第四話 自由

油のように濃く重い闇が立ち込める空の下。


城の中にある石の配置の美しい庭に、吸血鬼の兄妹はいた。


二体は肩を寄せてくっつきあうような格好でベンチに座り、一緒に一冊の本を読んでいる。


小鳩のようなあどけない顔。


肩や髪には、ガス灯の光が淡く落ちている。


二体が手に持っている絵本は、何度も繰り返し見たのか、ずいぶんと読み込んだ跡が残っている。


牧場での光景を見た後のことだが、そこにレイラが普段浮かべている憂鬱な表情はない。


「――太陽という世界を照らす灯りが昇り、温かい日差しが緑を育んでいました。空は抜けるように青く、その青空は見渡す限りどこまでも隈なく広がっていました」


レイラは紙面に顔を近づけ、一字一句漏らさないように絵本の文を読んでいる。


ページを捲り、しばらく朗読した後に、ばたんと本を閉じる。


「空が青いって、どんな景色なんでしょう。御伽噺の中とはいえ、本当に実在したらと考えると、とても想像できないです。兄さんは、どう思いますか?」


隣に座っているルーカスに、レイラは意見を聞く。


すると、ルーカスは一度周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、大切な秘密を打ち明けるように口を開いた。


「実は最近、城の書庫を調べていたんだ。そうしたら、書庫の本の中に、青空について書き記された歴史書が置いてあった。青空は御伽噺の空想なんかじゃない、あの黒雲の先には、本当に青い空が広がっているんだ」


ルーカスは黒雲が覆う空を指差し、レイラの表情を窺う。


レイラはしばらく呆然としていると、目を瞬かせながら、ルーカスの差す指の先を追う。


「あの雲の向こうに、青空が......それが本当なら、いつか実際にこの目で見てみたいです」


レイラは眼に期待を潤ませながら、暗闇だけが広がる空を仰ぎ見る。


その闇の先に、希望という光が差していることを夢想して。


「じゃあ、見よう。今は現存の吸血鬼の翼じゃ黒雲までの持久力は足りないし、黒雲を抜ける方法はないけど、その問題は僕が必ず解決させてみせる。だから、いつか一緒に青空を見よう」


ルーカスは快活な笑顔で、レイラを元気づけるように話す。


そのルーカスの言葉を聞いて、鳥籠の中で生まれ育った吸血鬼は、その翼をはためかせ、青空を思いのまま自由に飛ぶ己の姿を夢想する。


牧場の光景が頭から離れず、憂鬱に心を苛まれ続けていたレイラの体の奥の方に、温かい光や風が入ってくる。


心の中に生まれた希望の色は、徐々にその温度を増していく。


「分かりました、兄さん。一緒に見ましょう......じゃあ、約束です」


レイラは、綺麗な細い小指を立てて、ルーカスの方に向ける。


「ああ、約束だ。絶対に忘れない」


レイラとルーカスは約束の証として、互いの小指を絡ませて誓い合う。


二体の吸血鬼は花が咲くように頬を緩ませ、を広げる。


そこには、理想を持って夢に憧れる、明るく純粋な少女の姿があった。


                  ◇


記憶の回想が終わり、レイラの意識が現在へと戻ってくる。


レイラは幼い頃、確かに兄と同じ理想を夢見て、希望を持って生きていた。


だが、兄と離れることを余儀なくされてからは、夢を共有していた相手と会うことすら出来ず、辛い世界が目の前に立ちはだかり続けた。


その苦しい現実を前にして、幼かったレイラが寄る辺もなく絶望の中で夢を追い続けることなど耐えられず、レイラは無意識の内に記憶を忘れることで、自分には何も必要がなく、人形のまま生きていても問題がないと思い込み、辛い現実から精神を守ろうとしていた。


だが、錆び付いた引き出しの奥底で眠っていた記憶は、エミリーの言葉によって再び蘇った。


忘れてしまっていた思い出は、思い出したレイラの心臓を締め付ける位いっぱいに、胸の中に溢れ出していた。


――そうだ、どうして忘れていたんだろう。私は、兄さんと青空を見る約束をしていた。そして、私が心の底から笑えなくなったのは、牧場の光景を見て憂鬱な気分が離れなくなったからじゃない。兄さんと会えなくなったからだ。


『私のように生き方で後悔してほしくないんです。私は駄目でした、ですが、レイラ様ならまだ間に合います。レイラ様が、心の底から望んでいることは何ですか?』


エミリーの問いかけに答えを用意しようと、レイラの思考が巡る。


――私の、本当の気持ち。


私が、本当に望んでいること。


私が、心の底から笑顔になれること。


その自問自答の最中に、優しい笑顔で微笑む、ルーカスの顔が脳裏に過ぎる。


「兄さんと会いたい。また昔みたいに一緒に、心の底から笑えるようになりたい」


囁くような小さな声ではあるが、レイラの本心は無意識に言葉となって、勝手にその口から漏れ出ていた。


エミリーはその呟きを聞くと、コクリと力強く頷いた。


「では、会いに行きましょう。派閥の護衛などは私が足止めしておきますので、レイラ様はその間にルーカス様の元へ行ってください」


そのエミリーの突然の言葉に、レイラは虚を衝かれたように慌てる。


「え?......でも、そのせいで私の地位が失墜したら派閥の被害とか、他にもあるし、それに、エミリーだって危ない――」


「――レイラ様」


透き通るような凛とした声が、レイラの反論を遮る。


「レイラ様には心があります。その意志は、何者にも縛られてはならない。その行動がどんな結果を起こすことになろうと、後で後悔しない為に、レイラ様のしたいと思ったことをして下さい。だって、レイラ様の心と意志は、なんですから」


それを聞いて、レイラの心の暗かった部屋に、パッと電灯がついたような気がした。


――兄さんと会えなくなった日から、私はずっと暗い気持ちのままで、心の底から笑えなかった。なのに、このままでいいの?また自分の気持ちに嘘を吐いて、周りのせいだって言い訳して逃げて、あの時こうしていればって後悔しながらずっと生きていく?


それでいいのかと、レイラは自分の本心に向けて問いかける。


――そんなの、絶対に嫌だ。


その本心から出た思いは強い意志となって、レイラの眼差しに、ひとかたならぬ決意を漲らせる。


「ありがとう、分かった。私は、自分勝手でも、私の生きたいように生きる。結果がどうなろうと、自分に正直になって選択した道を、私は絶対に後悔しないと思うから」


エミリーは安心したように少し表情を和らげると、すぐさま落ち着いた顔付きに戻る。


「では、早速行きましょう」


レイラは座っていた椅子から立ち上がり、ルーカスの元へと向かう準備を始める。


鳥籠に囚われていたいた鳥は今、自分の意志で檻から飛び立った。

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忘却の原点 新島廉 @arajima_ren

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