麦畑の記憶、水田の忠告

 神社の鳥居をくぐって、自分の店がある方とは反対側に曲がって村外れまで歩く。この村はそんなに大きいわけではないから、3分と経たないうちに田畑の広がる場所に変わる。


 田植えが終わってしばらく経つ田んぼは、土色の水底が若い稲によって緑に浸食されて始めている。これから夏にかけて更に浸食は進んでいくのだろう。


 水田ばかりになったあたりで、道を外れて畦道の方に入っていく。春には蓮華れんげ蒲公英たんぽぽすみれいていろどられていたあぜも、今は雑草や白詰草しろつめくさに占領されてしまっている。


 そんな畦道の草叢くさむらの中に足を踏み入れる。地面から鉛筆の丈程伸びた細い草に、足をわさわさと攻撃される。少々くすぐったいのだが、故郷で麦畑の合間を歩く時もこんな感じだったから少し懐かしい。故郷で空がかすむようになってからは麦畑の合間を歩いて思考することも増えた。丘の上でただ立ち止まって空を眺めているよりは、歩いていた方がマシな気がしたから。


 そんな懐かしさを覚えながら、先ほど稲斗に言われた言葉について考えることにする。


『村の皆に忘れられない程度に――』


 この言葉は忠告のように聞こえた。だが、そんなことはもう、既に――


「わかり切ってるだろ……」


 事件さえ起こさなければ問題ないはずだ。


 仮にこのことを指しているのなら、この言葉が引っかかるはずがない。では、なんでこの言葉が引っかかったのか。稲斗の発言を少しだけさかのぼって思い出してみる。


『猫みたいに自由に過ごすのが、1番快適なんだろうからな?』


 間違いない。俺は気儘きままに生きたい。なににも縛られずに生きたい。猫みたいに自由に、気儘に生きるのが理想的な過ごし方だと思っている。そして今まで、それを実践してきた。気が向いたときに釣りに出かけ、気が向いたときに店番をする。それではいけないのか……?


「…………」

「だめ、か……」


 それでよかったら、忠告などされることはないだろう。恐らく、稲斗が釘を刺したのはこっちの方だろう。自由に、気儘に。何にも縛られずに生きていけば、いずれは人間として見られなくなる。


 規律を守らないものはそれ相応の報いを受ける。たとえそれが、規律という形で存在していないとしても――常識という形で存在している限り。


「そういうことか……。流石、多くの人と接するだけあるな」


 自由に過ごすことは、それ自体誰しも認められていることだ。ただし、それはある程度の規律を守ったうえでの自由だ。完全な自由を手にし、そのもとで生活しようものならば、ある種の植物をこれ見よがしに育てているのと一緒なのだ。


 心証という名の苗は、成長するほどに悪い方向に育つ。そして、どうしようもないほど見事に成長した時に刈り取られ、苗が植えられていた場所は虚無に帰す。苗があったその場所は孤独が支配する空間となる。


 誰にも見向きもされない更地の畑。そうなった理由は忠告とは関係はないが、過去にその畑の主となった俺は、刈り取られる瞬間の光景も刈り取られた後の更地の景色もよく覚えている。


 麦畑は収穫期を迎え、一度刈り取られて更地になった。それで俺は場所を変えて水田に稲を植えた。決して成長させてはいけない稲を。育ち切るまでは外の世界と関わっていられるが、育ち切ったら刈り取られてその関係も終わる。


 稲斗の言う「忘れられない」の意味はこっちだろう。では、悪しき心証の苗が育たないようにするには、どうすればいいのだろうか。


 答えは至極簡単だ。頭で理解するのは容易だが、今までほぼそれと無縁な生活だった俺が実践するのは容易なことではないと思う。


 昔はできなかった。それは間違いない。だが――。


「できない……ことはねぇはずだ」


 放浪の旅をして、東雲しののめの地を自分の帰る場所に選んだ。失いたくないものができたのだ。それに――。

 

 俺はもう、ひとりなんかじゃない。


 俺は故郷を出て、ひとりで大地を彷徨さまよう旅の中で使い魔達に出会ったのだから。俺には契約したレインとサフィー使い魔たちがいる。守るべきもの、大切にすべき存在が近くに居る。俺が好き勝手に生きて、それに使い魔たちまで巻き込んではいけない。稲斗は暗にそれを伝えようとしていたのかもしれない。


 俺が独りよがりでいることを許されたのは、放浪の旅の途中まで。サフィーあいつと契約した時にそれは終わったんだ。


 ……ずっと気付けなかった。


 常識に縛られた自由を手にしないといけないということを。

 完全なる自由は危険な自由だったことを。

 少しだけ変わらなければならないということを。


 空が灰色に霞んで見えたのは、多分本能がこのままでは危険だと感じたからなのだろう。そんな状態だったからこそ、たまたま稲斗の忠告が引っかかったのだ。




 考えているうちに、どうやら水田を囲む畦道を一周してしまったようだ。否との言葉が引っかかった理由も自分なりに解釈できたし、灰色に霞む空の理由もわかった。悩み事がなくなった今、使い魔達を待たせるわけにもいかない。


 ラノール・サンあそこでの生活はもう……終わったんだ。


 収穫の終わった後の、黄金色の輝きを失った麦畑の光景がフラッシュバックする。


 でも、東雲ここでの生活は始まったばかりに過ぎない。


 目の前には水面に点々と、青々とした稲が広がる水田が見える。


「もう同じ目にはいたくねぇ……」


 黄金色に実った稲穂が刈り取られる光景は見たくない。

 希望が絶望に変わってしまう瞬間を――見たくない。


 稲穂が刈り取られてしまったらきっと、再び灰色の霞が青空にかかるだろう。


「…………」


 今までは大して気にもしてこなかったが、これからは気にしていこう。もう二度と、孤独に過ごしたくはない。もうすぐ更地になってしまう収穫前の麦畑と、これから育ちゆく田植え後の水田の情景を交互に思い浮かべながら店へと戻る。




「やぁーっと返ってきたぁ」「おかえり、ご主人」


 店に戻ると、使い魔たちが店番をしながら俺の帰りを待ってくれていた。


 今の俺には帰る場所も、迎えてくれる使い魔仲間たちもいる。ここで気儘に、奔放ほうぼうに生活するために。俺はやるべきことはやろうと決めた。


 完全なる自由は孤独を、常識に束縛された自由は真の自由をもたらす――少しだけ忘れっぽい己の心に、大事なことを刻み込んだ。



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灰霞みの記憶片 八咫空 朱穏 @Sunon_Yatazora

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