灰霞みの記憶片

八咫空 朱穏

灰色に霞む空

 日に日に暑さが増し、少しずつ夏の到来を感じる季節。新緑の木が茂り、春の名残ある風が木立を揺らしてゆく。


 春風に髪を揺らしながら、緑のトンネルになっている石段を上って境内けいだいを目指す。石段を登り切ると、円形の境内が出迎えてくれる。


 円形空間の壁となる木々の隙間から陽光がこぼれて日陰を照らし、青空からも陽光が降り注ぐ空間。神秘的な雰囲気を感じられるこの場所は、今は俺以外に誰も姿が見えない。無人なことも相まって、いつもよりもゆっくりと出来そうだ。


 黄昏たそがれ神社の境内。ここは俺のお気に入りの場所のひとつ。ここに来て空をながめれば、一時的ではあるが悩みごとを忘れられる。今日もそれを求めてここに来たのだ。


 手水舎ちょうずやの柱にもたれかって空をあおぐ。


 鎮守ちんじゅの森に切り取られた円形の天井は空色に染まっている。天井の模様は気儘きままに、そして自由に形を変えて俺を楽しませてくれる。空色のキャンバスに白1色で描かれている模様ではあるが、濃淡で何色にもなるところにおもむきを感じる。


 自由奔放ほんぽうに姿かたちを変える雲を眺めていると、段々と考える気力がなくなっていく。しばらくすれば何を考えていたのかも忘れて、頭の中をリセットできる。


 できる……はずなのだが。


「おかしいな……」


 今日は考える気力がなくならない。それに――晴れているはずなのに、空色の天井が少しかすんで灰色ががって見えるようになった気がする。


 それでもそのまま霞んだ青空をぼんやり眺めていると、ふとある考えが浮かんでくる。


 昔見た青空はこんな色をしていた。


 俺はかつて、俺しか見えない空を見ていた。今見えている景色と逆の場所で、空を眺めていた。


  ○   ○


 空色の天井を切り取る大樹、その大きな日傘は心地よい葉擦はずれの音を奏でている。俺に対して葉っぱの傘は空を眺めるのに邪魔ではあるが、まぶしい日差しを遮ってくれるからありがたい。なんたって、初夏の日差しは1年の中でもかなり眩しい方なのだ。収穫を待つ小麦の穂に反射した陽光ですらも眩しく見えてしまうくらいには日差しが強い。


 そんな日差しを大樹の日傘で避けながら、幹に体を預けてぼんやりと空を眺める。


 黄金色こがねいろに染め上げられた大地の端っこに、カタツムリのようにゆっくりと大きな入道雲が流れている。今日も相変わらず、その背後の青空は灰色に霞んだ色をしている。


「やっぱり、今日も同じか……」


 ある事件――魔法がらみの事件を起こして以降、幾度となく俺はここ、ラノール・サン村の真ん中の丘にそびえる大樹の下で空を眺めてきた。俺の目に映る空はいつも、仄かに灰色の霞がかかっていた。


 その原因は薄々気付いていた。いや、気付かないようにしていた。時間の経過で忘れてしまうだろうとも思ったが、どうやらそういう訳にはいかないらしい。むしろ、時間を追うごとにその原因ははっきりとしていった。


 ――人と接触することがなくなった。


 これが大元の原因なんだろうなというのは薄々気付いていた。元から人との接触は少ない方で単独で行動することが多かったが、ある事件を境に完全なる単独行動をすることとなった。


 そして同じ時期から――空に霞がかかるようになったのだ。


「だからなんだ。ここじゃなんにも変わらねぇ……」


 ラノール・サンに居る限り、俺は人と接触できない。俺が拒むのではない。村が俺を拒んでいるからだ。村の面々にとってはかなりの重大事件だったらしい。ともかく、そうなってしまった以上はこの村を去るしか方法がない。


「仕方ねぇ。旅に出るしかねぇか」


 決意は大方固まっている。が、少しだけそれをしぶる気持ちもある。どこまでも旅をして世界を巡ったとて、いつも同じ空の下に俺は居る。だから、旅をしたとて青空の霞は取れないのではないかという懸念がある。仮に何も変わらないのだとしたら、村を出る意味が全くなくなってしまう。


「……いや……」

「…………」


 俺は独り言をやめて再び空を眺めることにした。


  ○   ○


「……い……」

 

 遠くから喧騒けんそうが聞こえる気がする。誰かしら喧嘩けんかでもしているのか? 静かな場所に来たはずなのだが、これじゃあ台無しだ。


「……い、……ぶ……」


 いや、これは人々のにぎわいの音じゃない。そんな元気が感じられない。では、これは一体誰に、何のために向けられた言葉なんだ?


「だいじょうぶ……?」


 あぁ、呼ばれているのは俺か。……にしても、誰が呼んでるんだ? だが、この声には覚えが――。


「おい! 大丈夫か?」


 ハッとして思考のうずから現実に引き戻される。それと同時に声の方に顔を向けると神社の神主、夕暮ゆうぐれ稲斗いなとが心配そうな表情でこちらを見ていた。


 俺はどれだけの時間、空を眺めていたのだろうか?


「あぁ、大丈夫だ。ただ空を眺めてただけだぜ」


 空を仰いで確認すると、灰色の霞は消えていた。


「それならよかった」

「稲斗は仕事中じゃないのかい?」

「仕事の方はもう終わってる。今は境内の見回りをしているんだ」

「ん? 俺、どれくらいそうなってたんだ?」


 稲斗の言葉に違和感を覚える。


「最初はいつものかって思ったが、それが1、2時間は続いてたから心配になってな。それに――いつになく茫然としていたから心配だったんだよ」


 そんな表情してたのかよ、俺。内心驚きつつも、平静を装って稲斗に言葉を返す。


「そうか、数時間くらいか。まあ、昔のこと思い出してただけだ。心配すんなよな」


 稲斗の心配そうな表情が和らぎ、代わりに疑問の表情が現れる。


「そういやお前さん、仕事中に抜け出していいのかい?」

「それなら大丈夫さ、店番に任せてるから」

「お前さん、いっつもどっかに行ってて店に居ないそうじゃないか」


 全くその通りだ。俺は気が向いたら外に繰り出して、店番を使い魔たちに任せる。その頻度は高くはないと思ってはいるんだが。


「今日は使い魔たちに任せているよ」

「きょうだろ。まぁ、予想通りってとこだ。早めに帰ってやんな」


 どう返そうかと考えていると、稲斗は更に言葉を続ける。


「そうは言っても、響かんだろう? 気儘に生きてるお前さんにとっては、気が向いたら店を任せて出かける。猫みたいに自由に過ごすのが、1番快適なんだろうからな?」


 これもまた見透かされているようだ。もっとも、俺がわかりやすいだけなのだろうが。


「ま、たまにはしっかり店に立って仕事すればいいと思うぜ。村の皆に忘れられない程度にな」


 冗談交じりにそう言ってくる。普段、この手の注意は気にも留めないのだが、今の俺の状態なら容易く言葉が引っかかる。


「そうだな、忘れられないようにしないと。んじゃ、店戻るわ」


 軽く手を挙げて稲斗に別れの挨拶あいさつをし、石段を下って神社を後にする。石段を下りながら、引っかかった言葉を反芻はんすうする。


『村の皆に忘れられないようにな』


 真っすぐ店に帰ろうとしたが、それでは頭の整理がつかない。直感がそう判断を下したから、寄り道をして時間をかせいでいくことにした。

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