二 魚

 数日が経って、人々にとって『終末』の言葉がちょっとした固有名詞と同じくらいに馴染んできた頃。今日は授業を穏やかな喧騒として雲の流れを追いながら、終末が始まってからの世界を想像していた。終末は水をコンロにかけるみたいに訪れると聞いた。爆弾が落ちて世界が一瞬で平坦に均されるのとは違って。それなら終末が始まった世界に生きる人は水が沸騰しきって水蒸気と消えていく過程を、世界がゆっくりと機能しなくなっていくのを見届けることが出来るはずだ。だから僕はいつか見ることになる紫の空と赤い雲を想像するのだった。言葉にすると大層だけれど、そんなおどろおどろしい景色が日常となる日々は案外あり得るのだと思う。だって今でも雨が街に海を作ろうと風が大木を薙ごうと、僕たちは変わらず電車の吊革に掴まって前に座るスーツのおじさんが次の駅で降りることを期待しているのだから。

 そんな電車の窓の外が真緑だったら、と考えながら遠くを走る電車を見ていた。ふと耳元で羽音がする。右のほうを見やると大きなアシナガバチが机に止まっていた。手で払う。

「嘘でしょそのくん!」

 突然名前を叫ばれて振り返る。見ると僕の周りの席には誰もいなくて、教室の隅っこの掃除ロッカー前に数人の女子と男子が縮こまって立っていた。女の子の陰から永井がこそこそ手招きするので同じように縮こまりに行く。さっきの蜂は天井の蛍光灯の辺りを飛び回っている。遠くの席の朝霞と目が合った。くすくす笑っている。僕の腕にしがみつく永井が言う――永井は友達。サッカー部と天文部を兼部している。

「ほんっとびっくりした! 幾ら何でも蜂を素手はないよ、刺されたら大変だろ」

「あ、」

 そうだった。蜂は刺すんだった。刺されたら僕は痛いし、蜂は死んでしまう。

「園くん、蜂怖くないの?」

「うん、あんまり」

 先生が照明を落として教室の窓を全て開けると、蜂はふらふら明るい方へ飛んでいく。それを先生が箒で外へ追いやって、リレーのスターターピストルが鳴る幻聴でも聞こえたみたいにみんな一斉に窓を閉めた。授業は何事もなかったかのように再開した。蜂を怒らせなくて良かったと思った。そして窓越しに流氷みたいな鱗雲を見上げて、寝床を探す蜂に思いを馳せた。


 放課後、学校を出た僕は自転車を西へ走らせていた、空がオレンジに染まる方へ。秋の夕暮れは好きだ。清少納言とは気が合う。街を埋める真四角の建物全部、セロハンに透かしたみたいなオレンジ色と青い影を透いたような水色が面と面でぱっきり隣合わせに映っていて、抽象画みたいで綺麗だと思う。信号待ちの間に、自分が無意識にカフスを撫でていることにふと気づいた。これが前世からの持ち物であることは僕にとってどうでもいいのだろうけれど、これだけ小さいものを広い世界のどこかに無くしてしまうことを考えるとほんの少し胸がきゅっとなる。ロケットには大切な人の写真を挟むと言うけれど、今も昔も関係なくきっと僕に限ってそんなことはない。これだけは言い切れる。人間は造形として綺麗だとしても、やはり僕にとってはこの景色の方が魅力的に思える。自転車を止めた。僕は夕暮れの海にいた。

 コンクリートと砂浜のぼやけた境界に腰掛ける。海に夕暮れを見に通うのは日課だ。それはこの景色を特別美しいと思っている、みたいなものとは少し違って、うまく言えないけれど、気が合う友達と一緒にいる時間と同じ居心地の良さがあるから、だと思っている。そして空なのに親しみ深いこの感覚が不思議でここにいる。今はそれだけだった。

 秋の空はいつもより一層広く見える。海はそれが一番よく分かる。遮るものが何も無いから。海も空も橙に、その境界を無くすから。空に一匹、大きな魚がその鱗全てをオレンジに光らせて跳ねる。睫毛に光の粒子が爽やかに甘い。僕の輪郭まで橙に溶けて、背中を青い青い夜が優しく支えている。まるで今海に沈むみたいだ。一陣の風が僕を海中へ誘うように流れていく。立ち上がって、カフスを夕日に翳してみる。水流の感触が滑らかに僕を透過して、カフスのホールを通り抜けて、水平線の向こうへ流れていった。そうやって海風の彗星は湧き水のように純粋な夕暮れの橙を連れて、その尾を夜の帳として空に下ろすのだ。

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ループⅡ 減゜ @D_Gale

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