狼よ、夜天に羽ばたけ、狼よ

外清内ダク

翼ある狼



 いっそ産まれてこなきゃ良かった。こんな異形で生きるくらいなら。狼に翼なんて重荷なだけだ。地を駆けるには恐ろしく邪魔。音を立てるから狩りにも不便。そのうえ背中の肉の隙間から捻り出た骨と羽毛の構造物は吐き気を催すほどおぞましい。「狼たるものに翼など!」そう吐き捨てたのは頭目アルファだが、僕だって意見は同じだ。誰が好き好んでこんな姿になり果てるだろう。誰が化け物扱いを望むだろう。僕は何も悪くない。突如として発症し七日七晩続いた地獄の高熱の後、僕はこの姿に成り果てていた。聞くところでは、こういう例は過去にもいくらかあったらしい。パックの中の一頭が、成熟するかしないかの頃、なんの前触れもなく変貌を始める。ある者には余分な脚が3本生え、またある者には追加の眼が開き、そして僕には、一対の歪んだ翼が与えられたというわけだ。

「おい、下郎オメガ

 パックの連中がわざわざ僕に近づいてくるのは、身分の上下を再確認するためだ。上位のものは堂々と尾を振り、下の者は頭を下げてへつらう。最下位オメガの僕は、あらゆる他者に対して情けなく這いつくばらなければならない。這いたくて這ってるんじゃない。パック内順位を意識しただけで、肉体が勝手に、反射的にこんな反応をしてしまうんだ。狼の習性……どうにもならない卑屈な僕。その情けない姿を見て嘲笑う、そのためだけに奴らは僕にかまいに来る。

「まだ背負ってるのか、そんな翼」

はずせばいのに」

はずれないよ、背中から生えてるんだもん」

「かわいそーうに!」

「今から狩りに行くが、お前は来るなよ」

「獲物に逃げられてしまうからな」

「ばさばさいってやかましいからな」

「ばさばさ!」

「ばさばーさ!」

 一言も返せない僕を残して、仲間たちは笑いながら行ってしまう。

 仲間? 仲間だと?

 違うよ。僕は、ひとりぼっちだ……



   *



 食い物もない。仕事もない。でも暇だけは無限にあった。だから僕はしばしば群を離れ、自分ひとりの趣味に没頭した。

 飛ぶ訓練をしていたんだ。

 はじめは小さな岩の上から。翼を羽ばたかせながら飛び降り、落下距離を伸ばす練習から始めた。狼の背に生えた超自然の翼はなかなか自分の意志では動かせず、僕は、無様に落下して腹を打ち付けることを何十回と繰り返した。

 だが執念のなせる技だろうか。やがて翼は僕の意志に沿って動き始めた。半年ほど過ぎた頃には、風の具合次第で数秒も滞空できるようになっていた。いいぞ。進歩だ。結構サマになってきたんじゃないか? 達成感を得た経験なんてほとんどない最下位オメガの僕は、自分のなしとげたことに自惚うぬぼれて舞い上がっていた。

「おめでとう!」

 そんなときだ。突然横手から、突き刺すような鋭い称賛の声を浴びせられたのは。

「えっ」

「おめでとうを言ったのさ! ずいぶん飛べるようになったね。格段の上達だ! ああ、鷹の言葉は通じないのかな?」

「いや」

 僕は目を白黒させる。一体いつからそこで見ていたのだろうか、近くの枯れ木の枝の上に一羽の鷹が留まり、翼を陽気にばたばた広げながら僕に話しかけてきていたのだ。

「なに……誰なの、君は」

「鷹さ! お前が狼であるようにね。よかった、ちゃんと通じてるみたいだ。ずっと見ていたよ。ここ数ヶ月、毎日飛ぶ練習をしていただろう。俺も経験があるが、初めて飛ぶのは本当に苦労するよな。でもお前はよく頑張ってると思うよ。すごい根気だ! 俺は好きだね」

「好きって……」

「狼の言葉には存在しない語彙なのかい? 『良い』とか『好ましいと思う』とか、『そばにいたい』『触れ合いたい』、『友達になりたい』と言い換えてもいい。そういうもろもろ全部含めて、鷹の世界ではこう言うんだ。

 『好きだ』ってね」



   *



 はじめて言われた。『好き』だなんて。

 ひとりもなかった。『友達』なんて。

 他人と話すことに慣れていない僕は「ああ」とか「うう」とか曖昧に唸ってそこから逃げた。でもどこへ逃げられるっていうんだ? 群へ戻っても居場所なんかないし、安心なんてますますない。僕には周囲の狼たちの軽蔑の視線を浴びながら、空きっ腹を抱えて獲物のおこぼれをあさりに行く以外の仕事はない。それすらも悪戯半分の気まぐれな暴力で邪魔されるんだ。

 断じてここは、逃げ場じゃない。

 翌朝、僕は再びあの岩のところへ足を運んだ。ほとんどヤケクソで飛行訓練を始めた僕の背後に、また、鷹の羽音が舞い降りてくる。

ご挨拶グッリーティーングス! 今日も精が出るね」

 僕は無視して岩から飛び降りる。数メートル滑空して無様に落ちる。鷹はそんなことお構いなしに自分ひとりで喋り続けた。

「いやあ、俺もガキの頃は痛い目みたなあ。なかなか飛べるようにならなくてね。何度も巣から落ちて強か腹を打ち付けたよ。しまいにゃ親にも見放されるしまつでね。そうそう、見放されるといやあ……」

 とめどなく溢れる鷹のおしゃべり。おかげで僕は彼の半生についてずいぶん詳しくなってしまった。年上のメスに恋をして破れたこと……兄弟と喧嘩して縄張りを奪われたこと……一番の好物は生きた野ネズミの踊り食いだということ……

「野ネズミ」

 飛ぶのに疲れた僕は、舌を垂らして喘ぎながら呟く。

「僕も好きだ……」

「ほう! 奇遇だな! いいよな、野ネズミは。ウチの連中には、もっと食べごたえのあるウサギだとか、身が引き締まっているキジバトだとかを好む手合が多いんだが、俺にとってはネズミこそが至高だね。あの丸々とした柔らかな肉! 旨味という意味では他の追随を許さない。想像するだけで……おっ、失礼。くちばしの隙間からヨダレが……お前もか」

 鷹が苦笑する。残酷だ。からっぽの胃袋が、野ネズミという言葉を聞いただけで、期待感に激しく蠕動を始めていた。僕はだらしなく唾液を垂らし、空腹の苦しさに呻きながら地に這いつくばる。その僕のそばに、鷹はちょんと降りてきて、

「ふむ? 行くかい?」

「えっ? どこへ?」

「お前は狼、俺は鷹」

 鷹のくちばしが僕の耳をくすぐったが、不思議と嫌な気分はしない。

「狩りさ」



   *



 僕らは友達になった。

 ふたりして荒野をそぞろ歩き、獲物を探す。いい具合に身の太った野ネズミを見つけたら、まずは僕が足音を殺して忍び寄る。そのまま捕えてしまえばそれもよしだが、大抵は飛びかかる前に気付かれる。ネズミは逃げ出す。僕は追う。巣穴に逃げ込もうとするのを先回りして行く手を遮り、さんざん駆け回らせてネズミを疲れさせる。そこへ上空からサッと飛びかかる黒い影――鷹。ネズミは悲鳴を漏らす暇さえなく、鋭い爪に締め上げられる。

 僕らの連携は完璧と言えるまでに鮮やかだった。僕らは捕まえたネズミを公平に分け、ふたりいっしょに素晴らしい肉の味わいで舌を喜ばせた。

 そうして腹を満たしたら、僕たちは共に飛行を楽しむ。楽しむだって? 楽しいわけがあるか。岩から飛び降り、無様にばたつき、墜落して痛みに喘ぎ、また岩の上へよじ登る。それを何十回、何百回と繰り返すんだ。理屈で言えば楽しいはずはない。

 そのはずなのに。

 どうしてだろう。僕の飛行――というか落下――に追従して、彼は何度でも何度でも一緒に飛んでくれた。僕が翼をひと打ちするたびに彼は僕を励まし、僕の飛距離が爪一つ分のびるたびに彼は僕を称賛した。そうだ。僕は不本意ながら、楽しいと感じ始めていた。知らなかったんだ。誰かとともに飛ぶことが、こんなにも心躍ることだったなんて。味わったことがなかったんだ。信頼できる相手がそばについててくれる喜びなんて。

 僕と鷹は共に飛んだ。来る日も来る日も、来る日も来る日も……

 彼の飛び姿は美しかった。不格好な僕の羽ばたきとはまるで別物。最小限の翼の動きで的確に風を掴み、鮮やかな曲線で空を切り裂く。僕はしばしば彼に見惚みとれ、彼の動きを懸命に真似た。

 だが、真似て真似しきれるものでもない。

「どうすれば君みたいに上手く飛べるんだろう」

 彼は少し困った顔をして、

「上手く飛ぶ必要はない。お前らしく飛べばいい」

「僕らしく?」

「お前の飛行は魅力的だぜ。お前が思っているよりもね」

 信じられない。分からない。僕の飛び方はまるで溺れた子犬のようで、見ていて不愉快でこそあれ魅力なんてあろうとは思われない。でも他ならぬ彼が言うことだ。僕は練習疲れで萎えた体を奮い立たせ、また岩に登った。

 飛びたい。

 彼のように。美しく、素早く。

 その思いが僕に信じられる全て。

 一年にも及ぶ挑戦の後、僕は少しずつ、少しずつ飛べるようになってきた。初めて我が身を己の翼の力のみで空に持ち上げたときの興奮。まるで魔法だ。自分が自分でない何かに成りおおせた実感があった。これまでの卑屈に媚びへつらう最下位オメガではない。もっと遥かに上等な、どこに出しても恥ずかしくない何者かにだ。僕の喜びは声にならないほどだったが、それ以上に喜んでくれた者がいる。

 彼だ。

「やったぞ! 思ったとおりだ!」

 必死に羽ばたく僕の周りを、鷹は風切って旋回し、甲高く喜びの歌を響かせてくれた。

「お前ならできると思っていたんだ! やったな! やったぞ!」

 体力の続く限り飛行を楽しみ着地した僕は、深い、だが心地よい疲労の中で、低く息を切らせている。隣に鷹が舞い降りてきて、僕の顔を覗き込んだ。

「すごいよ。あんな力強い飛び方は観たことがない」

 彼は囁き、僕の首元の毛の中に、くちばしを素早く差し入れた。

 僕は驚く。身を震わせる。毛の奥の素肌に、彼の硬い感触が触れる。

 僕は――逆らわなかった。彼のなすがままに身を任せた。くちばしの先端が僕の敏感な素肌を搔く。ひと掻きごとに、ぞっとするような快感が僕の背筋を駆け抜けていく。

 愛撫グルーミング。生まれてこのかた他の誰にもされたことのない、愛の行為。

「ねえ」

 僕の声は鼻に抜けたようにかすれていて、自分の囁きの思いがけぬ甘やかさが、僕自身を奇妙に動揺させる。

「僕も……したい。君に」

 僕は立ち上がり、彼に近づき、彼の優美な首元に、鼻先を近づけ、舐めた。僕のざらつく舌が、彼の羽毛を湿らせていく。彼の体にまとわりついた独特の臭気と塩気が、しかし不快でなく僕の喉に染み込んでくる。

「たぶん、君が好きだから」



(つづく)

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