30 捜索
時刻は間もなく、午後の9時になろうとしていた。日没が訪れ、伯爵が棺の中から目覚めた。とっくにエイブラハムは帰ってきてるだろう、と伯爵は足早にキッチンへと向かった。キッチンの扉を前にして違和感を覚える。
……薪の燃える匂いがしない……。
扉を開けると、キッチンはもぬけの殻で、冷気と静寂と闇に包まれていた。
4月はまだ肌寒い時季なのにエイブラハムは何をやっているのだ? と伯爵は、今度はヴァン・ヘルシングの寝室へと向かった。
何時もなら、伯爵がまだ目覚めていない時はヴァン・ヘルシングがキッチンストーブを点ける役割のはずなのに、何故……。伯爵はヴァン・ヘルシングの寝室に向かう間に色んなことを考えた。キッチンストーブは単に点け忘れか、それとも点けないことによる何かの抗議運動か、若しくはまだ……帰ってきていない……か。伯爵は、それはない、というように首を横に振り、ヴァン・ヘルシングの寝室の扉を開けた。
「エイブラハム、帰って――」
伯爵の表情が固まった。キッチン同様ヴァン・ヘルシングの寝室ももぬけの殻だったのだ。扉の取っ手を掴む手に力が入る。まさか、この余の元から逃亡したのか? そんな考えが浮かんでしまった。
伯爵は険しい表情を浮かべると素早く身をひるがえし、自身の寝室へと向かった。無論、ヴァン・ヘルシングを探しに出掛けるのである。もしヴァン・ヘルシングが逃亡していたとして、速やかに取っ捕まえて監禁――ではなく、何か自分に至らないことでもあったのか、それが聞きたかった。内容によっては善処出来るかも知れないし、場合によっては……。伯爵は考えるのを止め、そそくさと身支度を済ませると、自室を後にした。
玄関へ向かうとヴァン・ヘルシングの靴はなかった。伯爵の靴とヴァン・ヘルシングのスリッパがあるだけである。
家を出ると鍵を掛け、伯爵は先ずアムステルダム市立大学へと向かった。
日没はとうに訪れており、空は薄明が広がり、西の空は夜に染まり始め、月が輝き始めていた。道をゆく人たちは仕事帰りなのか、街の中心部で、路面電車の駅があるダム広場の方へと、疲れたような面持ちで向かっていく。伯爵はそんな人混みを縫うように抜け、ダム広場を通り過ぎ、大学に着いた。
本日の講義の時間はとうに終わっており、学生たちの姿は見られない。職員と思われる老人や白衣を着た人がちらほらと歩いているだけだった。
伯爵は玄関を潜ると、まっすぐヴァン・ヘルシングの研究室へと向かった。
「エイブラハム、まだ仕事が――」
研究室の扉を開けると、家同様真っ暗でもぬけの殻だったのだ。
……やはり――。
扉の取っ手を掴む手に力が入り、今にも破壊してしまいそうになった。が、ふと、扉横のポールハンガーを見ればヴァン・ヘルシングの外套とフェドーラ帽が掛かっているではないか。講義室にでもいるのだろうか? それなら研究室で待とう、と伯爵が研究室に入ったところで背後から慌てたような声がした。
「ヴァン・ヘルシング教授! 戻って来――」
振り返ると、立っていたのは学部長だった。学部長は伯爵の姿を捉えるなり、残念そうに肩を落とすと、ため息交じりに言った。
「君は確か……ドラキュラ“君”だったか――」
「教授殿はこんな時間まで仕事をするのかね――」
伯爵は突然、学部長の言葉を遮るなり、扉横のスイッチを上げ、研究室内の照明を点けた。
「ファン・レール君?」
いきなり“君”呼びされた学部長――ファン・レールは度肝を抜かれた。
学部長はアムステルダム市立大学医学科全体を管理する。要するにヴァン・ヘルシングの上司なのだ。そのヴァン・ヘルシングの助手を、去年突然現れて自称する、自分よりも外見が若そうな長身の男にそう呼ばれるなど、学部長は思っても見なかったのだ。
この男は一体何者なのか?
ヴァン・ヘルシングは独自に不死者について研究をしていると聞く。その証拠に彼の研究室の本棚には『吸血鬼カーミラ』だの『吸血鬼ヴァーニーまたは血の饗宴』など、吸血鬼に関する本や伝承をまとめた書物が、医学書やその参考書の量と同じくらいに収納されている。
学部長は表情を一変させ、緊張した面持ちで伯爵に招かれるままにヴァン・ヘルシングの研究室に入室した。
伯爵はマントとシルクハットをポールハンガーに掛けると、来客用のソファーに深々と座り、長い脚を組んだ。その向かいに、学部長が苦い表情を浮かべながら姿勢正しく座った。
向かい合う二人の間に沈黙が漂い、学部長の額に冷や汗が流れ、その様子を伯爵がじっと静かに見つめ、無言の威圧を掛けてくる。
少しして、学部長が恐る恐る口を開いた。
「ま、前から思っていたのだがね……」
学部長はチラリと伯爵を見ては、視線を逸らした。伯爵の貴公子のような――事実伯爵は元王子である――佇まいに学部長は、この男は自分よりも地位が上の存在なのだと否応なしに気づかされた。
「きょ、去年突然……ヴァン・ヘルシング教授の元にやって来たみたいだが、君――否、貴方は一体……?」
学部長の問いに伯爵は、膝の上で両手を組むと、首をかしげては学部長を見下すように眺めた。
「余はエイブラハム・ヴァン・ヘルシングの助手であり、パトロンだ。それ以外の何者でもないが、この回答では不満かね?」
学部長は上目遣いで伯爵を上から下までそっと見つめた。
人間とは思えない燃え盛る炎のような真っ赤な瞳に、尖った耳。口髭からのぞく尖った犬歯に、血のように真っ赤な唇。死体のような青白い肌――。とたん学部長は、はっ! と伯爵をまじまじと見つめた。
「貴方がまさか……例の死体……?」
とっさの学部長の口から出た“死体”という言葉に伯爵は一瞬目を見開いた。
「……エイブラハムが……そう言ったのかね……?」
少し悲しげに、後ろめたそうに伯爵が尋ねると、学部長は、何か言ってはいけないことでも言ってしまった、と言わんばかりに顔を伏せ、答えた。
「い、否……警官が、ヴァン・ヘルシング教授が……し、死体を不正所持していると……」
再度上目遣いで伯爵を見てみれば、伯爵は先ほどの威厳のある佇まいに戻っており、今度は眉を潜めていた。
「警官だと?」
「は、はい……。ヴァン・ヘルシング教授は昼間に……連行されました。その……不正所持の件で……」
学部長はハンカチで冷や汗を拭いながら慎重に答えた。
「で、エイブラハムは逮捕されたのかね?」
伯爵の声は落ち着いていたものの、表情がどんどん険しくなっていった。それに焦りを覚え始めた学部長は、言葉を濁らせた。
「え、えっと、その……た、多分……」
学部長の返事に伯爵は小さくため息をつくと、すっと立ち上がった。
「エイブラハムは罷免されるのかね?」
「そ、それは市議会が……。だが、ですが、市議会からは何の知らせも……」
学部長が自信なさげに答えると、伯爵は、何だ、と言いたげに、表情をいくらか和らげた。そして、学部長の本音を聞き出そうと、少し脅すように言った。
「エイブラハムのことが気に食わなければ市議会にでも密告するが良い。その代わり、エイブラハムをトランシルヴァニアに連れて行く」
「えっ!?」
伯爵の言葉に学部長は慌てて顔を上げ、伯爵を見上げた。
「トランシルヴァニアに……連れて行くっ……? それはこ、困ります!」
学部長は伯爵の足元に膝を突くと、伯爵の脚に縋りついた。
「ようやく専門学校から大学に昇格出来きて、医者を目指す学生たちはヴァン・ヘルシング教授の講義を受けたくて当大学に来てるんです! お願いですからご勘弁を!」
【アムステルダム市立大学は当初小さな専門学校で1877年まで博士称号授与の権利がなかった。同年に大学へと昇格した】
伯爵は学部長の様子に、満足気に口角を上げ、さらに畳み掛けた。
「ほう。それで?」
伯爵からの“煽り”に学部長は、それで……それで……と連呼し、目を泳がせると何かをひらめいたようにズバリ、伯爵に言った。
「ヴァン・ヘルシング教授の疑いを晴らしてください! この通りです!」
学部長はズバッと伯爵に土下座し、何度も頭を下げた。きっとこの貴公子のような男なら、ヴァン・ヘルシングを助けられる。学部長はそう思ったのだろう。
伯爵は怪しげに目を細め、面を上げよ、と学部長に言った。学部長はおもむろに顔を上げ、伯爵を見上げた。
「では、余が迎えに行ってこよう」
伯爵のあっさりとした返事に思わず学部長の口から間の抜けた声が出た。
「へ……?」
「死体の“所有者”とは示談金で解決しよう」
……ま、余のことなのだが。嘘の通報をした者には後で報復すれば良い。
伯爵は安心したように小さく鼻で笑うと、早速マントを羽織り、シルクハットを被って研究室を後にしようとした。
「あっ、お待ち下さい!」
学部長に呼び止められ、伯爵は億劫そうに振り返った。
「何だね?」
学部長は伯爵からの鋭い視線に身を震わせながら、搾り出すように言った。
「そ、その……ア、アムステルダム警察署だと思うが、のですが……あの警官は変だったんです」
「変だと?」
伯爵は眉を潜め、首をかしげた。
「は、はい……。時折ドイツ語を喋っていましたし――」
因みに伯爵と学部長のやり取りもドイツ語である。
「オランダ人とは思えなかった……」
言いたいことを言い終えた学部長は深いため息をつき、肩の荷を降ろしたようにストンと脱力した。学部長の話に伯爵はふむ、と手を顎に添え、何かを考えると、再び学部長に視線を戻した。
「ファン・レール君はエイブラハムが何を研究しているのか、知っているかね?」
伯爵からの問いに学部長は、ドキリと肩をビクつかせ、顔を強張らせながら慎重に答えた。
「えっと……精神医学に……文学に哲学。それから……民族伝承学……」
すると伯爵がズイッと顔を近付けてきて、学部長をまっすぐ見つめてきた。
「ほう。何の伝承学かね?」
伯爵の畳み掛けてくるような質問に学部長は再び冷や汗を額に浮かべた。
「な、何のって……」
学部長は歯をガタガタと震わせながら伯爵を見上げることしか出来なかった。何の伝承学なのか、ヴァン・ヘルシングの研究室の本棚を見れば一目瞭然だ。だが、それを言ってしまったら、眼の前にいる、真っ赤な瞳をギラつかせている男に本当の意味で消されてしまうのではないか? という恐怖に、学部長は駆られてしまっていた。
……だが私は既に、蛇に睨まれた蛙なんだ!
そう腹をくくった学部長はおもむろに、吃りながら答えた。
「きゅっ……吸血鬼っ……で、す……」
学部長の答えに、伯爵はスクッと背を伸ばした。
「良かろう。では参ろう」
伯爵はマントをひるがえし、研究室を後にした。それを慌てて学部長が追いかけた。
「“参ろう”って、私もですか!?」
研究室の扉を開け、伯爵を呼び止めた。
「ド、ドラキュラ殿!」
だが、廊下には既に伯爵の姿はなく、代わりに一頭の黒い大きな犬が突っ立っており、学部長を真っ赤な目で見つめていた。学部長は犬の登場に困惑しつつも伯爵の姿を探した。
「ドラキュラ殿……?」
すると犬が学部長の足に歩み寄り、スラックスを噛むと引っ張ってきた。
「うわ! 何だこの犬!」
学部長はスラックスを必死に引っ張り返し、犬から逃れようとするが、犬の力がとても強く、学部長はよろめくとその場に尻餅をついてしまった。
「痛た……。どっから入ってきた!」
犬に怒鳴りつけると、犬が唸り声を上げてきた。それに驚いていると、どこかからか伯爵の声がした。
『ファン・レール君、立て。行くぞ』
「ドラキュラ殿っ、どこで――」
辺りを見渡すが伯爵の姿はない。
『いるであろう? 眼の前に』
伯爵の声に学部長は驚いた様子で眼の前の犬を見つめた。
「ええっ!? ド、ドラキュラ殿……?」
『さあ立て、ファン・レール君』
犬に上着の袖を噛まれ、引っ張られるままに学部長は呆然と立ち上がった。
……まさか、本当に吸血鬼が存在するだなんて……。
『余に付いて参れ』
そう“言うと”、犬は床に残るヴァン・ヘルシングのにおいを追い始めた。
「あっ、待ってください! 外套持ってきますから!」
学部長は急いで自室に行くと、外套を持って、呼吸を荒らげながら戻ってきた。
準備が整ったところで、犬と学部長はアムステルダム市立大学を後にした。
時刻は午後9時半頃。外は肌寒く、とうに真っ暗だった。道の脇にある街灯が淡いオレンジ色に輝いており、その中、人々が行き交う。ほとんどが男性で、きっと酒場からの帰りであろう。肌寒いというのにくたびれた作業着に木靴といった格好で、飲み仲間とじゃれ合いながら楽しそうに会話をしている。その間を縫って、犬と学部長はダム広場方面へと向かっていた。
「あ、あの……本当にヴァン・ヘルシング教授はこっちに来てるんでしょうか……? やはり先ず、警察署に……」
学部長は犬の背に向かって言ってみたが、犬は振り向くことなく進んでいた。学部長はしゅんと肩を落とし、ただひたすら犬に付いて行った。
ダム広場に着くと、帰りの路面電車を待つ人たちで各停留所は混んでいた。肌寒さの中、次の路面電車を待つ人たちが暇潰しに、と物珍しそうなものをキョロキョロと探し、黒い犬と学部長をじっと見つめる。はたから見れば我が道を行く犬に、老人が好奇心で付いて行ってる場面にしか見えない。
周りからの視線に勘付いた学部長は、犬に話し掛ける自分は精神病患者にでもなってしまったのか? と周りの目を気にしつつ、自分はこの犬の主人なんだぞ、とでも言うように胸を張った。
結局ダム広場は通り過ぎてしまい、家々が密集する地区へと入った。この辺りは路地が狭いため、街灯がなく、足元を照らすのは家々の窓からもれ出る淡い光だけだった。
とある住宅街の狭い通りの前に差し掛かると突然、犬が駆け出した。
「待ってください! ドラキュラ殿!」
その後を学部長が追いかけた。
学部長は犬を必死に追いかけ、犬に追いつく頃には大きく呼吸を乱し、肩を忙しなく上下させていた。
「ここだ」
伯爵の声に学部長は急いで顔を上げると、眼の前には黒い犬ではなく、いつもの伯爵が何かを見上げつつ立っていた。伯爵が見上げるものを学部長も隣で恐る恐る見上げた。
それはとても年季の入った廃屋だった。酷く前のめりに傾いており、窓ガラスは割れ、レンガの外壁にはヒビが入っていた。
たどり着いた場所に驚きを隠せず、学部長は不安げに伯爵を見つめた。
「乗り込むんですか……?」
学部長が問うと、伯爵は彼をじっと見下ろしてきた。それに不安を覚えつつ、学部長は伯爵の返事を待った。
「ファン・レール君」
「はい……」
「先に入れ」
伯爵の言葉に、学部長は耳を疑うのであった。
「はい……?」
学部長の間の抜けた表情に伯爵は、億劫そうに付け加えた。
「余は、招かれなければ家屋に入れんのだ」
しまったっ! と言ったように学部長は顔を伏せた。
……これ以上ドラキュラ殿のことを聞いてしまうと、“消される”かも知れない……。
学部長は、すみませでした……と呟いきつつ、目の前の廃屋の扉を見つめた。ゴクリと固唾をのみ、取っ手に手を掛け、静かに扉を開けた。ミシミシと音を鳴らしながら、扉はいとも簡単に開いた。その時――。
「さっさと住所を言えっ!」
「言わないっ――ああっ!」
男の声とともにヴァン・ヘルシングの悲鳴が聞こえ、学部長は震えた悲鳴を上げてしまった。
「ひいっ! なっ、何てことだっ……」
今まさにこの中でヴァン・ヘルシングが、何者かによって痛めつけられているのだ!
「ファン・レール、早くしろ」
伯爵もヴァン・ヘルシングの悲鳴に焦ったのか、険しい口調で学部長に言い放った。学部長は足をすくませ、ガラクタやゴミだらけの、真っ暗な廃屋の中を見つめた。その隣では伯爵が、学部長が廃屋に入るのを今か、今かと待っている。
……吸血鬼に襲われるより、人間に襲われる方がマシだ!
学部長は覚悟を決めると、ダンッ! と一歩を踏み出し、廃屋の玄関をくぐった。もう一方の足も踏み入れようとしたその時、背後から外套を強く掴まれ、思わず、ひゃっ! と女々しい悲鳴を上げてしまった。
「ファン・レール君、さあ、余を招くのだ」
背後から伯爵の声がし、学部長は声を震わせながら振り返った。
「ひゃいっ! ……お、おお、お入りください……。ドラキュラ殿……」
学部長が言い終えた瞬間、伯爵は学部長の腕を掴むと場所を入れ替わるようにぐるりと回り、学部長を廃屋から出した。外套や上着越しからでも分かる伯爵の手の冷たさと、予想外の出来事に学部長は驚きを隠せず、呆然と目をパチクリさせながら伯爵を見つめた。
「ドラキュラ殿……?」
「警官を呼んできたまえ、本物の警官だぞ?」
伯爵は落ち着いた声で言うと、マントをひるがえして真っ暗な廃屋の中へと消えてしまった。
「は、はい……」
学部長は呟くように返事をすると、はっ! と我に返った。
「こうしてはいられないっ。早く警察をっ!」
伯爵に掴まれて冷たくなった腕を擦りながら、学部長はアムステルダム警察署へと駆けていった。
※ここでようやく、学部長の名前が明らかになりました! ホント、オランダの名字、van(ファン――エイブラハムの場合は“ヴァン”だが――)が付くのが多い!
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