26.今度こそ

 ふふん、ふん。

 などという機嫌の良い鼻歌を奏でながら、ハイマはエクスロス邸の廊下を闊歩かっぽしていた。廊下に敷き詰められた絨毯じゅうたんは何年にも渡って何人もに踏みしめられて硬くなっており、決して足が沈み込むような柔らかさはない。だが、ハイマはこちらの方が好きだった。

 体が沈み込むような感触はどうにも慣れない。その感覚は、体幹がおかしくなりそうな気がするのだ。その上何度踏みしめられても柔らかいままということは、それだけ何度も取り換えているということである。当然のことだがそれには莫大ばくだいな金がかかる。

 エクスロスという領地の経理上、屋敷の装飾に費やす余剰よじょう資金などないのが実情だ。貧乏とは言わないが、余剰があるほど裕福ではない。そもそもディアノイアと並び兵士を抱える家だ、そんなところに金を使うぐらいならば新しい武器でも一部隊分購入する方が有意義である。

 流石金持ちというべきか、ヒュドール家などは柔らかな絨毯じゅうたんが屋敷中に使われていて、ハイマはヒュドールの屋敷を訪れるたびにある種の酔いと戦う羽目になっている。

 いつもならばこのエクスロス邸の硬い絨毯じゅうたんの上をその体格に見合った足音を立てて歩くのだが、今日に限ってはハイマはまるで張り替えたばかりの絨毯の上を歩いているような軽やかさで廊下を進む。別にここは戦地ではないのだし、隠密行動でもないのに足音を消す必要はない。今現在屋敷の中で足音ひとつ立てないのは、紫音しおんくらいのものだろうか。


(やっぱ、最初は兄さんがいいか。)


 何となく思考がうわついているのは気づいていた。ハイマ自身、理由はもちろん分かっている。

 念願かなって、ようやく御馳走ごちそうを食べられた。数回に分けて仕込みをしていたおかげでそれは大変美味で、ハイマはその出来栄できばえに心から満足していた。

 朝起きてすぐ兄の下へ向かおうとしているのは、丁寧に包装されたそのご馳走を見せびらかす準備をするためだ。食べるのはハイマだけだが、誰にも見せず独り占めするつもりは毛頭ない。というよりもむしろ、きちんとハイマのものであることを周知させなければならない話だ。


(何となく、兄さんは察してそうだし……。)


 リノケロスは度々ハイマの行動にくぎを刺すようなことを口にしていた。何とははっきり言わないが、おそらくハイマが何度かに渡って楽しく仕込みを行っていたことに気付いていただろう。

 一階の一番奥にあるリノケロスの部屋までやってきたハイマは、一つ深呼吸してからそっと扉を叩く。やや間があって、中からファラーシャの声で返答があった。

 リノケロスとファラーシャは同じ部屋で寝起きしているのだから、彼女の声で返事が来ても何も不思議はない。ただ少しだけ、悪い時に邪魔をしたかもしれない、とハイマの心臓が音を立てた。


「失礼する」


 がちゃりとドアノブを回して扉を少しだけ開く。万が一の場合はすぐに閉める心づもりはあったが。ハイマの懸念けねん懸念けねんのままで終わった。

 落ち着いた色合いの家具に囲まれた室内では、いい香りのする紅茶を前に座っている兄夫婦と侍女の三人が朝食前のお茶を楽しんでいるところだった。ほっと息を吐いて今度こそしっかりと扉を開け、室内へ足を踏み入れる。

 個人的な時間に踏み込まれることを嫌うリノケロスがさほど機嫌悪そうに見えないのは、ファラーシャがいそいそとハイマをもてなす用意をしているからだろう。停戦のためとはいえ、良縁に恵まれて何よりだ。


「こんな時間から、どうした」

「ちょっと話しておきたいことがあって」


 侍女が出してくれた紅茶をありがたく一口含めば、ふわりと香る甘い匂いが鼻から抜けていった。ハイマはあまり飲みなれない味だ。

 そもそもが嗜好品しこうひんといえば、度数の高いきつくて辛い酒を口にするぐらいである。そのため、ハイマは紅茶などほとんど飲むことがない。サラッサは何かにつけて飲んでいるが、ハイマの好みを知っているため、ヒュドール家に行ったとしてもハイマに対して出てくるのは酒か、そうでなければ水だ。

 とは言っても、味が嫌いなわけではない。珍しい味だなと、そう思うぐらいだ。


「話しておきたいこと?」


 実に愉快そうに、リノケロスが片眉かたまゆを上げる。残った片腕だけで頬杖をついて、視線で話をうながす口元は薄く弧を描いている。

 彼は、ハイマが何の話を持ってきたのか既に見抜いているような顔をしていた。まさかことがすべて露見ろけんしているのではと、ハイマはうすら寒い気持ちになる。だが、すぐにそんなはずはないと内心で首を横に振った。

 そもそもハイマの居室は最上階、対してリノケロスは一階だ。どんな地獄耳でも、耳をそばだてていても、何の音も聞こえるわけがない距離である。


「ルシェ……あー、オルキデの大鴉を、俺の嫁にするつもりでいる」

「そうか」

「まあ、そうなんですの」


 ハイマとしては、これ以上オルキデとの関係を強めるのは、と反対される可能性すら考えていた。だが、拍子抜けするほどあっさりと、リノケロスもファラーシャもハイマの宣言を受け入れている。ファラーシャは一瞬何かを考えるような顔はしたものの、その表情はすぐに消えた。

 おや、とハイマは思わず首を傾げる。反対してほしかったわけではないが、簡単に承諾されるとどうもむず痒い。


「なんだ? 反対してほしかったのか」

「い、いや、そういうわけじゃねぇけど」

「お前があの鴉に執着しているのは知ってたしな。どの道こうなるだろうと思っていた」


 リノケロスが挙動不審なハイマを見て鼻を鳴らす。どこか察されているだろうとは思っていたが、こうもあっさりと認められると項垂うなだれるしかない。

 ハイマがルシェへの感情を自覚したのは割と最近だ。リノケロスは果たしていつ頃からこうなる未来を予見していたのだろうか。

 あまりにも察しが良い兄に、ぶるりとハイマは身震いした。服の下で、腕に鳥肌が立っている。


「まあ好きにすればいい。ただ、お前は当主だ。忘れるなよ」

「ああ」


 リノケロスがひらひらと手を振る。さっさと行け、という意思表示を受けてハイマは立ち上がった。ファラーシャはいつも通りに微笑んでいるが、実際には何を考えているのだろうか。

 ルシェの立場を考えれば、結婚するにあたり様々な手続きや儀式がオルキデ側でも必要になることだろう。彼女の血筋からしても、結婚しますなどという簡単な報告で済むとも思えない。

 ハイマが意識したことはないが、ルシェの髪色はオルキデで大きな意味を持つ。ハイマとルシェの間に子供ができたとして、その子供がルシェと同じ色の髪をしている女児であったなら、その子供はオルキデに必要な子供になるのだろう。


(ま、それはそれ、だな。)


 降りてきたついでに調理場へ寄って朝食を調達しながら、ハイマはまた鼻歌を奏でる。

 一番難関と思われていたリノケロスからの承諾が簡単に終わったので、ハイマの気分は上昇気味だ。残る障害と言えば異母姉ラグディナだろうが、あの姉は少々口が悪くて短絡的なだけだ。ハイマのやることなすこと全て反対をするので、ある意味では分かりやすい。


「お、フローガ。いい朝だな!」

「そう……かな、まあ、うん、そうかもね」


 大きな盆の上に二人分の食事を乗せたハイマが階段を上がっていくと、自室から出てくるフローガに出くわした。どうせ後で彼の部屋も訪れようとしていたのでちょうどいい。


「俺、結婚するからな」

「へえ……えっ?」


 フローガはハイマとは同腹の兄弟だが、体格といい性格といい全く違う。初対面の人からは従兄弟だと間違われるくらいだ。

 似ていないことを気にしているのか、フローガのハイマへの接し方はどこか壁があり遠慮がちだ。今も、さらりとハイマの言葉を受け流そうとして、ぐるんとすごい勢いで振り向いている。


「けっ……こんっ?」

「おう。また相手は紹介するから。とりあえず把握はあくしとけよ」

「いやそうではなくて……えっ?」


 混乱しきったフローガの叫びを綺麗に聞き流し、足取りも軽くハイマは階段を上っていった。

 リノケロスが反対しないのならば、他は本当にどうとでもなる。あとは適当にハイマが結婚するらしいという噂でも流しておけば、エクスロスの領民はようやくかという反応を見せるくらいだろう。どうせ彼らにとって、ルシェの立場はさしたる問題ではないのだから。


「ルシェ、飯だぞー」


 部屋に戻れば、ベッドの上は部屋を出た時と同じようにこんもりと丸いままだった。

 テーブルに盆を置いて、布団の膨らみをぽすぽすと軽く叩くように撫でる。中身がもぞもぞと動く気配があって、どうやら起きてはいるらしい。


「ルシェ?」


 再度呼びかけると、恥ずかしいのか何なのか、うめくような、あるいは何か言い返しているような声がする。ただ布に阻まれているので、それがことばなのかどうか、それすらも不明瞭ふめいりょうだ。


「ちゃんとお前のこと説明してきたからな。今日からは出歩いていいぞ」


 体力が回復しきっていなかったとはいえ、さほど広くない部屋にずっと居続けさせたのは悪かった。一度、アグロスまで足を延ばしたがその時も変装を必要としており、あまりのびのびと動けていなかったように思う。

 だが、今日からは自由に過ごしてもらっても構わない。いやむしろ、積極的に姿を見せてもらう方が都合がいい。ハイマが結婚する相手がどんな人間なのか、その方がきちんと周囲にも知らしめられるのだから。


「ちゃんと俺の嫁にするって言っておいたからな」

「ちょっと待て!」


 こんもりしていた布団が急に跳ね上がる。ばさりと布団を放り投げるようにして起き上がったルシェは、長い青銀色の髪が乱れてあっちこっちに絡まっていた。


「なんだ、どうした?」

「嫁ってなんだ!」

「ああ、そういや言ってなかったか」


 目を丸くして愕然がくぜんとした表情のルシェに、ハイマはそう言えばと思い出した。昨夜それらしいことは伝えた気がするが、きっとルシェは忘れているのだろう。


「好きだ。だから、お前をずっと俺のもんにしておきたい」


 今度こそ、という言葉がふっと脳裏を過ぎる。どうしてそんなことを思ったのか知らないし、そんなものはすぐに忘れてしまうものだ。

 こういうことひとつでもオルキデの風習に則ってやる方が、ルシェにとっては嬉しいのかもしれない。だが残念なことに、ハイマはオルキデの作法を知らない。ならば仕方がないから、ハイマはハイマのやり方で彼女に伝えるのだ。

 にっこりと笑いかけると、ルシェは首まで真っ赤な顔をして硬直していた。


  ※  ※  ※


 これにてふたつ、と書き記す。

 とはいえこれですべて終わるはずもなく、そしてこれで彼らがをきちんと手に入れられたとするには尚早しょうそうだ。この時代はまだ半ば、終わりはまだ先のこと。

 どちらの国も王は健在で、混迷は続いている。


 ただ、ここで少し、はじまりの話をしよう。

 ここに至るまでにあった話をしよう。

 すべてのはじまりはこの時代から七百年前、けれど千年前から、この因果は続いている。


 それを見届けるかどうかは、またこの時代に戻って来るかどうかは、その手にゆだねよう。

 私のことは気にしなくて良い。その時代の私はきっと、こんな風に語ることもしないだろうから。


 Deus alea volvitur in tabula――神は盤上にて賽を振る。

 それはまだ、人と神が近かった時代のことだ。

 さあ、彼らが失った話を、していこう。


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 ここで完結ではありませんが、ここで一旦この時代の物語は止まります。

 語りにある通り、一度物語を千年前に飛ばします。

 それが終わり次第、またこの時代についてを綴っていきます。

 よろしければ、また見ていただければと思います。


 Next→神は盤上にて賽を振る-Deus alea volvitur in tabula-

 https://kakuyomu.jp/works/16817330663264725788

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賽は投げられた-jacta est alea- 千崎 翔鶴 @tsuruumedo

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