31 救出
伯爵は物音立てずに廃屋の奥へと進んでいった。周囲にはガラクタやゴミの山が出来ており、悪臭を放っていた。その中に、かすかにヴァン・ヘルシングの血の匂いが漂っていた。その時、一匹のネズミが伯爵の足元を通って行った。伯爵はそれを見逃さず、おい、と話し掛けた。ネズミは、誰? と言った様子で立ち止まり、周囲を見渡したかと思えばようやく伯爵の存在に気づき、彼を見上げた。伯爵はネズミの目を見つめては思念を送った。
――ここに男が来たかね? 何が起きた? 答えろ。
するとネズミの方から思念が伝わってきた。
――はい、来ました。昼間に。青い目の人間の男が二人です。一人は年寄りで、もう一人は若くはないが年寄りでもない人間です。その後大きな音がして、年寄りの方が血を流しました。
――よろしい。行け。
伯爵が歩きだすのと同時にネズミは、何事もなかったように歩いてゴミ溜まりの中に消えていった。
伯爵は、“大きな音”とは何だ? と思いつつ、霧に姿を変え、廃屋の奥へと進んでいった。
廃屋の奥の部屋の手前に着くと、ヴァン・ヘルシングの血の匂いが濃く、強くなっていった。それ以外に数日は経っているであろう、男性の血の匂いも感じ取れた。
部屋からはわずかに、ゆらゆらと揺れるオレンジ色の光がもれていた。それ以外の明かりはなく、辺りは薄暗い。無論伯爵にはそんなの関係なく、伯爵は霧のまま室内をのぞき込んだ。とたんドキリとする。
螺旋階段横にある柱に、何とヴァン・ヘルシングが縛り付けられているではないか! その光景が、生前の苦い記憶を蘇らせた。
――カタリーナッ!
いても立ってもいられず、伯爵は霧の中から現れると、ヴァン・ヘルシング目掛けて駆け出した。
伯爵の突然の登場にエーゲルは驚きの表情を見せるが、感極まったように両手を伯爵に差し出した。
「ヴラド・ツェペシュ様!」
伯爵は金髪の男には目もくれず――飛んでいる目障りな虫でも追い払うようにエーゲルを吹き飛ばすと、ヴァン・ヘルシングの元に駆け寄った。
「ブラムッ、エイブラハムッ!」
気を失っているヴァン・ヘルシングを優しく起こすように、伯爵は彼の頬を撫で回すも、彼は目を覚まさなかった。ヴァン・ヘルシングの足を見ればスラックスの右脛部分が真っ赤に染まっていた。床には血溜まりが出来ていた。大量の血液を失ったのかもしれない。
伯爵はヴァン・ヘルシングの首のロープを引き千切り、手錠と鎖を解くと彼を静かに床に座らせた。そして自身のマントを外し、気絶しているヴァン・ヘルシングの身体を包み込むように肩に掛けた。少しの間ヴァン・ヘルシングの顔をのぞき見れば、浅くではあるが呼吸をしているのが見えた。それに伯爵は安堵した――怪我を負っているが――のか、小さくため息をつくとすっと立ち上がり、先ほど突き飛ばして床にのびているエーゲルを睨んだ。伯爵には目の前でのびている男に見覚えがあったのだ。だが、その男の名前はエーゲルではなく別の名前だった。
「ミハイ……」
伯爵は怒りの籠もった低い声で言い放った。
「起きろ」
ミハイ――エーゲルはビクリと体を震わせると勢いよく飛び起き、伯爵の足元に土下座をしてきた。
「ヴラド・ツェペシュ様! お見苦しいところをお見せして申し訳ございません!」
エーゲルは頭から血を流しながら何度も床に額を擦り付け、伯爵に詫びてきた。伯爵が何も言ってこないのでエーゲルはそっと顔を上げ、伯爵を見上げた。とたんエーゲルは恐ろしいものでも見てしまったかのように震え上がり、顔に大量の汗を浮かべた。
「あっ、あなた様の居城の憎たらしいホスチアはこのミハイが全て葬り去りました! 安心してご帰還頂けます!」
エーゲルはまるで、生前のことをすっかり忘れてしまった以前の伯爵のように、何でも実力行使すれば自分の思うままになると勘違いをしているようだった。これで伯爵の機嫌を取れたと思ったのか、顔をヒクつかせながらぎこちない笑みを浮かべた。伯爵は、本当は早くヴァン・ヘルシングを病院に連れていきたいのだが、目の前の男の言動が伯爵の怒りの炎に更に油を注いだ。
「貴様が余の子孫であろうとなかろうと、この愚行は許せん……。この男は余のものだ!」
伯爵は手短な、壁が腐食して間柱が剥き出しとなってる壁に歩み寄ると、壁からいとも簡単に間柱一本を剥ぎ取った。バキッ! と音を立てて取られた細い木の柱は更に伯爵の手によって半分に折られた。まさしくそれは“杭”そのものだった。その杭を片手に、伯爵はエーゲルに一歩一歩、彼を追い込むように歩み寄っていった。恐怖で動くことの出来ないエーゲルは、走馬灯のように伯爵――ヴラド三世の残虐的な行為を思い出した。
……串刺しにされる!
“死”が迫ってきているというのにエーゲルは、謝罪すれば許してもらえるだろうと思ったのか、必死に伯爵に何度も頭を下げた。
「お許しください! お許しくださいっ! “ヴラド”様! 殺そうとしたつもりではっ……! 貴方様に我が血を捧げます! どうかご慈悲をっ!」
「図々しいにも程があるぞっ!」
伯爵の轟くような一喝にエーゲルはすぐに口をつぐみ、ひれ伏した。
「余が貴様に慈悲だと? 血を捧げる? 思い上がりも甚だしい。余のことを知っているのであれば尚更であろう? 貴様は余のものを“横取り”しようとした。絶対に許さん!」
伯爵はエーゲルの首を鷲掴みにすると軽々と彼の体を持ち上げてしまった。エーゲルの足が宙に浮き、エーゲルは足をバタつかせた。
「お許しください! お許しくださいっ!」
エーゲルは必死に伯爵に慈悲を乞うが、目を爛々とさせて怒り狂った今の伯爵を誰も止めることは出来なかった。止められるとすれば――。
ヴァン・ヘルシングはエーゲルの悲鳴で目を覚ました。気づけば首のロープは解かれ、手錠と鎖も外され、床に座っていた。そして身体を何かに包まれていた。よくよく見れば、それは伯爵のマントだった。
……ヴラド……?
ヴァン・ヘルシングはゆっくりと顔を上げ、ぼやけた視界を凝視した。
オイルランタンの淡い光の中、背の高い男が一人の人間の首を掴み、高く掲げているのが見えた。
……ヴラド?
背の高い男――伯爵のもう片手には細長い棒のようなものが見えた。伯爵はその棒を構え、今にも棒の切っ先を人間――エーゲルの胸に突き刺そうとしていたのだ。
「貴様のその薄汚い身体を串刺しにしてやる!」
伯爵の言葉に、ヴァン・ヘルシングは思わず叫んだ。
「ヴ、ラド……ヴラドッ……!」
だが思うように声が出せず、おまけに、泣き喚くエーゲルの悲鳴にヴァン・ヘルシングの声が掻き消されてしまう。ヴァン・ヘルシングは思い切り深呼吸をした。
「ヴラドォォオオッ!」
ヴァン・ヘルシングの必死の呼び掛けにようやく伯爵が振り向いた。ヴァン・ヘルシングは激しく咳き込みながら言った。
「ヴラド……駄目だ……もう15世紀じゃないんだぞ……!」
ヴァン・ヘルシングの言葉に伯爵は、はっ! と息をのみ、自分に首を掴まれ震えているエーゲルを無造作に落とし、もう片手の杭をゴミ溜まりに投げ込むとヴァン・ヘルシングの元に駆け寄った。
「ブラム、すまなかった。君が縛られている姿を見て、生前のことを思い出してしまったのだ……」
伯爵はヴァン・ヘルシングの目覚めに安堵しつつ、申し訳無さそうに言うとヴァン・ヘルシングの身体をマント越しにぎゅっと抱き締めた。伯爵の腕力が強すぎてヴァン・ヘルシングは苦しくなったが、それと同時にようやく安心することが出来た。ヴァン・ヘルシングは一つため息をつき、伯爵の肩に頭を預けた。
「……どうやってここだと分かった……?」
ヴァン・ヘルシングの問いに伯爵は、彼の耳元で答えた。
「犬に変身して、君の匂いを辿った」
なるほど、とヴァン・ヘルシングは呟くと、今度は不安そうな低い声で、慎重に尋ねた。
「……どうやって、ここに……入ったんだ……?」
伯爵はようやくヴァン・ヘルシングの身体を離すと、ニタリと口角を上げた。それがヴァン・ヘルシングの不安を掻き立てた。
「ファン・レール君に招いてもらった」
伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは目をかっ開いた。
「学部長っ!? それで……学部長は……?」
ヴァン・ヘルシングは慌てて周囲をキョロキョロと見渡したが、見えるのはランタンの灯りに照らされたゴミ溜まりの山と、床に座り込みながらこちらを恨めしそうに見つめているエーゲルだけだった。
エーゲルの視線に不安を覚えたヴァン・ヘルシングだったが、今はヴラドがいてくれる。それだけでとても心強かった。
伯爵がヴァン・ヘルシングの問いに答えた。
「ファン・レール君には警官を呼びに行かせた。もうすぐ来るはずだ。さあエイブラハム、病院に行こう。君の脚が血まみれだ」
「脚を撃たれたんだ……そっと頼む……」
ヴァン・ヘルシングはマントの隙間から両手を伸ばし、伯爵の首に腕を回した。そんなヴァン・ヘルシングを伯爵が抱きかかえようとした、その時。
「おっ、お待ち下さい! ヴラド・ツェペシュ様!」
エーゲルは焦ったような、必死な様子で伯爵を呼び止めた。
「わたくしめはあなた様の子孫ですぞ!?」
エーゲルの言葉にヴァン・ヘルシングは驚愕の表情を浮かべると伯爵をじっと見つめた。
……ヴラドの……子孫……?
「この期に及んでまだそんなことを……」
伯爵は苛立った口調でそう言うと、ヴァン・ヘルシングを離し――ヴァン・ヘルシングも伯爵を離し――、エーゲルに歩み寄っていった。ヴァン・ヘルシングは嫌な予感を覚え、伯爵を引き留めた。
「ヴラドッ……」
「案ずるな、エイブラハム……」
伯爵は異常に落ち着き払った声で返してきたが、エーゲルへの歩みは止めなかった。ヴァン・ヘルシングは心の中で、違う! そうじゃなくてっ! と叫んだ。
……俺が心配してるのは、お前がそいつ側に寝返ってしまうことじゃなくて、お前がそいつをぶっ殺そうとしてることだっ!
「ヴラドッ! 駄目だぞ! さっきも言っただろ!? 絶対に駄目だ!」
ヴァン・ヘルシングの必死の諭しに、伯爵は不貞腐れながらも怒りで上がった肩を落としてヴァン・ヘルシングに振り向いた。
「一発も、殴っては駄目なのかね?」
伯爵の、まるで欲しい物をおねだりする子供のような表情にヴァン・ヘルシングは思わず、良いぞ、と言ってしまいそうになった。とっさにかぶりを振る。
……駄目だ、駄目だ! エイブラハム! コイツの言う“殴る”は、“撲殺”のことだぞ!? 駄目に決まってるだろっ!
ヴァン・ヘルシングは伯爵に言い聞かせるように、はっきりと聞こえるように言った。
「だ・め・だ!」
すると伯爵が、あからさまに落ち込んでる様子――先の尖った耳が少しへたりと下に倒れた――を見せてきた。それにヴァン・ヘルシングは呆然と目をパチクリさせた。
……な、何だ? その“特技”は……。
ヴァン・ヘルシングが何も言ってこなかったので、伯爵は、“効かなかったか……”と呟いた。
「……ならば……気絶させるのは……?」
伯爵が妥協したように聞いてきた。ヴァン・ヘルシングは伯爵の“妥協案”に唸りつつ、顔を背けながら小さくうなずいて見せた。それに伯爵はニタリと口角を上げると再びエーゲルに振り返った。
「良かったなぁ? エイブラハムが慈悲深い者で……」
「お許しください、お許しください!」
震えながら床にひれ伏し、命乞いをするエーゲルの胸ぐらを伯爵が掴んだ。首元を掴まれた瞬間エーゲルは甲高い悲鳴を上げた。
「ぎゃぁぁああ! お止めくださいっ!」
ヴァン・ヘルシングは伯爵とエーゲルを見ないようそっぽを向いたままだ。当の伯爵はエーゲルを高く掲げると、爛々とした目で彼を睨みつけた。
「エイブラハムがもし死んでいたら、貴様の命もなかったと思え」
伯爵は拳を構えると、エーゲルの顔面に怒りの鉄拳を喰らわせたのであった。
顔面にもろに伯爵の拳を喰らったエーゲルはゴミ溜まりの中にぶっ倒れ、身体をピクリと震わせたかと思えば動かなくなった。そこへ――。
「ドラキュラ殿! ヴァン・ヘルシング教授! 警官を連れてきましたよ!」
玄関の方から学部長の声が響き渡った。
ヴァン・ヘルシングと伯爵は互いを見合い、同時に、ゴミ溜まりにのびているエーゲルを見た。
「気絶させなくても良かったな……」
ヴァン・ヘルシングの言葉に、伯爵が不満げに返すのであった。
「……俺にとっては“まだ足りん”……」
学部長が呼んできた警察官によってエーゲルは連行されていった。それを、怪我を負ってるにも関わらず悠々と眺めていたヴァン・ヘルシングが隣りに座る伯爵に囁いた。
「お前の子孫かもしれないのに……良いのか……? 最後に声でも――」
「あの者が、たとえ俺の子孫であったとしても、君を傷付けた代償は払ってもらうまでだ。あんなの、子孫とすら思いたくないね」
「そ、そう――」
「それに――」
伯爵はヴァン・ヘルシングの声を遮ったかと思えば、顔を綻ばせ、彼を見つめた。
「今の俺にとって、大切なのは君の方だからね」
伯爵の言葉に思わずヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせ、視線を泳がせた。
「……流石……ワラキア公国元君主様。“金の杯”は伊達じゃないな」
ヴァン・ヘルシングは照れ隠しなのかニヤついた顔で言うと、伯爵が関心したようにニタリと口角を上げた。
「ほう、知っていたのか。そのこと」
「もちろん知ってるさ。それにメフメト二世が、“お前とはもう戦いたくない”、と漏らすのも納得だな。流石は“串刺し公”だ」
そう言いながらヴァン・ヘルシングは両手を伯爵に差し出した。伯爵はその場に膝を突くとヴァン・ヘルシングを抱き抱え、立ち上がった。
「俺的には“串刺し公【ツェペシュ】”よりも“小竜公【ドラキュラ】”の方が好みなんだがね……? まあ、メフメトに“カズィクル・ベイ”と恐れられたのは愉快だ」
【“カズィクル・ベイ”はトルコ語での“串刺し公”】
「そうか……」
ヴァン・ヘルシングは静かに微苦笑を浮かべたのであった。
第二章 前編 吸血鬼崇拝者と小竜公編 Finis.
後編へと続く――。
※ヴラド三世はワラキア公に復位すると、ワラキア公国やトランシルヴァニア公国内で不当に利益を得ていたドイツ系民族の商人たちを逮捕したり処罰(無論、串刺し刑)し、ルーマニア民族商人たちにもちゃんと利益が出るように政策をしていた。そのことが原因で、ヴラド三世を目の敵にしたドイツ系の商人の妻たちがカタリーナ・シーゲルを人質にし、逮捕された夫たちを釈放しろ、と迫った。
カタリーナは金髪のおさげを無惨に切られ、ブラショフ(トランシルヴァニア公国)にある火あぶりの刑で使われる柱に縛られてしまう。
ヴラド三世は、自分との第二子を妊娠中であったカタリーナを救うため、今まで逮捕してきた商人たちを釈放した。1459年のこと。
“金の杯”について。ヴラド三世はワラキア公国内の情勢を把握するために、飲水用の泉に金の杯を置いて、盗まれるか盗まれないかを見ていた。
因みに、ヴラド三世の統治下では一回も盗まれなかったとか。
まあ、盗んで捕まれば、間違いなく串刺しだし……。
“ドラキュラ【小竜公】”と“ツェペシュ【串刺し公】”の異名について。
ヴラド三世は公的な書面にサインをする際、“ヴラディスラウス・ドラクリヤ”の名を好んで使っていた。画像は英語版ウィキに載っております。
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