第二章 後編

32 銃創と吸血痕

 深夜。

 ヴァン・ヘルシングは伯爵によってアムステルダム市立病院へと――ほぼ強引に――担ぎ込まれた。時間も時間とあり、当直の医師がよりによって内科の医師、一人のみだったのだ。

 若い男性の内科医は3階の入院病棟の病室の前で、伯爵に抱き抱えられているヴァン・ヘルシングを困った様子で眺め、ボソリと呟いた。

「銃創……。それも弾が残ってる……」

 内科医の言葉にヴァン・ヘルシングは深いため息をついた。

……予想はしていたが……。あんな至近距離で撃たれたのに貫通してないとしたら、きっと……。

「いやぁ……僕、麻酔を行うのが“下手クソ”で……」

 突然、内科医がヘラヘラした様子で言ってきたのでヴァン・ヘルシングは思わず目を見張った。

「麻酔専門の医者はいないのかっ!?」

 ヴァン・ヘルシングは驚きと絶望のあまり、声が裏返ってしまった。伯爵は、君の言っている意味がよく分からない、とでも言いたげにヴァン・ヘルシングを見つめていた。

【20世紀初頭の麻酔は“医者の卵”やなりたての医者の業務とされていた。麻酔科自体、そんなに重要視されていなかった。ただ患者を眠らせれば良い。そう思われていたのかも知れない……。ただ、イギリスでは麻酔は専門医がやるべき、と重要視されていた。昔(19世紀前半)はエーテル麻酔が一般的であったが、後半に入るとクロロホルムがドイツやイギリスで使われるようになり、クロロホルム麻酔が一般化していった。だが、20世紀前半に入りクロロホルムはエーテルよりも死亡率が高いことが判明し、徐々にクロロホルム麻酔は衰退していった】


「君たち、しっかり押さえてくれよ?」

「「はい!」」

 内科医は当直の女性看護師二人に指示すると、病衣に既に着替えてベッドに不安げな表情で横たわるヴァン・ヘルシングに、自信無さげに言った。

「一応……脚の切開ぐらいは出来ますので……僕」

 ヴァン・ヘルシングはその言葉に更に不安を覚えた。

……“一応”って何だ! 自信がないならやるな!

【因みに原典にて、精神医学が専門であるヴァン・ヘルシングは、伯爵によって頭に怪我を負ったレンフィールドの血腫を除去するために頭部切開を行った】

 ここにジョンかアドリアン君がいてくれたら……と心の中で嘆きながら、ヴァン・ヘルシングは覚悟を決めた。自分で“麻酔を行うのが下手”だと断言した医者に麻酔をされるぐらいなら、麻酔なしで切開される方がマシだと思ったからである。

 看護師二人に両肩と両足をベッドに押さえつけられ――両足を押さえている看護師が片手に懐中電灯を持ち、ヴァン・ヘルシングの脚を照らしている――、内科医がメスを握った。その様子を脇で伯爵が見つめ、ヴァン・ヘルシングはぼやけた視界――眼鏡のレンズが割れている――の中、今まさに自分の右脚を切開する内科医を、目を凝らして見つめていた。

 ヴァン・ヘルシングが着る病衣の右脚部分が捲り上げられ、傷口に当てられている真っ赤になったガーゼが外された。痛々しい銃創が露わとなる。

 内科医の持つメスがヴァン・ヘルシングの右脛の銃創を切開していった。切開部分から血が流れ出て、ベッドのシーツにシミを付けていった。ヴァン・ヘルシングは小さな悲鳴を上げながら顔を歪ませ、自身の肩を押さえる看護師の腕にしがみついた。たとえ鉄の意志を持つヴァン・ヘルシングであっても痛みは耐え難い。深く深呼吸をして自分を“失わない”ように努めた。

 銃弾は予想通り脛骨まで達して骨を砕いていたようで、内科医はさらに深く切開していった。その耐え難い痛みに、自分を押さえ付けている看護師二人を振り払う勢いでヴァン・ヘルシングは身体を震わせた。女性看護師二人では、たとえ老人であっても暴れるヴァン・ヘルシングを押さえ付けるのは難しく、彼の脚を押さえている看護師の手元の明かりが大きく揺れ、切開部分に影を作った。

「ちゃんと押さえててくれ! ちゃんと照らせ!」

 内科医が焦った口調で看護師二人に言った。

「は、はい……」

「先生、やはり麻酔をっ……」

 二人の看護師が困り果てたように言うと、ヴァン・ヘルシングの肩を押さえている看護師の横から“三人目”の女性看護師が突如現れた。三人目の看護師の登場に内科医や二人の看護師は呆然と三人目の看護師を見つめた。

「あなた、誰……?」

 一人の看護師が不審そうに三人目の看護師に尋ねた。三人目の看護師は何も答えずに、横からヴァン・ヘルシングの顔をのぞき込んできた。ヴァン・ヘルシングの額には脂汗が浮かんでおり、激痛に耐えようと目をぎゅっとつぶり、歯を食いしばっていた。


――エイブラハム、こっちを見て。


 女――カタリーナ――姿の伯爵の声が聞こえたような気がして、ヴァン・ヘルシングはそっと目を開いた。


――さあ、エイブラハム、“おねんね”の時間だ。


 三人目の看護師の、薄暗い中でも真っ赤に輝く瞳を捉えたとたん、ヴァン・ヘルシングは驚いた様子で目を見開いたかと思えば、眠りに落ちたようにすっと目を閉じてしまったのだ。

 先ほどまで激痛に暴れていたヴァン・ヘルシングが静かに眠ってしまったことに呆然と焦りを覚えた内科医と看護師二人は三人目の看護師――カタリーナを無言で見つめていた。カタリーナは呆れた様子で言い放った。

「彼が寝ている間に早くやってちょうだい」

「……はい」

 内科医はぽかんとした面持ちで返事をすると、銃弾の摘出を再開させた。


 翌日、朝。

 ヴァン・ヘルシングは変な夢から目覚めた。何故か看護師姿のカタリーナが夢に出てきて、自分の看病をしていたのだ。奇妙な感覚になったが、そんなに悪い夢ではなかったのは覚えていた。

 少し重だるさを感じながら上体を起こすと、ベッド脇の椅子に座る伯爵と目があった。伯爵はヴァン・ヘルシングの顔を見るなり安堵の表情を浮かべた。

「ヴラド……」

「気分はどうかね? エイブラハム」

 伯爵はそう尋ねながらヴァン・ヘルシングの背に手を添えた。

「気分は……だるいし、眠い。きっと貧血だろう……」

 ヴァン・ヘルシングはそう答えながら身体に掛けてある掛け布団を捲った。予想はしていたが、撃たれた右脛には痛々しくギプスが巻かれていた。きっと骨折していたのだろう。左脚は幸いにも打撲で済んだらしく――幸いと言って良いのだろうか? というくらい足首が紫色になっていたが――、とくに包帯を巻かれたり絆創膏を貼られてはいなかった。

「これは当分歩けないな……」

 困り果てたようにヴァン・ヘルシングが呟くと、伯爵が問題ない、とでも言うように澄まし顔で言った。

「ならば、俺が抱き抱えて運んでやろう」

 伯爵からの提案にヴァン・ヘルシングは目を点にすると、だが……と続けた。

「先ずギプスを外すのに2、3ヶ月ぐらいは掛かるぞ? 多分ちゃんと歩けるようになるのは、順調にいけばだが……8月あたりといったところか……」

「ほう。そんな長い期間エイブラハムを抱っこして良いのか」

 伯爵がニタリと口角を上げ、不敵な笑みを浮かべると、ヴァン・ヘルシングはギョッ! と目を丸くした。

「お前……何か良からんことを考えてるだろ……?」

 ヴァン・ヘルシングが伯爵を疑わしそうに見ていると、伯爵は安心したように顔を綻ばせた。

「それにしても、君が無事で本当に良かった……」

「全くだ。まさかこの傷で命拾いするとはな……」

 そう言いながらヴァン・ヘルシングは自身の左の首筋に手を当てた。それに伯爵は、少し不満げに口をへの字に曲げた。ヴァン・ヘルシングはそんなことつゆ知らず、話を続ける。

「犯人の奴、これを見て、俺がお前に吸血してもらったと思い込んでた。だから、こうして生きてるわけだよ――っ!?」

 突然伯爵が前に屈み込み、ヴァン・ヘルシングの首筋をじっと見つめると、ボソリと呟いた。

「まだ治っていなかったか……。この憎たらしい傷め……」

 ヴァン・ヘルシングはとっさに手で吸血痕を覆ったが、伯爵に手を退けられ、案の定べろりと舐められた。

「うひゃっ!」

「きゃー!」

 ヴァン・ヘルシングの悲鳴に続き、女性の悲鳴が聞こえたので、二人してそちらを見ると、アドリアンと学部長がオロオロしながら視線を逸らし、クララはニンマリとこちらを直視していた。この身近な3人に先ほどの状況を見られてしまったと気付いたヴァン・ヘルシングは、恥ずかしさのあまり掛け布団で顔を隠したのは言うまでもない。


「ヴァン・ヘルシング教授、この度は済まなかった」

 学部長はヴァン・ヘルシングに深く頭を下げた。ヴァン・ヘルシングは慌てて両手を振った。

「学部長、頭を上げてください。まあ、確かに連行された時は肝を冷やしましたが、死体の不正所持も犯人の真っ赤な嘘で安心しました」

 ヴァン・ヘルシングは安堵の表情で胸を撫で下ろした。

「3ヶ月ぐらい歩けないということは……その期間は休職扱いだな……」

 学部長が残念そうに言った。ヴァン・ヘルシングも気まずいのと、その間の生活費をどうしたものか、と考えた。

「3ヶ月もっ……? そんな……」

 学部長の後ろでアドリアンががっかりしたように肩を落とした。その横でクララが、慰めるようにアドリアンの背を擦った。

「何か聞きたいことがあれば来なさい。答えるよ」

 ヴァン・ヘルシングの言葉にアドリアンはパッと目を輝かせ、はい! と元気よく返事をした。

「それにしてもヴァン・ヘルシング教授――」

 学部長が感心したように言葉を続けた。

「君は素晴らしい助手を持ったね」

 そう言いながら学部長は、ベッド脇に立つ伯爵を見て、ヴァン・ヘルシングに向き直った。ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせて伯爵を一瞥した。

「そうですね。いつも助けられてばかりですよ」

 ヴァン・ヘルシングは微苦笑を浮かべながら答えた。

「今後ともよろしく頼みます。ドラキュラ殿」

 学部長は伯爵に右手を差し出した。伯爵は差し出された手を凝視すると、その手を握った。その様子をヴァン・ヘルシングが少しハラハラした面持ちで眺めていた。

……学部長、ヴラドの“冷たさ”に驚かないな……。バレたのか……?

 一方伯爵は……。


――世間に余のことをバラしたら、エイブラハムをトランシルヴァニアに連れて行くからな? 覚えておけ、ファン・レール君。


 伯爵からの思念にビクリと震え上がった学部長は、言いません! と連呼しながら手を引っ込めた。

「じゃ、じゃあ、ヴァン・ヘルシング教授、お大事に!」

 慌てたように言うと、学部長はそそくさと病室を後にしていった。

 ヴァン・ヘルシングは、何を“言いません”なんだ? と首をかしげながら学部長を見送った。

 

 少しばかり4人で事件のことや世間話をしていると、コホン、と咳払いする声が聞こえた。そちらを向くと、一人の看護師がボードを持って立っていた。

「ヴァン・ヘルシングさんのカルテを作りますので、よろしいですか?」

 すみません、とアドリアンが後退り、クララのドレスの裾をちょんちょんと引っ張った。

「では僕たち帰ります。先生、お大事にしてください」

「さよなら、ヴァン・ヘルシングさん、ドラキュラさん」

 バース姉弟は病室を後にした。

 看護師は未だに残っている伯爵を見上げた。

「息子さんですか?」

 看護師からの問いにヴァン・ヘルシングは、違います、と言おうとしたが、伯爵が真っ先に、そうだが、と肯定した。ヴァン・ヘルシングは目をかっ開き、伯爵を見上げた。

「はっ!?」

 看護師はヴァン・ヘルシングと伯爵を交互に見、お母さん似かしら? と軽く考えながらヴァン・ヘルシングの生年月日や住所などを聴取した。

 聴取を終え、看護師が立ち去るや否やヴァン・ヘルシングは不貞腐れたように伯爵の上着の裾をグイグイ引っ張った。

「誰が息子だっ! 俺より年上のクセして!」

「嫌だったかね? だが、そういうことにしておけば出入りがしやすくなる。まあ、俺はもうここに自由に侵入出来るがね?」

 ふふっと不敵な笑みをこぼしながら伯爵は、さて、と改まった。

「入院に必要なものを持ってこよう」

 伯爵がすっときびすを返すと、ヴァン・ヘルシングが慌てて呼び止めた。

「あっ! ヴラド、ちょっと待ってくれ。頼みがある」

 伯爵は振り返ると、ヴァン・ヘルシングをのぞき見た。

「何だね?」

「うちの下の階の大家さんに来月と再来月分の家賃払っといてくれないか?」

 伯爵は、家賃ね、と呟くと姿勢を正し、再度きびすを返して今度こそ病室を後にしようとすると――。

「……あっ、やっぱ、今のなし!」

 背後からヴァン・ヘルシングがまた慌てたように言ってきた。伯爵が少し億劫そうに振り返った。

「君らしくない優柔不断さだ。何か心配事かね?」

 伯爵が尋ねると、ヴァン・ヘルシングは苦い表情を浮かべ、思い悩んだ様子で自身の膝に頬杖を突いた。

「否、その……入院費を確保しなければと思ってな……。今俺は休職の身で、尚且つ入院中。休んでる分給料は出ないし、入院費で金は飛んでいく。家賃も払えなくなり、追い出される……」

 ヴァン・ヘルシングはズバッと顔を上げると、伯爵を切羽詰まったような心痛な表情で見上げた。

「これはダブルパンチどころじゃないっ。トリプルパンチの非常事態だ!」

 伯爵は目をパチクリさせ、首をかしげた。

「……ダブル“パンチ”? トリプル? ……君、“穴”でも空けられるのかね? 君の言ってることが良く分からんが……要は金が必要ということであろう?」

 今度はヴァン・ヘルシングが目をパチクリさせ、不安で上がった息を整えると、やるせなさそうに呟いた。

「ま、まあ……」

「ならば、少し“里帰り”でもしてこよう」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは眉を潜めた。

……里帰り? トランシルヴァニアに行くってことか……? まさか――。

 ヴァン・ヘルシングは、いつの間にかきびすを返して立ち去ろうとする伯爵を心配な面持ちで見つめた。

「ヴラド……」

……今回のことでお前、トランシルヴァニアに帰るなんて、言わないよな……?

 すると病室の出入り口間際で、伯爵が肩越しにヴァン・ヘルシングに振り返った。

「君の眼鏡、修理に出しておこう。それと……君はハーカー君の日記の内容を思い出すと良い」

 伯爵はそう言うと不敵な笑みを浮かべ、病室を後にしていった。病室に残されたヴァン・ヘルシングは呆然と瞬きをし、8年前に読んだジョナサン・ハーカーの日記の内容を冒頭から思い出し始めた。


――5月3日、ビストリッツにて

 5月1日にミュンヘンを出発し、翌日ウィーンに到着。そこからブダペストへ。ブダペストに着くとクラウゼンブルクへと向かう。

【1893年時点では、クラウゼンブルクはハンガリー王国領。今はルーマニアの都市でクルジュ=ナポカという】

 クラウゼンブルクの宿に泊まり、翌日の夕方にようやくビストリッツに到着し、伯爵の指定した宿――ゴールデン・クローネ・ホテル――に泊まる。宿の主人より、伯爵からの手紙を受け取る。明日の3時にブコヴィナ行きの乗り合い馬車を手配してあるのと、その手前のボルゴ峠で伯爵の馬車を待たせてあるとのこと。


――5月4日、同宿にて

 宿の主人の妻より、今日が何の日か知っているのか、と問われる。“聖ジョージの日”の前日だ、とのこと。今日の夜、真夜中になるのと同時に世界中の悪霊たちが解き放たれる。それなのに行くの? と引き留められる。だが仕事の約束があるので、僕は到着した乗り合い馬車に乗り込んだ。


――5月5日、伯爵の城にて

 ビストリッツの宿を発つ前の食事や、とくに乗り合い馬車などでの出来事が詳細に書かれていた。

 乗り合い馬車の馭者が宿の主人の妻と何か話し込んでいた。“悪魔”だの“吸血鬼”だの、そのような言葉が聞き取れた。宿の前には人だかりが出来ており、皆が僕に向かって十字を切り、そして邪視を払う、二本指を突き出すおまじないをしてきた。二本指を突き出すおまじないについては馬車の同乗者から教わった。

 午後3時、馬車が出発し、果樹園や鬱蒼と茂る林の中の道を進む。しばらくして陽も沈み始め、真っ暗な中馬車は速度を上げ始めた。

 ボルゴ峠に着いたのは予定よりも一時間早く、馭者が、このままブコヴィナまで行って、明後日にここに戻ってきた方が良い、と勧めてきた。だがそこに伯爵の迎えの馬車がやってきて、僕はその馬車に乗り換える。

 伯爵の馬車には長身の、真っ赤な目をギラつかせた馭者が乗っていた。

 伯爵の馬車は城に向け街道を出発したが、真っ暗な中、同じ道を行ったり戻ったりしていた。どれぐらいの時間が経ったのかが気になり、マッチを擦って時計を確認すれば、午前零時――“聖ジョージの日”の前日となるところだった。ようやくして馬車は街道を真っ直ぐ走り出した。狼の遠吠えが聞こえてくる中、恐怖に怯える僕や馬車を引く馬たちとは裏腹に、馭者は怯える様子もなく暗闇の中を、チラチラと左右に顔を向けて見ていた。

 すると突然、馬車の左側に青い炎が現れ、馭者は急いで馬車を止めると馭者席から降り、その炎の現れた場所へと行ってしまったのだ。それも炎が現れるたび、馭者は馬車を止め、目印になる小石を置いていって――。


――5月7日

 6日の夕方を過ぎた頃、伯爵に、昨日見た青い炎のことを尋ねると、そこには財宝が埋まっている、と答えてくれた――。


 ヴァン・ヘルシングはようやく納得した。

「……5月5日は、旧暦だと聖ゲオルギオスの“命日の前日”だ」

【聖ジョージ、聖ジェルジオとも。キリスト教の聖人の一人。記念日は4月23日。ユリウス暦(旧暦)にすると5月6日。正教会辺りでは5月6日に祝う】

 そう傍白しつつ、向かいの壁の窓を――眼鏡がないので上手く見えないが――眺めた。

「もう4月も終わるな……」


 陽が傾き始めた頃。

 ヴァン・ヘルシングが入院する病棟に伯爵が戻って来た。その手にはトランクを一つ携えていた。

「エイブラハム、必要なものを――」

 ヴァン・ヘルシングのベッドまで歩み寄ると、彼はぐっすりと寝息を立てて眠っていた。きっと疲れていたのだろう。伯爵はトランクをベッド脇に置くと、静かに横の椅子に腰掛けた。少しの間ヴァン・ヘルシングの寝顔を見つめる。

「また来るよ……」

 そう呟くと、修理が終わって――金をたんまりと出して最速で修理させて――綺麗になって帰ってきた彼の眼鏡をサイドテーブルに置き、伯爵は病室を後にした。


 夕方。

 ヴァン・ヘルシングが目覚めると、いつもの癖だったのか、サイドテーブルに手を伸ばして眼鏡を探した。冷たい金属の感触が指先に触れ、それを掴み、何の疑問もなく掛けた。ぼやけた視界が晴れ、自分が今入院中だということを思い知らされた。それと同時に右脚の痛みを自覚した。

……そういえば……。

 犯人に殴られて眼鏡のレンズは割れたはずなのに、たった1日で――否、1日も経っていないのに眼鏡が元通りに直っていたのだ。そのことにヴァン・ヘルシングは驚きつつ、眼鏡を外しては嬉しそうに眼鏡を眺めた。

……何か……金ピカになってる……? ヴラドが持ってきてくれたんだな。

 ヴァン・ヘルシングは再度眼鏡を掛けると辺りをキョロキョロと見渡し、伯爵の姿を探した。が、どうやら自分が眠っている間に帰ってしまったようだ、と少し寂しそうに顔を伏せると、ベッド脇にトランクが置かれてあるのに気付いた。


 夜。

 晩の病院食を、ヴラドの作るご飯が恋しいと思いつつ食べ終え、午後10時、病棟の電気が消された。消灯時間だ。

 午後はヴラドに会えなかったな……とヴァン・ヘルシングはがっかりしながら掛け布団を口元まですっぽりと掛け、眠りに就こうとした。すると、首元がやけにもふもふした。そのもふもふに触れてみると、キィキィ、と小動物の鳴き声がした。

……まさか!

 ヴァン・ヘルシングはそっと掛け布団を捲ると、暗闇の中、自分の胸元に真っ赤に輝く小さな目が二つ見えた。別に恐ろしくはなかった。逆に嬉しさが込み上げてきた。

「……ヴラド、来てくれたんだな」

 ヴァン・ヘルシングは小声で、もふもふの物体に尋ねると、赤い両目がうなずいたように上下に動いた。それにクスリと笑みを浮かべたヴァン・ヘルシングは掛け布団を元に戻した。もふもふの物体――コウモリが彼の首筋に縋り付き、頬擦りをしてきた。ヴァン・ヘルシングは眠りに就くまでコウモリの背を撫でているのであった。

 





※原典“第一章、ジョナサン・ハーカーの日記”を私なりに要約し、日記を書いた日付と、書いた内容の日付が前後してパッと見分かりづらかったので文章中に日付や午前午後なども追記したりしました。

 5月4日の、宿の主人の妻の言葉が矛盾してる感じでしたが、宿の主人の妻からの質問(“Do you know what day it is?”)にジョナサンは“it was the fourth of May.(今日は5月の4日です)”と答えているので、4日の日記はそのまま5月4日で間違いないと思います。

 5月4日の真夜中、要するに5月5日午前零時になるのと同時に世界中の悪霊が世に出てくる、と宿の主人の妻が言っている。実際にそういう伝承がある。5月5日は聖ジョージの日の前日であり、翌日5月6日が聖ジョージの日である。

 そして5月5日の日記については、書いた時は既にドラキュラ城に到着して、落ち着いてから4日の、ビストリッツを出る前の食事のことや乗り合い馬車、伯爵が寄越した馬車での出来事を書いたようです。

 ブコヴィナ行きの乗り合い馬車を明日の3時――4日の3時――に手配している、という文章ですが、これについて午前午後どっち? と私は、初めて読んだ時思ってしまいました……。

 伯爵的には、ボルゴ峠には4日の夜に着いてほしいと思っていたはずなので、午後3時と解釈しました。

 ボルゴ峠に着いたのが午後8時半以降と思われる(現ルーマニアの5月の平均日没時間が午後8時半なので)。ということは5日の午前零時になるまでの3時間ぐらいを、同じ道を行ったり戻ったりして時間を稼いでいたことになる……。


 聖ジョージといえば竜退治伝説で知られる。

 ドラキュラ(ドラクリヤ)は“小竜公”、“竜の子”という意味。

 何か皮肉だ……。

 だが、ヴラド三世が“ドラクリヤ”と名乗り始めたのは、父であるヴラド二世が“ドラクル(ドラゴン、竜公)”と名乗っていたからである。

 何故ヴラド二世がそう名乗り始めたのかというと、ヴラド二世が所属していた当時のハンガリー王国の“ドラゴン騎士団”が由来である。



 






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