29 誘拐
眼の前にそびえ立つ一軒の廃屋にヴァン・ヘルシングは固唾をのんだ。
これは流石にやばい、と感じたのかヴァン・ヘルシングはジリッと後退り、思い切って声を張り上げた。
「助けてください! 誰かっ!」
「貴様!」
警察官が鎖を強く引っ張り上げ、廃屋の中に引き込もうとした。
「誰か! 警察を!」
ヴァン・ヘルシングはめげずに玄関から顔を出して叫び続けたが、通行人はおろか叫び声を気にしてやって来る者もいなかった。とうとうヴァン・ヘルシングは廃屋の中に引き込まれ、玄関の扉が勢いよく閉められた。
薄暗く腐敗臭の漂う廃屋の中、ヴァン・ヘルシングは警察官に向かって叫んだ。
「お前っ、警官じゃないな!?」
警察官は帽子を取ると、無造作にゴミ溜まりの山の中に投げ捨てた。警察官――男は歯を見せ、眼光鋭く、狂ったような笑みを見せた。その笑みに恐怖を覚えたヴァン・ヘルシングは、これ以上中に入れられないよう、その場に膝をついて抵抗したが、男には通用せず、ギチギチと引っ張られる手錠にヴァン・ヘルシングの方が音を上げてしまった。
「やめろ! 離せっ! 痛いだろっ!」
そのまま不法投棄されたゴミやガラクタをかき分けていく形で廃屋の中へと引きずられていく。
男は手錠の鎖を手繰り寄せ、強引にヴァン・ヘルシングを引っ張り寄せると、グイッと顔を近づけ、ドイツ語で言ってきた。
「あの“御方”の苦しみに比べれば、貴様のは屁でもない!」
男の言っていることがヴァン・ヘルシングには意味不明で、彼自身もドイツ語で聞き出そうと試みた。
「君の言う“御方”とは誰だ!? 何故私が死体を不正所持してると思った!? 君の“主人”? 私の知ったこっちゃ――」
「“ヴラド・ツェペシュ”。知ってるだろ?」
男が静かに、ヴァン・ヘルシングの耳元で言った。ヴァン・ヘルシングは驚きに目を見開く。
……ヴラド……。
ヴァン・ヘルシングは一瞬顔を曇らせたが、作り笑いを浮かべて惚けたように鼻で笑った。
「は、ははっ……。私が、そんな400年以上も前の人物の遺体を所持してるわけが――」
「しらばっくれるなっ!」
男はヴァン・ヘルシングの髪を鷲掴みにし、怒鳴ったかと思えば彼の腹に膝蹴りを入れてきた。
「うぅっ! がはっ、ごほっ……」
咳き込んで腹を抱えてうずくまるヴァン・ヘルシングの髪を、男はまたガッチリと掴んで無理やり起こすと、今度は頬に拳を食らわせてきた。
頬を殴られたヴァン・ヘルシングはゴミ溜まりの中に倒れた。眼鏡のレンズが割れ、辺りに飛び散った。口の中が切れてしまったのか、血の味が口内に広がる。
「……な、何故……そんなに……ヴラド三世に執着、する……?」
ヴァン・ヘルシングは今にも消え入りそうな声で言うと、恐る恐る男を見上げた。男はニヤリと口角を上げ、高らかに言った。
「オレは、ヴラド・ツェペシュ様の“崇拝者”だからだ。あの御方は素晴らしく優れた御方。あの御方を貴様から解放して差し上げるのだ!」
「……お前は……一体……」
ヴァン・ヘルシングの疑問に答えるように男は言い放った。
「オレの名はエーゲル! 以前ドイツのフィリンゲンにいた。ベルガー公爵を覚えているだろ?」
ベルガー公爵といえば、去年ヴァン・ヘルシングと伯爵で、依頼を受けて退治した吸血鬼だ。何故今更になってベルガー公爵の名が出てくるのか、とヴァン・ヘルシングは不審そうにエーゲルを見た。エーゲルは話を続ける。
「この世界は死で満ちている。永遠の楽園を手に入れるには不死者にならなければな? オレは必死に探した。吸血鬼の居場所を。やっとベルガー公爵を見つけたと思いきや……貴様がやって来てしまったっ……」
エーゲルは悔しそうに拳を震わせ、口をへの字に曲げた。怒りに息を荒らげたかと思えば、少しして落ち着きを取り戻した。
「だが、フィリンゲンの村の奴から聞いたぞ。去年やって来たオランダの学者が吸血鬼を連れているかもしれない、とな? その吸血鬼について調べさせてもらった。あの御方がまさかヴラド・ツェペシュ様だったとはっ!」
エーゲルは興奮したように声を弾ませた。
「15世紀に恐怖でワラキアを支配し、気に入らん奴らを串刺しにし、処刑した“串刺し公”! 無慈悲で無惨で無情で無謀で無差別でっ……ああ、何と素晴らしい……」
エーゲルは陶酔したようにため息をつく。そんなエーゲルの様子にヴァン・ヘルシングは気味の悪さを覚え、周囲の悪臭も合わさってか嫌悪感と胸糞悪さが込み上げてきた。
……こいつは知らないんだ。ヴラドがどれだけ命を懸けて自国を守ろうとしたのか。一人の女性に恋い焦がれたのか。寂しがり屋で、甘えん坊で、どれだけ親友思いなのかを……。
ヴァン・ヘルシングは小さく鼻で笑ってやった。
「ははっ……。君は……ヴラド三世の“表面”しか、見てないんだな……? なんと哀れ――」
「黙れ!」
エーゲルが片脚を高く上げた次の瞬間、ヴァン・ヘルシングが悲鳴を上げた。
「あっ!」
勢いよく足首を踏まれ、ヴァン・ヘルシングは震えながら脚を抱えて縮こまった。
「や、止めてくれっ……」
懇願するヴァン・ヘルシングにエーゲルは、癇癪を起こしたように何度も彼の脚を踏み付け、蹴り上げた。ヴァン・ヘルシングの悲鳴が廃屋内に響き渡った。
……誰かっ……。ヴラド……。
ようやくしてエーゲルは落ち着きを取り戻したのか、ヴァン・ヘルシングを踏み付けるのを止め、息を整えると汗ばんだ髪をかき上げた。その時にはヴァン・ヘルシングの両脚は動かすことすら出来ず、鋭い痛みだけが広がっていた。ヴァン・ヘルシングは両膝を抱え、痛みに耐えて震えていた。
エーゲルは、虫の息になったヴァン・ヘルシングの髪を鷲掴みにし、自分の方に向かせた。ヴァン・ヘルシングが口角から血を垂らしながら、小さな悲鳴を上げる。
「止めて、くれ……」
震えて懇願するヴァン・ヘルシングに構うことなく、エーゲルは彼の耳元で言い放った。
「あの御方は、世界を征することが出来る御方なのだ! そして、いずれオレも吸血鬼にっ……。貴様の出る幕はないんだよ! 老いぼれっ!」
そう怒鳴るとエーゲルはヴァン・ヘルシングの頬を強く叩いた。ヴァン・ヘルシングは朧気ながらもエーゲルを睨みつけた。エーゲルが話を続ける。
「独り占めはよろしくないぞ? ヴァン・ヘルシング。さあ、あの御方はどこだっ!? 貴様の家の住所を言え! このわたくしめがお迎えに上がるのだ!」
ヴァン・ヘルシングは歯を食いしばると、深く深呼吸をして言い返した。
「誰がっ……言うかっ……!」
「……そうか」
エーゲルは不気味なほど物静かに呟くと、ヴァン・ヘルシングの髪を掴んだままさらに廃屋の奥へと引きずって行った。
「離してくれ……止めてくれっ……」
ヴァン・ヘルシングはエーゲルの手から逃れようと、手錠で自由の利かない両手でエーゲルの手を引っ掻こうと必死にもがくが、体中が痛くて上手く出来ない。
廃屋の奥に入ると吹き抜けの部屋に螺旋階段、柱が姿を現した。
螺旋階段の手前で投げ捨てられるようにしてエーゲルの手から解放されたヴァン・ヘルシングは、起き上がろうと両手を突くと、その床には広範囲に渡って赤黒いシミが広がっているのが見えた。ヴァン・ヘルシングにはそれが何なのかすぐに分かった。
……血痕。まさかこいつ……数日前の新聞の――。
ヴァン・ヘルシングが警察官の格好をしているエーゲルを見上げようとすると、既にエーゲルが目前に立って彼を見下ろしていた。その手には円状に結ばれたロープを持っていた。ロープを捉えたとたんヴァン・ヘルシングの背筋に悪寒が走った。
……こ、殺されるっ!
ヴァン・ヘルシングは急いで立ち上がろうとした。
「あっ! うぅ……」
両脚に激痛が走り、立ち上がることはおろか動かすことすらも出来なかった。両手を必死に動かして床を這い、逃げようとするが、一瞬にして眼の前をロープが素早く落ちていった。
次の瞬間。
「うっ!」
ギュッと喉が絞められた。
ヴァン・ヘルシングは急いで両手で首に巻き付くロープを外そうと、首とロープの間に必死に指をねじ込んだが、ロープは徐々に締まり、身体が上へと引き揚げられていった。ヴァン・ヘルシングの足先が宙に浮いた。
「この世に別れを言うんだな? ヴァン・ヘルシング! ハハハッ!」
エーゲルはヴァン・ヘルシングを嘲笑うように高笑いしながら、彼の首に繋がるシャンデリア用のロープを引っ張り上げていった。その時、ヴァン・ヘルシングのワイシャツの襟がずれ、首筋の吸血痕が露わとなったのだ。それを目の当たりにしたエーゲルの手がピタリと止まった。そして、絶望したように目を見開くとヴァン・ヘルシングの首筋を穴の開くほどに見つめた。
「あの御方に吸血してもらったのか……!?」
エーゲルはヴァン・ヘルシングに静かに迫り寄ると、螺旋階段横の柱に彼を押し付けた。ヴァン・ヘルシングは必死に首を横に振る。
「うぅっ……!」
「許せん! 生き地獄を味あわせてやる! そう簡単に死ねると思うなよ!」
このままヴァン・ヘルシングを殺せば、自分がなりたいと切望する吸血鬼にヴァン・ヘルシングがなってしまう。そう考えたエーゲルは妬ましそうに怒鳴ると、ロープを少し緩め、ヴァン・ヘルシングをいくらばかりか下ろしたのだ。
助かった……。そう思ったのもつかの間、床に足先が着いたとたんヴァン・ヘルシングは悲鳴を上げた。両脚に激痛が走り、床に膝を突きたくても首のロープがそれを許さなかった。
「いっ……!」
ヴァン・ヘルシングは首のロープにしがみ付き、脚の激痛に耐えようと踏ん張った。そんなヴァン・ヘルシングの姿をエーゲルは面白可笑しく眺めながらシャンデリアのロープを壁のフックに結び付けた。
このまま放置して衰弱させるのも良いと思ったが、まだヴァン・ヘルシングから家の住所を聞き出せていないのと、死なれると吸血鬼になるのでは? という恐怖と嫉妬心から、エーゲルはヴァン・ヘルシングの手錠の鎖を強引に引っ張ると、首のロープから彼の手を離させた。
支えを失った両脚に一気に体重が掛かり、危うくヴァン・ヘルシングは首を吊りそうになった。
「あっ! かはっ……はっ……」
気を失いそうになるヴァン・ヘルシングを横目に、エーゲルは手錠の鎖を柱に巻き付け、ヴァン・ヘルシングの身体を柱に縛り付けた。
ヴァン・ヘルシングは首のロープに再度しがみつこうと両手を上げるが、手錠の鎖がそれを邪魔をした。何度も必死に腕を上げようとし、鎖のジャラジャラと鳴る音が耳を突く。次第に両脚の痛みに呼吸が乱れ、こめかみや首筋に脂汗がダラダラと流れ始めた。
エーゲルは、涙目になり悶え苦しむヴァン・ヘルシングを愉快そうに眺めた。
「貴様の家の住所を言う気になったか? 言うなら離してや――」
「誰がっ……! 言うかっ……!」
ヴァン・ヘルシングは搾り出すように叫んだ。エーゲルは眉を潜めると、八つ当たりでもするようにヴァン・ヘルシングの脚に蹴りを食らわせた。
「いっ……!」
「しばらくそうしているが良いさ!」
エーゲルは、ふんっ! と駄々をこねた子どものようにそっぽを向き、その場を去っていった。
薄暗く、悪臭の漂う気味の悪い廃屋の中に縛られ、取り残されたヴァン・ヘルシングは、絶望に顔を伏せ――首のロープに引っ張られ、それすらも許されなかった。
「はっ……ははっ……はははっ!」
突然ヴァン・ヘルシングが肩を震わせて笑い出した。笑う度に脚に振動が伝わり、痛みが走る。それでも笑いは止まってくれなかったので、仕方なく自ら首のロープに体重を掛けた。その苦しさでようやく“笑いの王”が去って行った。
「……こんな状況下でも“笑いの王”はやって来てしまうのか……。ははっ……」
ヴァン・ヘルシングは虚しそうに自嘲し、小さく息をつくと、眠るように意識を手放した。
「起きろっ!」
突然頭上から大量の冷水を掛けられたヴァン・ヘルシングは、身体をビクつかせて目を覚ました。
「うっ……がはっ、ごほっ……はぁ……はぁ……」
咳き込んで上がった息を整え、ぼやけた視界に目を凝らすと、眼の前に立つエーゲルを捉えた。エーゲルの手にはバケツが握られていた。
エーゲルはバケツを乱暴に置くと、苛ついた様子でヴァン・ヘルシングの髪を鷲掴みにし、その耳元で怒鳴った。
「貴様の家の住所を言えっ!」
ヴァン・ヘルシングも負けじとエーゲルの耳元で畳み掛けるように怒鳴り返した。
「言うわけ無いだろうがっ!!」
エーゲルはヴァン・ヘルシングの怒鳴り声に驚き、のけ反ったかと思えば、物凄い形相を浮かべて腰のホルスターから素早く拳銃を取ると、何のためらいもなく引き金を引いた。
バァンッ!
鋭い音が鳴り響いた瞬間、ヴァン・ヘルシングがうめき声を上げ、呼吸を乱した。彼のスラックスの右脛部分が真っ赤に染まっていった。撃たれた激痛にヴァン・ヘルシングは顔を歪ませ、額に大量の脂汗を浮かばせた。
「はっ……あっ……はっ……」
乱れた呼吸を再度整えようと深呼吸をしても、今まで受けたことのない激痛に、ヴァン・ヘルシングはなかなか持ち直すことが出来なかった。
「素直に言えば痛い目見ないで済んだのにな?」
エーゲルは吐き捨てるように言うと、出血するヴァン・ヘルシングの脚を蹴り、その場を去って行った。
ヴァン・ヘルシングは自分の右足から生温かい血が流れていく光景に、本当の意味で血の気が引く感覚に陥り、今にも気を失い掛けていた。
それ以降は同じことの繰り返しだった。数時間ごとにエーゲルがやって来ては、その度にヴァン・ヘルシングは冷水を掛けられ、殴られ、撃たれた脚を蹴られた。夕方を迎える頃には、ヴァン・ヘルシングは身体全身を震わせ、内臓まで震える感覚に陥っていた。寒さのせいなのか、痛みのせいなのか、彼自身には分からないほど身体の震えは止まらず、衰弱しきっていた。今にも眠ってしまいそうに、ただ薄らと目を開けては、割れた窓ガラスの外を眺め、日没が訪れるのを首を長くして待ち望んだ。
「……ヴラド……“入って”……来て、くれ……」
ヴァン・ヘルシングは震える声で搾り出すように呟くのだった。
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