

 コウモリはヴァン・ヘルシングを起こさないようベッドから出てくると、伯爵の姿に戻った。その時丁度、窓から夜明けの太陽の光が差し込んできた。それを見届けた伯爵は脇にある椅子に腰掛け、ヴァン・ヘルシングの寝顔をじっと見つめる。

 少しして、ガラゴロと何かが転がるような音が近づいてきた。伯爵がそちらを見ると、看護師が車椅子を持ってくるところだった。

【この時代の車椅子はまだ木製。既に自走式のが発明されている】

 看護師は片手に懐中電灯、もう片手で車椅子を器用に押し、足元を照らしながら向かって来ていた。チラリと懐中電灯の明かりをヴァン・ヘルシングのベッドに向けた時、伯爵が椅子に座ってこちらを真っ赤に輝く目で見ていたものだから、看護師が驚いてしまったのは言うまでもなく、悲鳴が病棟内に響き渡った。

 その後、看護師は何度も頭を下げて謝ると、何故車椅子を持ってきたのかの理由も何もなく、そそくさと立ち去ってしまった。

 看護師の悲鳴で起こされたヴァン・ヘルシングは眠気眼で眼鏡を掛けると、目の前で伯爵が、自分をのぞき込んで見てきているのが見えた。

「お、おはよう、ヴラド」

「おはよう、エイブラハム。良く眠れたかね?」

「悲鳴で起こされなければ、な……」

 ヴァン・ヘルシングが苦笑いを浮かべると、伯爵は少し面白おかしそうに返した。

「それはすまなかった。俺のせいだね」

「それより――」

 ヴァン・ヘルシングはすっと眼鏡を外すと、驚いたような表情で伯爵を見上げた。

「俺のレンズの度数、良く分かったな? おまけにこんなに早く直してもらえるとは、驚きだ」

 すると伯爵はニタリと口角を上げ、得意げに言った。

「眼鏡屋に、最優先で修理させた。それに、君のことなら何でも知ってるぞ? 服のサイズも、靴も、身長から体重――むぐっ」

 ヴァン・ヘルシングは青ざめた表情で、急いで伯爵の口を手で塞いだ。

「分かった! 分かったから、もう言うな!」

 深いため息をつき、眼鏡を掛けると、ヴァン・ヘルシングはそわそわと周囲を見渡した。伯爵は、ヴァン・ヘルシングの行動が気になったのか、彼をじっと見つめる。

「看護師は……いないか……」

 ヴァン・ヘルシングはボソリと呟くと、伯爵を見上げた。

「なあ、悪いんだが看護師を呼んでくれないか?」

「看護師? 何故だね?」

 伯爵が瞬きをする。するとヴァン・ヘルシングは少し困ったような面持ちで答えた。

「そろそろ、便所に行きたい……」

 そう言いながら身体をもじもじさせる。本当なら看護師に車椅子に乗せてもらい、トイレに行くはずだったのだ。

「トイレ?」

 伯爵が首をかしげた。ヴァン・ヘルシングは自身の下腹部を押さえる。

「俺の膀胱がそろそろ……」

「ぼうこう? 良く分からんな?」

 伯爵は惚けたように言うと、反対側に首をかしげた。その表情は薄っすらと笑みを浮かべていた。それに苛立ちを覚えたヴァン・ヘルシングはズバリ、伯爵を勢い良く指差した。

「嘘こくな! 医学書読んでるだろ! それにお前だって生前何回もしてただろうが!」

「はて? 400年以上も前のことだから忘れたな?」

 またもや伯爵は惚けたように言うと人差し指を口元に当て、わざとらしく考え込んだ。ヴァン・ヘルシングはブスッと口をへの字に曲げると、コイツに怒鳴っても無駄だ、と考え直し、深呼吸をすると平静を取り戻して言った。

「考えてみろ。下っ腹にどんどん液体が“貯蓄”されていくんだぞ? 溜まったもんは出さなきゃ、俺が死ぬ」

「それなら“ここに”しろ。“小”だけなのだろう?」

 すると伯爵がニタリと笑みを浮かべながら背後から何かを取り出してきて、それをヴァン・ヘルシングに見せつけてきた。それを目の当たりにしたヴァン・ヘルシングはギョッ! と目を丸くし、勢い良く首を横に振った。伯爵が取り出してきたものは青味がかった透明のガラス製の尿瓶である。

「昨日の今日だ。まだ動かない方が良いだろう」

 伯爵はヴァン・ヘルシングを諭すように言った。ヴァン・ヘルシングは恥ずかしそうに顔を赤らめると、おもむろに尿瓶を受け取った。受け取った尿瓶を脇に置くと、ヴァン・ヘルシングは自身の病衣のズボンを下ろそうとした。が、頭上からの視線を感じ、とっさに見上げると伯爵がじっとこちらを見下ろしてきているではないか。思わず掛け布団を手繰り寄せてしまった。

「な、何見ようとしてんだよ……」

 ヴァン・ヘルシングは決まり悪そうに眉を潜めた。伯爵は面白おかしそうに口角を上げる。

「遠慮するな、ブラム。ほれ、ズボンを下ろして下着の前を開けろ」

「も、もちろん、そのつもりだ。だから見ようとするなって」

 ヴァン・ヘルシングはヒラヒラと手を振り、伯爵を追い払おうとするも、伯爵はただじっとヴァン・ヘルシングがズボンを下ろそうとするのを待っている様子で、彼を見下ろしていた。それに身の危険を感じたのか、ヴァン・ヘルシングは恐る恐る尋ねた。

「な、何で見ようとするんだよ……? お前に“そんな趣味”ないだろ……?」

「今後、君の裸姿に変身しないといけない時があるかも知れない」

 伯爵は至って真面目そうに答えた。

「そんなこと、あるわけあるかぁっ!」

 ヴァン・ヘルシングは顔から火が出たように耳まで真っ赤にしながら怒鳴り返すも、伯爵は懲りずに、今度は掛け布団をグイグイ引っ張ってきたのだ。

「やめろって!」

「遠慮するな、ブラム。ほれ、早くしないと膀胱が破裂してしまうぞ?」

 そう言いながら伯爵はさらに掛け布団を強く引っ張った。

「嫌だぁぁあああ!」


 “事”を終え、ヴァン・ヘルシングは疲れ切った様子でベッドに横たわっていた。その脇では伯爵が、案外少なかったね、と呟きながら尿瓶をベッドの下に置いた。

「エイブラハム、疲れたかね?」

 伯爵がヴァン・ヘルシングの顔をのぞき込むと、ヴァン・ヘルシングはため息をついてジトッとした目で伯爵を見上げた。

「お前のせいでとっても疲れた……。“俺の”なんか見て何が楽しいんだか……」

「君が歳のわりにまだまだ“現役”そうで何より」

 伯爵はニタリと笑みを浮かべながらヴァン・ヘルシングの足元にゆっくりと腰を下ろした。ヴァン・ヘルシングは伯爵の言葉に顔を赤くし、恥ずかしそうに目を逸らした。

「で、いつ行くんだ? その……トランシルヴァニアに……」

 ヴァン・ヘルシングはそう尋ねつつそっと伯爵の方に視線を向けた。すると伯爵が少し控えめに答えた。

「家に戻ったら準備をする。……今日の夕方に発つよ」

 ヴァン・ヘルシングは一瞬目を見開くと少し残念そうにため息をついた。

「そうか……。もう5月に入ったもんな……」

「数日の間、君に“安眠”を届けられないのが残念だ……。くれぐれも看護師と“よろしく”するでないぞ?」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせたかと思えばブスッと口を尖らせた。

「“よろしく”って何の意味だ!? お前の方が旅先で“よろしく”してんじゃないのか?」

 不貞腐れたように伯爵に言い返すとヴァン・ヘルシングはフンッ! とそっぽを向いた。

「……ほう、俺はそのように思われていたのか。それは心外だ――」

 ボソリと伯爵が呟くのが聞こえた。そっと伯爵の方に向き直って見れば、彼がじっと自分のことをのぞき込んで、爛々とした目で見つめているではないか。ヴァン・ヘルシングは、しまった! 言わんばかりに掛け布団を口元まで手繰り寄せ、目を泳がせた。今思い返してみれば、伯爵が他の女性に色目を使うなど有り得ないのだ。彼にはカタリーナ・シーゲルという心に決めた人がいるのだから――。

 ヴァン・ヘルシングは気まずそうに目を伏せ、すまん……と呟くと、額に冷たい感触が当たった。驚いてすぐさま手を当てると、伯爵が顔を遠ざけるところだった。

「まあ、俺は……カタリーナと出会うまでは色々“やんちゃ”していたからね――」

 伯爵は自嘲するように言うと、静かにヴァン・ヘルシングの足元に腰を下ろした。ヴァン・ヘルシングは視線で伯爵を追った。

「ミス・クララの言う同性同士の恋愛に興味はないが、俺は、君のことを親友として愛してるぞ」

 穏やかな声で続けた伯爵は、ヴァン・ヘルシングをあやすかのように彼の足元の布団を優しくぽんぽんと叩いた。

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングはこそばゆさを覚えてしまったようで照れ隠しのつもりで小さくため息をついていると、脇で伯爵がすっと立ち上がった。伯爵につられてヴァン・ヘルシングは慌てて上体を起こすと彼を見上げる。

「もう行くのか……?」

「そうだね。さて、俺はそろそろ旅の準備をせねば……」

 そう呟いた伯爵はヴァン・ヘルシングを見下ろすと、自身の唇に指先を付けてそれを彼に向けた。

 いわゆる投げキッスを伯爵から受けてしまったヴァン・ヘルシングは目を丸くさせながら頬を染めた。

「2週間以内には戻るからね……」

 伯爵は少し寂しそうに言うと病室を後にしていった。ヴァン・ヘルシングも少し寂しそうに、名残惜しそうに伯爵の背を見送ったのであった。






※原典“第四章、ジョナサン・ハーカーの日記”より抜粋。


“Count Dracula was his kissing his hand to me;”

『ドラキュラ伯爵は僕に向かって、自身の手に口付けして見せてきた』


 これって簡単に言うと、投げキッス……だよねっ!? 


 因みにヴラド三世はカタリーナと出会う以前、愛人が数人いたとのこと。カタリーナと出会って以来、もう彼女一筋になったらしい……。この色男めっ!(笑)








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