空に還る

 ひび割れたシェルターの瓦礫を踏み越えて、更紗を背負った僕は奥へと向かう。

 頭を振って吐き気と眩暈を押し殺し、流れ込む濃い外気に肺を絞られるように苦しくなりながら、それでも足は止めなかった。


 やがて辿り着いた絶景に、僕は言葉を失った。

 足元に広がる大水鏡。霧がかったそこに映っていたのは、更紗が恋焦がれて止まなかった青い空だった。

 いつか二人で見上げた青空の大壁画。その膝元には腰まで浸かるほどの大きな水溜まりができ、静かな水面に壁画が映り込んでいた。

「こんな、どうして」

 夢でも見ているような景色に慌てて天井を仰ぐと、不落と思われていた鋼鉄の壁に大穴が空き、外から光が差していた。ここから雨漏りでもしたようだ。白く有毒な霞の先に薄ぼんやりと日の気配を感じる。

 水底を見れば、一機のミサイルが突き刺さっている。皮肉にも僕らを脅かしていた兵器がシェルターを穿ち、息を呑む光景を作り出していた。

「……更紗」

 呆然と目を奪われながら、僕は背中の彼女を呼ぶ。

「ねえ更紗、見て」

 返事はなかった。肩にしなだれかかった少女の瞳は、長い黒髪越しに力なく濁っていた。けれど微かな鼓動が背中越しに伝わる。

 生きている間、僕に眩しいほどの笑顔を向けてくれた更紗。望みを捨てずに青空を切望し続けた更紗。世界で唯一僕の、生きる希望でいてくれた更紗。何も僕は、返せなかったけれど。

 願いを抱いたままの君に、最後まで人間らしくあってほしいから。

 僕は嗚咽を噛み殺して、崩れ落ちそうな膝に力を込める。

「……僕も、すぐに行くから」

 煙を孕んだ水晶のような彼女の瞳に呟いて、深い水底に一歩踏み出した。

 ――ねえ、私を空へ連れていってよ、開生

 望み通り、この世で最も美しい水景に、更紗の身体をゆっくりと沈める。少しだけ肺を引き絞るようにあぶくが浮かんだ。

 両手を広げ雄大な空を慈しむように抱き、迎え入れた彼女は――深く青い水底に、目指した雲の向こうに――苦界から解き放たれた世界へ旅立っていった。


 抜けるような青空へ還った君を追って、僕もその身を投げ出した。

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ストレイシープ・エスケープ 月見 夕 @tsukimi0518

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