黒神くんのご尊顔を拝ませて
つばきとよたろう
第1話 黒神くんのご尊顔を拝ませて
運命的な出会いとは、こんな細やかな風の悪戯のような出来事なのだろう。何の前触れもなく、突然起こって、突然去っていく。それは突風が巻き上がって、その子の長髪をなびかせた。そこに見えたのは、紛れもなく佐藤さよの敬愛して止まない
「連絡事項は、以上で終わり。黒神、髪を切りなさい」
担任の先生がホームルームの締めを伝えた。
「返事をしなさい?」
「はい」
その容姿から想像できない澄んだ声が聞こえた。さよはそっと教室の後ろの席に目をやった。前髪を垂らして顔を隠している男の子が教室の冷ややかな注目を集めながら、じっと座っている。さよはちょっと胸の辺りが冷たくなるのを感じた。
担任の先生が出て行くと、張り詰めた空気が緩むように、教室が騒がしくなった。次の授業が始まるまでの束の間の休息だ。教科書やノートを机の上に取り出す音や、友達同士で話す明るい声が響いた。さよも教科書とノートを揃えると、鞄から宝冠弥勒のレプリカを取り出して眺めた。木製の端整な顔立ちが微笑み掛けているように見えて、さよは頬を緩ませた。切れ長の目、緩やかな曲線を描いた眉、筋の通った鼻、魅惑的な唇、どこを取っても欠点がない美しいご尊顔だ。さよはうっとりしながら、宝冠弥勒のレプリカを堪能する。
「さよ、また仏像みているの? みろくぼさつはんかしゆ、何だっけ」
友達の埼玉結が片目をつぶって、小首を傾げた。さやには出来ない女の子らしい仕草だ。それで何でも許しもらえると思っているのは、ちょっとずるい。
「弥勒菩薩半跏思惟像」
「みろくぼさつはんかしゆ、しゆしゆしゆいぞう」
わざと呆けているのか、舌足らずなところが可愛い。やっぱりこう言うところが、男の子に持てるのだなと羨んでしまう。
「宝冠弥勒でいいよ」
「ほうかんみろくね。オーケー、相棒」
さよは結の言い方が面白くて、思わず笑ってしまった。兎がくしゃみしたような小気味よい笑いだった。
「で、この仏像って何かご利益があるの?」
結が二拍手して、宝冠弥勒を拝む。本気でやっているとは思えない。ふざけているのが見え透いていて、憎らしい。
「残念だけどレプリカだから、多分ご利益は無いよ」
「そう。それは残念だね」
結は結構本気で期待していたのか、妙にはっきりと顔をしゅんとさせた。でも、これがもし本物だったとしたら、さなはおいそれと持ち歩けない。何せ宝冠弥勒は、国宝だからだ。
「何か願い事でもあるの?」
「願い事ならたくさんあるけど。新しいシューズ欲しいし、可愛い私服も欲しいし、素敵なペンケースも欲しい」
「随分欲張りだね。でも神仏に願い事をするのは、私欲のためだと駄目なんだって」
「へー、そうなの。私知らずにバンバンお願いしてた。でもさよ、いつも何か願っているじゃない。何願っているの?」
結はさよの秘密を探るように目を細めて、じろりと見た。さよはドキンと胸が高鳴り、思いもしない結の質問にたじろいだ。口をもごもごさせながら、どうやって誤魔化そうかと焦っている。
「別に何も願ってないよ。あるとしたらみんなの健康とか、世界の平和とかだよ」
ちょっとそれは言いすぎた。いくら何でも、おいとツッコミを入れられるだろう。
「おい、そんな訳ないだろ」
さよはふふと笑って、おどける結を見た。願いが無いというのは嘘になるが、あるとすれば、ちょっと恥ずかしくて言えない、誰にも秘密の願いだった。もちろん結にもだ。
「でもこの宝冠弥勒って、いい顔してるよね。さよが惚れるのも分かる気がする」
「そうでしょ。そうでしょ」
結も宝冠弥勒の良さが分かってきたようだ。
「いや。こんな爽やかな顔の人このクラスにも、この学校にもいないから」
結は顔の前で、小さく手を振った。
「いたら、学校中の憧れの的だよ」
「そうだよね」
こんな綺麗なご尊顔の人いるはずがない、さよは諦めたように心の中で呟いた。
「えっ、いるの?」
そんなさよの気持ちをどう読み取ったのか、結は目を大きくして見詰めた。結は時々大きな勘違いをする。
「いないよ。いない」
さよは慌てて否定した。結の目は光ったままで、教室中を見渡した。そうして、ある一点に引き寄せられて、その光を失った。そこには黒神くんが、髪で顔を覆って座っていた。
「ねえ、黒神くんの顔見たことある?」
結は今見回した顔を戻して、さよに向けた。
「ないけど。どうして?」
「えっ、まさかと思うけど。ないか」
「ないよ。だったら、どうして隠す必要があるの?」
こんな綺麗なご尊顔なら、隠す理由が見つからない。まさか目立ったり、注目されるのが嫌でやっているのではないだろう。むしろ顔を隠すことで、逆効果になっている。
「黒神くんって、どんな顔してるんだろう?」
さよは気づかれないように、黒神くんの方を一瞬振り返った。長い髪が隙間なく顔を覆っている。明らかに教室の中で浮いてる存在だが、みんなそろそろ慣れてきた。
「気になる?」
結は意味有り気に、口元に笑みを浮かべていた。
「えっ、ううん。少しはね」
「顔見せてって頼んでみようか」
「駄目だよ、そんな事したら。隠すくらいだから、嫌なんじゃない」
「それもそうだね。それに行き成り顔見せて言っても、断られるのが落ちかも」
黒神くんはこの教室では置物だ。表情が分からないから、どう接していいのかみんな戸惑っている。形の分からない物を触るように、どうしても接しなくてはいけない時は必要最小限の事に抑えている。
「でも、どうして顔隠すんだろう?」
「見られたくないからじゃない」
「それはそうだけ。でもどうして見られたくないの?」
「さあ、分からない」
さやは答えの出ない問題に、小首を傾げた。
「それ黒神くんに聞いてみたら、どう?」
「どうって、そんな事聞けないよ。結が聞いてきてよ」
さやは不貞腐れたような顔をした。
「私? 私だって無理だよ。黒神くんとしゃべったことないもん」
結は顔の前で、素早く手を振って見せた。
「そうだよね」
二人が同じ事を言って、顔を見合わせると急に可笑しくなった。その時予鈴が鳴って、楽しかった休み時間の終わりを告げた。結は、じゃあねと手を上げて、自分の席に戻った。さやも手を振って、それに答えた。間もなくして教室に厳つい顔の数学の先生が入ってきて、教壇に立った。ただでもあがり症なさよは、一段と緊張した。先生は一度教室を見回すと、始めるぞと言って教科書を手に板書し始めた。カリカリと黒板に白墨を走らせる音が、耳障りに教室に響いた。さよはあまりこの音が好きでない。まるで自分が急かされているような気分になるからだ。案の定、先生から黒板の問題を解くように指名された。が、偶然にもその時指名されたのは、さよ一人ではなく黒神くんも一緒だった。
「佐藤と黒髪は前に出てきて、この問題を解きなさい」
黒神くんは前髪を垂らして、まるで幽霊のように黒板まで出ていった。後れを取った小夜は慌てて立ち上がった。机と机の間でつまずきそうになった。黒板の前にあっても、頭が真っ白だった。チョークを手にして震えが止まらなかった。そっと横を見ると、長い髪を顔に垂らした黒神くんが、すらすらと迷いのない姿勢で、黒板に解答を書いている。心地よいチョークを走らせる音が聞こえた。何も出来ないさよは堪らなく恥ずかしくなった。どうしよう。間違ってても何か書かないと焦った。すると気のせいだろうか、囁くような声が聞こえた。さやははっとして、思わず俯いた顔を上げた。小さな声は隣の方から聞こえてくる。何を言っているのだろうと、耳をそばだててみると、それは数式だった。さよは黒板の問題と見て比べた。それはさよが求めなければならない数式の答えだった。黒神くんが、さやだけに教えようと呟いていたのだ。さやはその天の恵みのような声を一つも聞き漏らさずに、黒板に書いた。書き上げると、いつの間に解答ができていた。
「よし、二人とも正解だ」
数学の先生が納得顔で、二人に声を掛けた。さよははっとして、横を見た。既に黒神くんの姿は無く、自分の席に着いていた。さよは助けてくれたことに、お礼を言うことも出来なかった。呆然と黒板の前で立っていると、数学の先生にもういいから席に着くようにと促された。さよは頬が熱くなって、恥ずかしいのを我慢して自分の席に戻った。折角黒神くんが答えを教えてくれたのに台無しだ。さよは逃げるように席に着いて、ほっと息を吐いた。黒神くんの方をちらりと盗み見た。黒髪を垂らして、どこを見ているのかも分からない。さやは諦めてすぐ前を向いた。それでも授業は分からない所まで進んでいた。さよは慌ててノートを取り始める。追い付こうと努力するも、なかなか先生はそれを許してくれない。黒板一面に数式が並ぶ。さよは片っ端からノートに写すしかなかった。頭の中は数式でぐちゃぐちゃだが、不思議と泣きたい気分にはならなかった。黒神くんがさっき助けてくれた嬉しい気持ちが、胸の奥で温かく燃えていた。さよは予鈴が鳴る前に、何とか黒板の数式を書き取った。
「それじゃあ、今日はここまで」
予鈴が鳴って先生は教科書を閉じると、そそくさと教室を出て行った。教室中の緊迫した空気が一息に緩んだ。さよは体を机にだらしなく伏せて、一時の休息を満喫しようとして止めた。立ち上がって、席の間を後ろの方へ歩いて行く。その先のは黒神くんの席があった。さよは心臓の鼓動を数えながら、ゆっくりと黒神くんの席に近づいていった。黒神くんは背筋を正しながらも、黒髪で完全に顔を隠している。とても話し掛けれる状態ではなかった。さよは急に引き戻されたように足を止めた。
「あのー、黒神くん。さっきはありがとう」
さよは精一杯の気持ちで、それだけ言った。黒神くんが髪の中で頷いたように見えた。
「でも、どうして助けてくれたの?」
さよは聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で話した。それも何とか絞り出した声だ。喉が詰まったように息苦しい。
「別に深い意味は無いよ。ただ困っていたからかな」
見た目からは想像できない心地よい声が聞こえてきて、さよははっとした。驚いたのを取り繕うように言った。それは小夜も気付いていないようなたどたどしい声だった。
「そう。でも助かった。数学の先生恐いから」
黒い髪がこくりと頷いた。でも顔が見えるほど髪はなびかなかった。
「黒神くんは頭いいね。あんな難しい問題すらすら解けちゃうんだから」
「そんな事ないよ。たまたま知ってる問題が出ただけだよ」
「そうでも、私の問題も同時に解いちゃうなんて凄いよ」
「そうかな」
声は照れてて、顔の表情が分からなくても何となく気持ちが伝わってきた。顔が見えないから必要以上に警戒してしまっていたのだ。
「それじゃあね」
さやは沈黙が訪れる前に、話を切り上げて席に戻ることにした。黒神くんはまた頷いて、おそらくさやを見送ったのだろう。さよは席に着くと、さっきの黒神くんとの会話を思い返した。困っていると気づいて、助けてくれたんだ。見た目はあれだけど、心根のいい男の子だと思った。爽やかな風が吹いたようないい気分だった。
「ねえ、どうしたの? にやけちゃって?」
結が席に戻るのと同時に話し掛けてきた。さやは緩んだ頬を手で伸ばした。にやけていたのだろうか、自分では気付かなかった。
「別に何でもないよ」
「何でもないって。さっき黒神くんと話していたでしょ」
「ああ、それがね。私、数学の時間に当てられたでしょ」
「うん、でもちゃんと答え書けたじゃない」
「ううん、それがね。黒神くんにそっと教えてもらったの」
さよは小さく手を振って否定した。
「そうだったの。さよにしたら随分簡単に問題解いたと思ってたんだ。そう言うことだったんだ」
結はポンと手のひらを打って納得した。それはそうだ。数学苦手なさよがあんなにすらすら正解を導けるはずがない。
「そうなの。だからお礼を言いに行ったの」
「それで何て言われたの?」
「うん、困ってたから助けてくれたんだって」
「黒神くんっていい奴じゃない。それに頭もいいし」
「ちょっと見直したな」
ちょっとどころではない。大いに見直した。さよは控えめに言った。
「それで、黒神くんの顔見れた?」
結の言葉は,さよも十分気になっていたことだ。
「ううん、残念ながらご尊顔は拝めなかったよ」
「ふふ、仏様じゃないんだからね」
結は小気味良く笑った。大きな目が三日月のように細くなって、誰にでも好かれる愛嬌のある笑顔になった。
「そうだけど」
さよはそんな笑顔作れない。ちょっと嫉妬してしまう。
「私も黒神くんと友達になろうかな」
「まだ友達になってない」
さよは鼻をつんとさせて、頬を膨らませた。ずるいよ結。結なら誰とでもすぐに友達になれるのに、黒神くんのこと取るなんて。
「うそうそ、そんな悲しそうな顔しないで。ちょっとさよをからかっただけ」
結はぺろりと舌を出した。
「もう。結ったら酷い」
「ごめんてば。でも本気で黒神くんと仲良くするつもり。クラスでも浮いてるし、あんな格好しているし、みんな避けてるみたいだから、ちょっと苦労するかもよ」
「そんな。仲良くするだなんて。今日初めて話しただけなのに」
さよはそっとして置いて欲しいことが、勝手に推し進められる予感がして、困ったことになったと思った。
「また話せばいいよ。ちゃんと相手してくれたんでしょ」
「今日は助けてくれた、お礼を言っただけ。今度話す時があっても、何話していいか分からないよ」
「そんなの何だっていいんだよ。好きはテレビ番組何だとか、趣味は何だとか」
「ええ、そんなの言えないよ。だって私の趣味、仏像だもの」
鏡のように二人の顔には、苦笑いが浮かんでいた。こんな渋すぎる趣味は、中学生にはないだろう。さよはふーと深い溜め息を吐いて、机の上に体を伏せた。何だか疲れがどっと出てきた。それと同時に、次の授業を知らせる予鈴が鳴った。休む時間も与えてもらえないとぼやいた。
「それじゃあね」
結はさよに手を振って、自分の席に戻っていった。さよはまた溜め息を吐いて体を起こした。すぐに先生が入ってきた。
昼休みになって、さよと結は二人して手を洗いに流し場へ行った。流し場は教室中の生徒があふれてきたように混雑していた。みんな先を急ぐように流し場に並んだ。結が弁当を持って小夜の席までやって来た。
「ああ、お腹ペコペコだよ。さよは?」
「うん、まあまあ空いているかな。朝お母さんに、しっかり食べさせられるからね」
さやは手提げ袋から弁当を取り出した。可愛らしい花柄の布巾に包まれている。それを机の上に結の弁当と並べた。さよは心に穴が空いたみたいに、さっきから何となく気になっていることがあって、教室の後ろの方を見た。
「どうしたの?」
結が椅子を持ってきて、さよの席の横に付けた。
「あっ、もしかして黒神くんのことが気になっているの?」
さよは慌てて否定した。図星だった。
「そんな事ないよ。ただちょっとだけ」
「ふん、黒髪くんは何食べるのかな」
見ると、黒髪くんの机にはあんパンと牛乳しか置かれていない。ちょっと侘しい。
「何だか可哀想な昼ご飯ね。弁当作ってもらえないのかな」
結は気づかれないように、さりげなく黒神くんの方に探るような目を向けた。さよも結を追い掛けるように盗み見した。
「そうだね。男の子なんだし、あれだけで足りるのかな?」
「それもそうだね。それに比べたら、吉岡くんの弁当見た? 運動会かよってくらい大きいの」
「育ち盛りだから、お腹が減るんだよ」
「それにしても大きな弁当ね。私たちの弁当の何倍あるじゃない」
「二人の弁当合わせても絶対に足りないよ」
さよは布巾を解いて、小さな弁当箱を取り出した。やがて今日の当番が前に出て、昼食の号令を言った。教室のみんなも、頂きますと手を合わせた。
さよはまだ黒神くんのことが気になっていた。弁当を食べながらも、頭は黒神くんのことを考えていた。さよの好物のから揚げだったが、正直頭の中は黒神くんのことで一杯で味は分からなかった。
「さよどうしたの? ぼーとしちゃって」
「ええっ、ゴメン。何だっけ」
さよは結の言葉も聞き逃し勝ちだった。結は拗ねたように溜め息を漏らした。黒神くんは、とっくに食べ終わって席でぼんやりしていた。顔が見えないから、居眠りしてても分からない。さよは結に急かされながら、急いで弁当を食べた。普段から食べるのは遅かったから、急いでいてもあまり変わらなかった。結局、さよが弁当を食べ終わったのは、最後の方だった。
「昼休み何する?」
自分の席に椅子を戻してきた結が、遅れた時間を取り戻すようにさよを急かせた。さよは空になった弁当箱を布巾に包みながら、結を見上げた。
「そうだね。もう図書室行ってる時間も無いか」
さよは教室を見渡す振りをして、一瞬黒神くんを視界に入れた。黒神くんは後ろの席で黙って座っている。
「さよがぐつぐつしているからだよ」
「ごめんごめん、謝るから怒らないで」
さよは弁当箱を手提げ袋にしまって、両手を合わせて謝った。結はつんと鼻をさせて唇を尖らせたが、すぐに笑顔に戻った。
「次の授業美術だから、早めに美術室に行ってみない?」
結が教室の時計を確かめた。
「うん、分かった。そうしよう。美術室って色んな物があるから、ちょっと見てみよう」
「そうと決まったら、すぐに行こう。早く早く」
「結、そんなに急かさないで」
放課後、さよは部活の結と別れて、校門の方に向かっていた。すると、校庭の花壇の側で見慣れた男の子の姿を見つけた。顔を髪で覆っている黒神くんだった。さよは少し躊躇ったが、思い切って話し掛けてみることにした。穏やかな風が、さよの背中を押して勇気を与えてくれたように思えた。
「黒神くん、何してたの?」
「ああ、花壇の花がね。折られていたから見ていたんだよ」
黒神くんは振り返って、さよの方をおそらく見た。長い黒髪がなびいても、黒神くんの顔は見えなかった。考え過ぎだろうか。折られた花のことを気にするなんて、何て心の優しい人だろうと、さよは感心した。
「誰が折ったんだろ?」
それは誰かが踏み付けたように、チューリップの花が茎ごと折られていた。ちょっと目を背けたくなる光景だった。
「さあ、分からないけど。あまり花が好きでない子がいたんだろ」
黒神くんは、何とか折れていないチューリップを起こしてやった。それでも花壇は滅茶苦茶になっていた。
「もう行こう。こんな所、先生に見られたらぼくたちのせいにされてしまう」
黒神くんは立ち上がって手を払うと、鞄を持って颯爽と校門の方に歩き出した。さよは仕方なく黒神くんの後を追い掛けた。
「先生に言わなくていいのかな?」
「言っても無駄だと思うよ。どうせぼくたちのせいにされるのが落ちだ」
黒神くんは少し怒っているような言い方をして、髪の毛が逆立つように歩いた。
「そうかもしれないけど」
さよは速く歩く黒神くんの後に付いて行くので、精一杯だった。でも、何であとを付いて行ってるんだと疑問を抱いた。一緒に帰るつもりは無かったのだけど、別に鬼ごっこをしているつもりはない。付いていく必要も無かった。が、何か後ろめたい気持ちが独りになるのを怯えさせた。
校門をすぎると、黒神くんはまるでさよを気遣っているようにゆっくりと歩いた。二人はいつの間にか並んで歩いていた。
「ねえ、黒神くんは部活とか入ってないの?」
さよは二人の間の沈黙が居心地が悪くて、意味の無いことを聞いた。この時間に帰れるのは、部活に入ってない生徒と決まっていた。
「うん、佐藤さんが入ってないのと同じで、ぼくも入ってないよ」
「そう。このまま真っ直ぐ家に帰るの?」
さよは言ってしまって、また当たり前のことを聞いたと思った。何だか考えがぎこちなくなって、そんな事しか頭に浮かんでこなかった。
「どうしようかな。実はね。いつも寄り道する所があるんだ。佐藤さんも付いてくる?」
さよは黒神くんの思いも寄らない誘いに、心動かされた。付いていくなら、どこまでも付いていきたいと思った。
「でもあまり遅くなったらいけないから、どこに行くの?」
「すぐ近くだよ」
黒神くんは付いて来いとばかりに、歩調を早めた。さよも汗ばむほどに、懸命に後を追い掛けた。黒神くんの髪が揺れる。さらさらして、まるで洗い立てのようだ。黒神くんは通学路から横道に入った。迷路のように道が塀で挟まれている。さよは来たことのない道を探検するにみたいで、不安と期待とで心が踊った。
「黒神くん、どこまで行くの?」
「もう少しだよ」
黒神くんは、だらだらと伸びた細い道の先を指差した。その先には古びた階段が急な傾斜を作っていた。
「ここ上るの?」
さよは石の朽ちた階段に少し足がすくんだ。
「大丈夫、すぐだから」
黒神くんがさよを安心させるように、その黒髪の下で笑ったように見えた。上ってみると、階段は思っていた以上にしっかりとしていた。きつい勾配に、さよは段々と息が上がってきた。さよと黒神くんの間隔が開いてきた。黒神くんは振り返って、大丈夫とまた声を掛けてきた。振り返っても髪が顔を覆っていたから、妙な気分だった。
「うん、何とかね。でもこの階段きつくて。日頃の運動不足が祟ったよ」
「もうすぐだから、ほら上が見えてきた」
黒神くんはさよの歩調に合わせて、ゆっくり上り始めた。上まであと少しだ。
「本当だ」
さよは、ほっとした。これなら何とか上り切ることができる。階段を上り切ると、神社が見えた。誰も気づかないような小さな社だった。黒神くんは社の前へ行ってお賽銭を入れると、手を合わせて拝んだ。さよも黒神くんに倣って手を合わせた。心が澄んだような気持ちになった。目を開けると、黒神くんの姿が見えなくて焦って探した。黒神くんは、すぐ後ろにいた。さよは、安心した。
「黒神くん、よくここに来るの?」
「うん、まあね」
「信心深いんだ」
「そう言うわけじゃないけど。佐藤さんは?」
「信仰に厚いってことはないけど。でも仏像は好きだよ」
さよは控え目に言って、仏像好きと打ち明けたことが恥ずかしいと思った。黒神くんはそんな事気にする様子も無かった。
「この社にも、仏像が収められているけど。随分汚れているね」
「きっと古い仏像なんだよ。でも優しい顔をしている」
「そうだね。だからぼくは、よくここに来てお参りをするんだ。何か願いが叶いそうな気がしてね」
黒神くんは穏やかな声をしていた。顔は見えないけど、心の優しい人だとさよは感じた。
「わー、すごい。ここから見る景色は、いい眺めだね」
さよは小さくなった町の景色を目の当たりにして、感嘆の声を上げた。
「どう気に入ってくれた? この眺めを見せたかったんだ」
「うん、私こんな素敵な所があるなんて、初めて知ったよ」
二人はしばらく感激しながら、町の景色を眺めていた。そうしているうちに、時間はあっと言う間に過ぎた。そろそろ帰らないと言い出したのは、黒神くんの方だった。
「ほんとだ。もうこんな時間」
さよはスマホで時間を確認した。六時半を過ぎていた。辺りは薄暗くなり掛けて、夜を迎えようとしていた。
「大変、急いで帰らないと」
「うん。それじゃあ、途中まで送るよ」
さよは素直にありがとうと言って、黒神くんの後を付いていった。帰る途中、何を話していいか分からなくなって、無言になる時があった。それでも苦ではなかった。不思議と温かい気分になった。家の近くに来て、別れを言った。
「それじゃあ、また明日黒神くん。今日はありがとう」
「うん。バイバイ、佐藤さん」
さよは今日は、宝物を見つけたようないい気分になった。そうしてまた明日が来て、黒神くんに会えるのが楽しみになった。そして神社でお参りした時の願いが叶えられればいいと思った。さよは黒神くんの顔が見ることが出来ますようにと願ったのだった。
黒神くんのご尊顔を拝ませて つばきとよたろう @tubaki10
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