惑う僕ら
外は一面灰が降り注ぎ、空は化学兵器によるものか分厚い煙か雲か分からない何かに覆われモノクロの世界だったと、一昨日死んだ男が言っていた。
彼は長期化するシェルター生活に耐えきれず、どうしても外に出たいと喚き、仕方なく放逐されたうちのひとりだった。
同じように出て行った人間は全部で五人だった。が、戻ってきたのは彼だけだった。残りの四人はここに帰ってくるまでに無人機の銃弾の餌食になり、何らかの化学物質を吸い込み、高濃度の放射能に全身を冒され……とにかくここに辿り着くことができたのはひとりだけだった。詳細は分からない。聞く前に彼の容体が急変したからだ。
男は白い顔でそこらに吐き散らし、痙攣し、最期まで苦しみ抜いて死んだ。それが残る者の恐怖を煽ったし、自分達に逃げ場などないのだと自覚させられヒステリーに拍車をかける者もいた。
「……行こ、開生」
ダストシューターに押し込められる男の遺骸から目を背けるように、更紗は僕の手を引いて共用スペースを後にした。
前を歩く更紗は振り向かないで歩みを進めていた。それが聞き分けがなく意固地になった子供のようで、僕は口を真一文字に結んでそっと溜息を吐いた。
物言わぬ骸となった男を見て、彼女は何も思わなかったのだろうか。
「更紗、君は」
怖くないの、と言葉が出かかって、やめた。僕の手を引く彼女の手は、小さく震えていた。
怖くないわけがない。だって僕らは同じ十六歳の子供なんだから。
僕の言葉なんて聞いていないかのように、更紗は真っ直ぐ壁画の部屋を目指していた。非常灯の消え失せた廊下が、僕らの先に暗澹と続いている。
「開生、空を見に行こう」
「……もうやめろよ」
彼女の手を振り払う。拒絶の言葉は少しだけ迷いを抱えていた。もう嘘を吐いてほしくなかった。僕にも、更紗自身の心にも。振り返った彼女はどうして、と表情を曇らせる。
ごめん、もう僕は黙って君について行けない。これまで胸の内に留めてきた拭いきれない不安を、不快感を、堰を切ったように口にする。
「あれは本物の空じゃない。外になんて出られない。……虚しくなるだけだろ」
「そんなの――」
何か反論しかけた更紗の言葉を、凄まじい轟音と振動が遮った。
続いて鳴ったけたたましい警報は僕らの耳を
『重大……損傷を確認しま……た。当……ルターを放棄……、退避し……さい。繰り返――』
途切れ途切れの緊急放送が、最悪の事態を決定づけた。とうとうここが標的になったようだ。度重なる攻撃で地中に隠れていたシェルターが地上に顔を出し、直接攻撃にでも遭ったのか。
有害物質に侵された世界でただここだけが僕らの安住の地だったのに。退避できる場所などないのに。
乾いた喉が悲鳴を上げないように呑み込んで、僕は更紗の手を引いて駆け出した。
慌てて共用スペースに戻った僕らが見たのは、混沌とした大人たちの姿だった。
「何だ今のは……まさか」
「直撃したのか!? 壁は、シェルターの壁は無事なのか!?」
「ねえ、こうしてる間にも無人機が入ってきてるんじゃないの!?」
「誰か見に行きなさいよ!」
「うるせえ! 俺は死にたくねえんだ、お前が行け!」
「誰もあんたが死んだって困らねえよ!」
阿鼻叫喚の様だった。醜悪だとも思った。パニックになり掴み合いに発展した大人たちの目は思う様に震え、歪んでいた。
僕はそれを遠目に見ながら、ああ道徳の授業で習った助け合いだとか協力だとか性善説だとかは全部夢想なんだな、とぼんやり考えた。緊急事態や喧騒とは裏腹に、腹の底がすっと冷めていく。
「待って……やめて」
よせばいいのに、更紗は止めようもない彼らの怒声の、その合間に割って入るように飛び出した。
「触んなクソガキ!」
「きゃ」
掴み合っていた片方の男の肘が更紗の顔に当たり、彼女は成す術なく膝を折った。押さえた鼻からぽたぽたと血が滴って、僕はその背に駆け寄って男を睨む。
故意ではなかったのか、彼は一瞬やってしまった、という顔をしてバツが悪そうにそっぽを向いた。途端に我に返ったのか、その場は静まり返った。
「最初の核ミサイルが飛んだ時に、私達はもう死んだのよ……どこに逃げたって争ったって、それは変わらないじゃない……」
中年の女性がそう泣き崩れるのを、僕らは黙って聞いているしかなかった。
あの時女性が言っていたことは概ね間違いなかった。
どうあがいても既に死んでいる僕らの、ロスタイムのカウントが「0:00」になっただけ。それを決定づけるように避難民はひとり、またひとりと倒れ、動かなくなっていった。
奥の部屋にミサイルが直撃し外壁が破壊されていたと、恐る恐る確かめに行った大人が言っていた。彼ももう、ダストシューターの奥に消えて行ってしまったけれど。
外から流れ込んできた有害物質は壁の穴を塞ぐ間もなくシェルター中に蔓延し、生き残っている人間に甚大な影響を及ぼした。空調設備も故障し、成す術のなくなった僕たちは清潔な空気と安全な場所を求めてシェルター内を逃げ惑った。けれどそんなものどこにもなかった。
せめて僕らにできることは、極限状態で精神をやって疑心暗鬼になった避難民に巻き込まれないよう、お互いに距離を取ることだった。
その夜、非常食を食べ終えた僕と更紗は、根城にしている食糧庫で各々の毛布に潜り込んだ。飲料水や食糧だけでなく、掃除用品や日用品のような生活雑貨が雑多に転がる部屋は決して快適とは言えなかったが、人の多い共用スペースから距離を取るには仕方のないことだった。
更紗はこのところ、ぼんやりとした表情を浮かべることが多くなった。咳き込むことが増え、食欲が失せ、健康的だった頬は病的に白い。
例外なく僕らの身体にも目に見えない外の物質が作用しているのだろう。鏡合わせのように、僕もそんな顔をしていたから。
「……ちょっと外、歩いてくる」
眠れないのか、立ち上がる更紗。僕も行こうかと提案しようとしたが、やめた。彼女だってひとりになりたい時もあるのかもしれない。僕は黙ってその背を見送った。
小さな悲鳴が部屋の外でしたのはそれから30分ほど経ってからだった。
毛布の中で微睡みかけていた僕は嫌な予感がして飛び起き、部屋の隅に立てかけられていたバールを掴んで廊下へ飛び出した。
それを見て最初に思ったことは「醜悪」だった。
異常なまでに息を切らした男がこちらに背を向け、何かに馬乗りになっている。見慣れた細い足が2本、その下でじたばたと藻掻いて抗っていた。
それがどういう行為なのかを頭が完全に理解するより前に、彼らに猛然と駆け寄り――更紗のはだけた上衣に男の腕が滑り込むところで――僕は両手のバールを力いっぱい振り下ろした。
固いような重いような感触は、中身が詰まったスイカみたいだった。裂けた後頭部から赤い血潮を散らして、彼はあっけなく崩れ落ちた。
呆然としている彼女をその下から引っ張り出す。
「か、いせい」
生温かい血飛沫を被った僕に、更紗は取り縋る。自分が何をされようとしていたのか、おぞましい手触りを思い出したのか彼女は一点を見つめて音もなく涙を流し、そして足元に転がるできたばかりの死体に震えていた。
人を殺したというのに、僕の胸の奥に大きな感慨は湧かなかった。どうせ既に死んでいたんだ。そして僕を裁く人も法も、この世界には残っていない。
優しい更紗は、不可抗力とはいえ他人の死に関わってしまった自分に後悔しているだろうか。それともこんなクズ男の命を奪ってしまったことに悔恨の念を抱いているだろうか。
良心も感情も死んで、後は肉体だけが生き永らえている僕に、それでも彼女は身体を震わせながら僕の背中をそっと撫でる。
「ごめ、んね……怖かったね……開生に、こんなこと」
それは子供を安心させる母親のような手つきだった。掌の温かさに、僕ははっとする。
怖い思いをしたのは彼女の方だろうに、どうして僕の心配なんてできるんだろう。
どうして、僕に人間らしさを失わせてくれないんだろう。
目の奥に滲む何かを留めるように固く瞑り、僕は血に塗れた手で彼女の背を抱いた。
◆
残酷な年功序列を尊ぶが如く体力のない年寄りから順に死んでいく。彼らはいつか外に出て帰ってきた男たちと同じような末路を辿った。シェルターで一番若かった僕らが死出の旅路の最後尾のようだった。
何度目か共有スペースの柱の陰に吐き、よろけながら立ち上がる。食物はとても受け付けなかった。内臓が鉛のように重い。足を引き摺り歩く僕を、もう更紗は「大丈夫?」と聞いては来なかった。
横になって細い呼吸を繰り返し、彼女は虚空を見つめている。服から伸びた手足は痩せ細り、時折うわごとを言う以外には静かだった。それを見て悲しいだとか辛いだとかといった感慨はもうとうになくなっていた。ようやく僕らにも順番が回ってきたのだ。
更紗は僕を呼ぶように呻いた。重怠い身体をそちらへ向け、僕はしゃがんで耳を澄ませた。そうでないと、彼女の言葉が空気に溶けて聞き逃してしまいそうだった。
「ねえ、わたしをそらへつれていって」
泣き笑いしたような顔でそう言った。その願いの意味が「殺して」なのか、「ここじゃないどこかに連れ出して」なのか、僕には分からない。分からなくていい。
望みを持って死に際を藻掻く姿は、誰より人間らしい。
「……分かった」
叶えられる願いだけ受け取るふりをして、僕は力を振り絞って彼女を背に負った。ごめん更紗、僕は嘘吐きで人殺しだ。でも君だけは安らかに、望みを抱いて旅立ってほしい。
痩せた身体は悲しいくらい軽かった。
「空へ還ろう、更紗」
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