狼よ、夜天に羽ばたけ、狼よ



「それは狂気である」

 と頭目アルファは言う。この頃には僕と鷹の付き合いはパック中へ知れ渡っており、僕には露骨な奇異の目が注がれるようになっていた。曰く、鷹は敵である。生活圏ニッチェの重なる狼と鷹は、しょせん獲物を奪い合う運命。それと敵対するどころか協力し合い、あまつさえ互いに親しく愛撫する関係など、

「自然の秩序に反することだ。改めねばならぬ」

 ……と、いうことらしい。

 僕はどこ吹く風だった。だからどうした、としか思わない。自然の秩序? そんなものに価値を感じたことはないんだ。自然はいつも最下位オメガに厳しかった。自然とやらいうものから恩恵を受けたことのない僕が、どうしてその秩序を守るために自分の行動を歪めねばならない? 数度に渡る頭目アルファ直々の叱責にも関わらず、僕は鷹との逢瀬をやめようとはしなかった。

 もしこれ以上ゴチャゴチャうるさいようなら、群を抜けたっていい。どうせこのまま群にいたって僕にメリットはないんだし。一匹狼になるのは不安だけど、僕には鷹という仲間がいる。

「ねえ」

 僕はある夜、鷹にそっと囁きかけた。最近僕らは、夜毎に肌を重ねて共寝するようになっていた。鷹が柔らかな土の上に座ると、僕が彼の周りを全身で包み込むように丸くなる。互いの体温を感じながら眠る行為には、他ではちょっと味わえない、すばらしい幸福感があった。

「ねえ、起きてる?」

「一応ね」

 彼は眠たげに僕の腹へくちばしを差し込む。

「すごく素敵な満月だよ」

「そうらしい」

「ね……たまには夜間飛行してみない?」

「ほう」

「月の光を浴びて一緒に飛べたら、きっと素敵だと思うんだけど」

「うーん」

 鷹は苦笑している。僕の提案を彼が受け入れてくれないのは珍しいことだった。

「それは無理だな」

「どうして?」

「夜になるとあんまり目が見えないんだよ」

「あっ」

「狼は夜でも昼間のように見えるんだろう? 少し羨ましいね」



   *



 僕はそのとき真剣に考えてみるべきだったんだと思う。「自然」とやらいうものの、底知れない悪意について。思い出してみるべきだったんだ。パックが長年僕にどんな仕打ちをしてきたかを。

 それから数日が経った夕暮れ時、僕は突然、群の中の一頭の雌に呼び止められた。心臓が止まるかと思った。最下位オメガたる僕を相手にするような雌なんているはずもなく、僕には女性経験というものが致命的に欠けていたんだ。

「ねえ」

 その鼻にかかった甘え声は、僕が鷹の気を引きたくて出すそれによく似ていた。

「あなたって、いつも、夜になるどこへ行くの?」

「友達に会いに……」

「友達より、もっといいものと逢いたいって思ったこと、ない?」

 雌が身を擦り寄せてくる。たまらない雌の香りが鼻を突き、僕の雄狼としての本能を刺激する。

「きっと素晴らしい経験になると思うのだけど――」

 ああ、ああ。

 そうだ。僕は馬鹿だった。僕には欠けていた。本当に足りていなかったんだ。誰かにという経験。という喜びの記憶が。だから僕は簡単になびいてしまう。少し好意を向けられれば、たちまち相手を信用してしまう。彼に――鷹に心を許したのもそのためだし、目の前の雌の誘惑にうまうま乗せられてしまったのもそのためだ。その性格がかつて僕に唯一無二の友を与えてくれ、今、その友を奪おうとしている。

 雌が僕を放してくれたのは、満月が天頂にかかるほど深く夜が更けた頃のことだった。僕はまだ絡みつこうとしてくる雌の肉体を払い除け、荒野を目指して走り出した。彼になんて言い訳しよう。からかわれるかな? 怒らせてしまったらどうしよう……なんて呑気なことを考えながら。

 彼はもう死んでいた。

 彼は、夜目の利かない鷹は、暗視能力に優れた暗殺者のパックに襲いかかられ、ほんの数秒で絶命したに違いない。柔らかな砂の寝床には、首の折れた彼の死体だけが、倒木ように静かに横たわっていた。

 あまりのことに、僕は正常な判断を失っていた。眠っているのかと思った。彼は、僕らには考えられないほど身体が柔らかくて、ときどきギョッとするような方向に顔を向けることがあったから。僕は彼に滑りより、そっと舌で愛撫した。反応はない。もう一度。やはりない。僕は震え始めた。恐怖ではない。そんなものよりもっと強烈な、体を突き動かさずにはいられない熱いなにかのために。

 彼の身体は、仕留めた野ネズミと同じ臭気を発し始めていた。



   *



 だから飛べ。

 僕は何だ? 狼だ。翼をもった狼だ。

 だから羽ばたけ。だから飛べ。

 狼よ、夜天に羽ばたけ、狼よ!!

 僕は飛んだ!! 垂直に飛び上がりながらに発した追悼の遠吠えで満月を貫かんとするかのように!! 飛ばずにはいられなかった。やらずにはいられなかった。頭目アルファ副頭目ベータ、その他すべての狼どもを――

 皆殺しにしてやる!!

 恐るべき速度で夜空を切り裂き、僕はパックの頭上に舞い降りた。はじめに狙うのは確実に頭目アルファ。垂直落下で迫るやいなや奴の喉笛を咬み切って、すぐさま羽ばたき宙へ戻る。情けなく頭目アルファが倒れ込むのを目の当たりにした取り巻きどもが浮足立って空を見上げる。見上げたその目に僕は牙を突き立てる。

 2匹!

 そのまま地を駆け、狼どもの陣形を掻き乱し、手当たり次第に咬んで千切って3匹、4匹。ようやく状況を理解した敵が迫ってくるのを空へ飛び上がって回避して、戸惑う三下の尻尾を引き抜く。これで5匹。思ったとおりだ。狼の狩りは集団で地上の獲物を追い詰めるのが本分。自在に空を舞う敵の襲撃に抗えるようにはできてない。

 僕は大きな翼で風を掴み、飛んでは降り、降りては殺し、また飛びあがって敵を見下ろし、逃げ始めた臆病者から仕留めにかかった。この戦い方。この狩りは、彼が教えてくれたんだ。何十回も、何百回も、僕は彼の飛行と彼の狩りを見てきた。憧れていた。大好きだった! それをお前らは奸計をもって殺した! 彼はもう飛ばない。狩らない。僕に笑いかけてはくれない! この罪を、

 貴様らの命以外の何をもってあがなえる!?

「ォォォオオアアアアァァアアアァァッ!!」

 僕の咆哮が狼どもを震わせる。



 やがて……

 やがて静寂が戻って来、全ては終わりを迎えた。

 僕は血の海となった大地に立ち尽くし、じっと自分の足先を見つめていた。

「ねえ。やったよ。僕、こんなに飛べるようになったよ。

 僕、もう独りで飛べるんだよ」

 それ以上は言葉にならない。

 僕の遠吠えを聞くものは、もう、誰もいない。



THE END.

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狼よ、夜天に羽ばたけ、狼よ 外清内ダク @darkcrowshin

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