お説教スタジオ
渡貫とゐち
カメラの前でお説教
「先生、少し一休みをいれましょうか?」
撮影をしてくれていたカメラマンさんが、私の不調を察し、声をかけてくれた。
……不調ではないけど、万全でもない。
難しい演技の連続で、普段よりも疲れているのは確かだった。なので、ここは甘えることにしよう……――まだまだ、撮影する予定の半分も撮り終えていないのだから。
「はい……十分だけ、いいですか?」
「構いませんよ。
その台本を読みながらでも、気になったところがあれば気兼ねなく伝えてください」
そう言って、(カメラの調整のため?)カメラマンさんがスタジオから出ていく。
真っ白な背景の部屋に残された私は、渡されていた台本をぺらぺらとめくる……
内容は全て、『お説教』である。
リモート授業どころか、リアルタイムでさえなくなった授業。
全ての授業内容は、あらかじめ撮影され、動画コンテンツとして用意されている。
生徒が見たい時に、見たい内容の授業を受けることができる――
サブスクリプションのシステムだ。
いつでもどこでも誰とでも……、テレビ番組がネット配信されたことで、自分の時間を『決められた時間』で拘束されないようになって数年が経ったが、遂に学校の授業までもが、時間の拘束から脱したわけだ……。
学校にいく、友達と会う、先生と対面して授業を受ける――私にとって当たり前だったものが、新しい技術とアイデアで形骸化していくのは、なんだかんだで寂しい気持ちだ。
もちろん、便利ではあるけど、便利だけが正義ではないと思う。
……自分が苦しんだのだから、若い世代も同じ苦しみを味わえばいいのに、とは思わないけど……(その慣習に嫌気が差していた私が同じことをするのは、自分で自分が許せない……、痛みを知っているのだから、同じ悲劇を繰り返さないようにするべきだ)
それでも、その苦しみの全てが悪いとは思わない。
良い部分だけを抽出して、若い世代に甘い蜜を吸わせてあげたいものだけど……、少なくとも、確実にある苦味がないと、その甘さも苦くなるのかもしれない。
甘さと苦さは、バランスを取っていてこそだ。
時間の拘束があったからこそ、同級生が集まれた。
……大人になると、それぞれのスケジュールって合わないものなのよ……。
「――先生、そろそろよろしいですか?」
一息ついただけ、のつもりが、もう十分ほど経っていたらしい……。
壁の時計を見ると、カメラマンさんの勘違いでもなく――、
私の方が間違っていた……もう歳なのかしら。
それとも、もっと休みたい欲が、私の感覚を狂わせている?
「では先生、残りの台本を消化してしまいましょう」
「はい……あ、メイクは、ちょっと直した方がいいですか?」
「いえ、お綺麗ですから、そのままで構いませんよ」
「お綺麗、ですか? ……もう、お上手ですね」
「……お世辞ってわけでは……、それにしても、三十代みたいなノリですね。
先生、まだ二十代の、半ばだったはず、ですよね?」
カメラマンさんも、よく覚えている。
……その通り、大学を卒業したばかりである。
生徒と対面しないので、昔ながらの教員免許は必要なく(こうして撮影のみを担当する、新制度の免許は所得しているが)、私のような急な進路変更でも、先生になることは可能だ。
昔は何年もかけて免許を取らなければいけなかったようで……――その制度が変わらなければ、私は先生になれていなかった……。
でも、先生なのかな?
教壇に立ってこそ、先生な気もするけど、今の私はカメラの前に立っているだけだ……。
不特定多数の生徒が見ているから、一応、クラス単位を飛び越えた世界中の子供たちをひとまとめにして教えている、グローバルな先生とは言えるのかな……?
(字幕がついているので、私の動画をそのまま外国の子も見ることができる……――ただ、海外の子がわざわざ私の動画を見るのかな? 本場の人の授業を見るような気もするけど……、比較のために見るのでは? ……それはそれで、再生数が0よりはマシなのかな……)
ともかくだ、今の私は誰がなんと言おうと先生である。
子供に勉強を教える……、免許なんてなくてもできることだけど、免許を取れるくらいには勉強をしているし、教え方の指南も受けている……。
間違っている、と指摘されることはあっても、意味不明、と否定されることはないだろう。
正解か不正解か。
曖昧なのは、一番ダメだ。
「じゃあ先生、台本の32ページで。
『授業中に生徒が隣の子とひそひそとお喋りをしている時のお説教』――お願いします」
動画を見ている子の中には、数人で見ている子もいる。リアルタイムでの授業ではないから、『そういう生徒もいる』ことを念頭に置いて撮影しなければならない。
リモートでもお説教はあった……、だけどリアルタイムではない授業では、お説教はカットされる。……おかげで誰かの時間を奪うこともなくなったわけだけど、お説教というのは、なくなるとそれはそれで、子供たちの人格形成に影響を与えてしまうだろう……。
親のお説教とはまた違うのだ。
親のお説教だけでは、やはり不足する。
サブスクリプション授業になってから、お説教の不足がちょっとした問題になった。
その改善策として、あらゆるシチュエーションを想定し、お説教だけを集めた『お説教パック』が提供されたりもしたのだ。
ただ、見ているだけでは意味がない。
悪いことをした時、その場で叱らないと、子供は学ばない……そのためには。
事前にお説教を、数千、いや、数万のパターンを撮影し、授業を受けている生徒の『悪さ』を認識して、お説教を随時、差し込むようにしている……。
まるで広告みたいに。
その場に合ったお説教を流すことで、本当の、リアルタイムの授業で怒られたような臨場感を生徒に体感させるためだ。
……そこまでするなら従来通りでいいのでは? なんて思ったりもするけど、時間的拘束を排除した昨今の生活リズムを変えるのは難しい。
私たちみたいに、二つを体験しているなら元に戻すだけだし、抵抗も少ないけど……『今』だけを体感している子供たちはどうだ……?
意外と対面し、決められた時間で拘束される授業は新鮮だったりするのだろうか……。
深刻なのは私たちの方か。
教員不足で、手軽に取れる教員免許は、『対面しない』ことを前提にしている……。
ゆえに、従来通りの形に戻せば、今いるほとんどの教員が教壇に立つことができないだろう。一度、撮影してしまえば長く使えるので楽とは言え、お説教だけで数万の撮影をしているのだから、大変さで言えば従来の授業と同じなのではないかと思ってしまうけど……、
想定して怒る……――これがなかなか難しく、撮影の初期と後期で、怒り方に差が出てしまうこともある。
たぶん、みんなそうだ。
そして、演技力がみな、上がっていく。
もしかしたら教員よりも、俳優になった方が結果を残せるかもしれない……。
たまに、本物の俳優さんが、修行のために混ざっていたりもするし――
「はいカット。おっけーです、先生、迫力がありましたよ……慣れてきたんじゃないですか?」
「あはは……まあ、何千と撮影していれば、コツを掴むくらいなら……
もう八時間以上も、怒ってばっかりですからね……」
怒り過ぎて、今ならなにをされても怒る気にならなさそう……。
逆に、なんでもないことでも、怒ろうと思えば怒ることができる。
変な感覚だった……、これが職業病?
いや、先生は教えることが本業だから――怒ることは仕事じゃないはずなんだけど……?
「お説教一つで人生が変わる子供がいますからね……、手を抜くのはご法度ですよ」
そう言われてしまえば。
子供のためにも、心を鬼にして、本気で怒るしかないじゃん……っ!
「じゃあ次のシーンにいきましょう。
『廊下を走る生徒をお説教する』――では用意」
「もう授業中とか関係ないじゃないですか!!」
―― 完 ――
お説教スタジオ 渡貫とゐち @josho
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます