25.欲するのならば何れの神か

 ジェラサローナの書状の内容を頭に入れたらしいハイマは、それを細く裂いて火にくべた。明かりにするための炎が揺らめいて、細く裂かれた紙をめるように灰にしていく。

 こういうものは残しておく方が危険だ。物として存在してしまえば、それが証拠になることもある。


「お前のところに写しは残ってんだよな?」

「ああ、残っている」

「クレプトやデュナミスに根回しするときは、それ出す方が良いな。気取られる場所……じゃねぇな、お前なら」

「問題ない。そこは信用してくれていい」


 写しについては、ルシェしか取り出せない影の中に沈めてある。他の鴉たちも手出しができないそこならば、鴉の中に裏切者がいたとしてもジェラサローナに気取られることはない。

 ハイマもルシェがどこに書状の写しを隠しているのか思い当たったのだろう。


「それ、どういう仕組みになってんだ?」

「影か?」

「色々入ってるだろ?」


 問われて、少しばかり考え込む。ズィラジャナーフの加護によって影の移動や影の操作、そして物の出し入れはできるものの、その仕組みを問われると困ってしまう。

 こういうものだと思ってはいるが、ではどうなっているのか。そもそも加護を詳しく説明するのは難しい。


「そうだな。移動するときに使う通路とは別なんだが……なんというか、棚がある感じだ。個人に割り振られた棚と、共通の棚と。受け渡しの時は共通の棚に、今回の書状のように隠しておきたいものは個人の棚に」


 人は既に、魔術的なものから遠く離れてしまった。歴史書を紐解けば魔術というものは名前が出てくるが、それは御伽噺おとぎばなしのようなものに近くなっている。

 オルキデには残滓ざんしのように、加護というものが残る。あとはひとりだけ魔術師というものをルシェは知っているが、説明をされてもいまいち理解しきれないものであるのは事実だ。


「と言っても、加護のことは私にもよく分からないのが本当のところだが。魔術というものが人間の手からほぼ離れている以上、誰も詳しくは分からないのかもしれない」


 もはやそれが近くにあった時代は遠い。オルキデの歴史書において、その記述が見られるのは建国の頃で、そこから徐々に魔術というものは消えていった。

 そうしてきっと、神というものもいつかは人間から遠く離れていく。人間は神の手から離れて、自分の足で歩き始める。オルキデは未だ神の影響は強いが、それでもかつてほどではない。


「受け取る側も加護がないと受け取れねぇんだよな」

「そうなる。だから鳥を使うだろ?」

「そうだよなあ。使えりゃ遣り取りも早いんだが」

「何かあったか?」

「国境付近、特にクレプトの賊被害が悪化してるらしい」


 バシレイアとオルキデの国境は、クレプトからエクスロス、デュナミスと広がっている。ただ入り込むにはクレプトからでなければ断崖絶壁だんがいぜっぺきはばまれていて難しく、最初に被害が出るのはクレプトで間違いはない。

 ただ、なぜそれが今なのか。


「……妙だな?」

「ああ、妙だ。停戦をして、もうそれなりに日が経ってる。賊になるほど領民の生活が悪化しているわけじゃねぇし、増える要因がねぇんだ」


 戦争というものは治安を悪化させる。それは間違いない。

 ただそれは、戦争による生活の悪化というものが背景にある。それから、戦争に兵士を取られて治安維持がままならないということが発生するからだ。

 けれど今は、そうではない。とっくに戦闘は終わっていて、そしてあの戦争はおそらくそこまで民衆の生活に影響を与えてはいない。


「そもそも、オルキデもバシレイアも総力をあげて戦争をしたわけではない。オルキデは騎士団長以下特定の家のみしか兵士は出していないし、バシレイアも主力はエクスロスの兵士でクレプトやデュナミスから総動員したわけでもないのだし……やはり、妙な動きだな。何が狙いだ?」

「クレプトだけならクレプトだけで済ませる話なんだがな、デュナミスやエクスロスでも被害が出始めてる」

「シュリシハミン侯爵からは何も聞いていないな。報告を上げてきていないだけか、それとも……」


 バシレイア側だけであるのか、それともオルキデ側でも影響が出ているのか。一応バシレイアと国境を接しているのはラベトゥル公爵領もだが、断崖絶壁だんがいぜっぺきの下であることと、警備の観点からして先に荒れるのはシュリシハミンの方だろう。

 ただ今のところ、ラフザからそういった報告は受けていない。リヴネリーアのところに報告があればエデルから連絡もありそうなものだが、それもない。


「シュリシハミン侯爵ってのは信用できるんだな?」

「あの方は、陛下と閣下を裏切らない。シュリシハミンは義と情のイェシム家だからな」

「ふうん。お前がそう言うなら、俺もそう思っとくか」


 知略と礼節のバルブールに対して、義と情のイェシム。ラヴィム侯爵家はある種特異な立ち位置であるので、そうして名前のついているベジュワ侯爵バルブール家とシュリシハミン侯爵イェシム家はかつて双璧だったのだろうという歴史家もいる。

 信用が置けるという意味では、やはりラフザとアスワドなのだ。バルブールはシハリアとファラーシャは信用できるものの、彼らの父親はラベトゥルの腰巾着に成り下がっている。


「シュリシハミン侯爵には賊の状況を確認してみる。どの道のこともあるからな、こまめに連絡は取っておかねば」


 果たして彼女から生まれてくるのはアグロスの色を持った子供かどうか。アグロスの色を持っていなければそれまでだ。持っていれば使い道はあるが、そうではないものを置いておくような余裕はない。

 そもそも利用価値があるのは子供だけであって、母親ではない。そういうことを考えてしまう自分に吐き気がして、けれどもそれは呑み込んだ。


「……子供か」

「どうかしたか?」

「いや、何でもない」


 視界の端で、青銀色の髪が踊っている。

 この色の意味が分からないふりをしたところで、何も変わりはしないのだ。となればすべてが終わったら、ハイマに頼まねばならないか。

 別に結婚したいとか、そんな高望みをするわけでもない。ただオルキデの誰かよりも、ハイマの方が条件としては良いのだ。どうしたってオルキデの人間が相手では、権力というものがついて回る。それほどに、オルキデの女王に背負わされるものは大きすぎた。

 これでハイマがオルキデのことに積極的に介入してくるようならば話は別だが、彼はそんなこともないだろう。


「話は終わりだな。細かい部分は明日にでも詰めるか」

「そうだな……人質と、それから何を他に渡すかというのもありそうだ」


 ハイマが立ち上がり、固まった身体を伸ばすようにのびをする。ごきりと鳴ったのは、どこの骨か。


「エクスロスに不利益があるようなもんは呑まねぇぞ」

「それで良い。私も陛下に不利益があるようなものは許容できない」


 そこについては分かっている。ハイマとルシェの間にどんな感情があろうとも、第一に考えるものは明白だ。自分の感情というものに振り回されて、判断を誤るようなことはあってはならない。

 上に立つとは、そういうことだ。アヴレークが死んだ以上、ルシェは彼とオルキデを支えていかなければならない。

 お前は彼らにつらなるものだろうと、そう己をいましめて。

 王族であるのだからと、そういましめて唇をむ。誰かに庇護ひごされるようなものではない、誰かを庇護ひごするものでなければならない。たとえ権利をすべて失った鴉であっても、アヴレークを死なせてしまったのだから。


「ルシェ、どうした」

「いや、何も……」


 アヴレークの死の責任がどこにあるのかと言われれば、きっとルシェにある。

 あの場で命令を無視してでも彼を守れるほどに強かったのなら。守り切って相手を糾弾できるほどであったのならば。

 その可能性を、誰かに伝えられていたのなら。

 後から悔いるのが後悔だ。誰も先に後悔を察することなどできはしない。こんなものはルシェの勝手な感傷でしかないのも、理解はしている。

 けれどそれをただ後悔で、感傷で、終わらせるわけにはいかないのだ。


「ルシェ、来い、ほら」

「え? あ……ああ」


 ベッドに座ったハイマが、ここへ来いとひざの上を叩いている。すっかり慣れてしまったらしいと思いながら、それに逆らうこともなく向かい合う形でそこに座った。

 目の前で黄金色が細められている。嘘を赦さないようなその視線のせいというわけではないが、何か嘘を言うような気にはなれなかった。

 隠すことはある。けれど、嘘を言いたくはない。


「赤くなってんな」

「……つい」

「ついでもむな、傷がつく」


 するりとハイマの太い指がルシェの下唇のところを撫でていく。気付かないうちに噛み締めてしまっていたのだろうか。鏡があれば確認できるかもしれないが、生憎とそんなものはない。

 耐えなければならないものがある。呑み込まなければならないものがある。犠牲を誰一人として出さず、だなどというきれいごとを言うつもりはない。そもそも、そんなきれいごとを言えるほどルシェは強くもない。

 それが赦されるのは、一切そういう決断を下さなくとも良い立場にあるか、あるいはそれすべて守ることができると自負のある人間だけなのだ。


「今更だろう?」

「そうかもしれねぇけどな」


 ルシェは決して傷一つないというようなものではない。鴉とはそういうもので、バシレイアとの戦争でも前線に出た。無傷でいられるようなものではなく、傷痕は積み重なって残っていく。

 検分でもするかのように、ハイマがルシェの首や腕を撫でては確認していった。硬くなった指先は決してつるりとしたものではなく、ざらついている。それが、少しばかりくすぐったい。

 その指先が、ルシェの右腕のところで止まる。


「これは、俺がつけたやつか」

「そう、だな。私も斬りつけただろう、戦争なんてそんなものだ」


 ルシェとてハイマの顔や腕を斬った覚えはある。躊躇ちゅうちょすれば自分が死ぬ、そういうものだっただけだ。

 何も今更言うことはない。それこそ、落としたリノケロスの腕ですら。


「それもそうだな」


 ただじっとルシェの腕にある傷痕を見ていたハイマが、腕を持ち上げた。手首と肘の間、少し柔らかな部分に斜めに傷痕が走っている。

 どうかしたのかとルシェが首を傾げたと同時に、その傷痕の上をぞろりと舌が這う。


「ひっ、な、なにして……」

「何となくだ」


 一度離れたものの、もう一度。まるでそこにあった血でもめ取るかのように、丹念たんねんに。

 ただそれがぞわりとして、落ち着かなかった。


「ちょっ、あの、くすぐったい!」

「何だ、それだけか?」


 くつくつと笑う声がする。

 ハイマは楽しいのかもしれないが、ルシェとしては楽しいというよりも落ち着かない。くすぐったいような、それともまた違うような。


「当主殿、やめ……」

「ルシェ?」


 制止の声にハイマの口は離れていったものの、今度は目の前で獰猛どうもうな獣が笑っている。


「もう夜だな?」

「そうだが」

「で、ここは?」

「う……」


 ぎしりと、きしんだ。

 そう言われても、そんな簡単には切り替えられない。ならば常にそう呼べば良いのかもしれないが、それはそれでルシェにはまだできそうにもなかった。


「言ったよな。無体を働いてる気分になるから名前で呼べって」


 それは一体どういう感覚なのかと思いはするものの、おとなしく従っておく。そういうものなのだと言われれば、ルシェはそうかとうなずく以外にはない。


「……ハイマ殿」

「いい子だ」


 満足げに笑った獣の目は、けれど何も変わっていない。

 ぎらついて、そして、呑まれる。


「お前、俺が好きか」

「それは、言わないと駄目なのか」

「俺は聞きたい」


 ごくりと、喉が鳴った。そういうことを口にしたことはなく、この感情すらも持て余しているのに。ルシェの中に生まれて初めて芽生えたそれには、自分でも戸惑う。

 これを、どうすればいい。何をすればいい。それがルシェにはまったく分からない。


「……すき、だ」

「そうか」


 また、満足げだ。

 けれど腹を空かせた肉食獣は、まだ足りないという目をしている。


「なら、お前は俺のもんだよ、ルシェ。神にだって、くれてやらねぇ」


 シャムスアダーラか、カムラクァッダか。それとも他の神なのか。オルキデには未だ神は健在で、その影響力は残っている。

 視界の端には、王家の青銀。これを欲するとしたら、いずれの神か。

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