ストレイシープ・エスケープ

月見 夕

空の在処

 壁が崩れたシェルターの奥、瓦礫を丁寧にひとつずつ抱えて退かした先に、それはあった。

「見て、開生かいせい

 僕の手を引く更紗さらさは、広がる光景に目を輝かせる。先月ここで十六歳になったばかりの彼女は長い黒髪が埃に塗れるのも構わず、年の割より幼い笑みを僕に向けた。

「空だ。懐かしいね」

 暗がりに目を凝らすと青い大壁画が、集いの場であったであろう広場の壁に広がっていた。

 壁に直接描かれていたのは抜けるような青空だった。陽光を仰ぐ視点で切り取られたそれは、見る者に希望を与えるように輝きに満ちている。太陽を背に巻く薄い雲の遠い向こうに、名前も知らない一羽の鳥が羽を広げていた。

 どうしてこんな場所に、こんな絵が。長期避難者のための心のオアシスにでもしたかったのだろうか。今となってはもはやこの世とは思えない景色だ。僕は暗澹たる気持ちで目を伏せる。

「……もう無くなってしまった風景だ」

 かもしれない、と彼女は呟いた。けれど、

「ここに来ればいつも晴れ。そうでしょ?」

 覆しようもない笑顔で、幼馴染の僕を見る。

 そんな目で見ないでくれ。君の瞳に宿る希望は、僕には眩しい。

「……そうかもね」

 口先だけで肯定し、僕は音もなく漂う塵に視線を預けた。



 ◆



 始めはいつもの大国同士の小競り合いだと思っていた。

 どこかの国でやっていた代理戦争の規模が大きくなってきて、アメリカもロシアも懸念だの遺憾だのと罵り合ってる様子が毎日ニュースの話題になっていたからだ。

 そのすぐ後に最近流行の音楽なんかのバラエティーに富んだ話題がテレビ画面を占めていたから、核戦争だの第三次世界大戦だの、どうせ年老いた専門家の杞憂だと思っていた。


 最初に核ミサイルのスイッチを押したのがどちらだったのかはもう分からない。その数秒後にはもう片方の国が反撃に打って出て、一昼夜を待たずに地上という地上は火の海になった。

 それが手違いだったとか尚早だったとか、後世に語れるほどの人間は残らなかった。

 彼らの放った青い光は轟音もキノコ雲も貫いて、この世界を灰色の塵芥に

 そう、「還した」。元は皆どうせ土くれだったのだ。

 人類の営みなど地球という星のその茫漠たる時の流れの、ほんの些細な一時期にすぎない。いつか我が物顔で大地を闊歩していた恐竜たちがひとつ残らず消えてしまったように、僕らもきっとこうなる運命だったのだろう。

 争いの原因となった張本人たちは即刻この世から消えた。

 そうじゃない人々も、降り注ぐ灰色の雨と有害な毒の霧にそそがれるようにひとり、またひとりと地に伏せった。

 ひと月も経った頃には、僕らの観測範囲で動く人間は運良く地下シェルターに逃げ込んだ僕と更紗を含む十数人だけになった。


 外界から安全に隔離されたように見えるこの地下空間にも、確実に終わりは近付いている。

 国民宿舎のように行き届いた施設となっていて、食料、水、空気は十分すぎるほどあった。ここは元々数百人を匿える大シェルターなのだと一緒に逃げ込んだ大人たちが言っていたし、少ない資源を巡って争うことはなかった。

 問題は外からの攻撃だ。

 主をなくした無人機と照準を見失った核兵器の残りが、半ば自動的に、しかし組み込まれた命令には忠実に地上を蹂躙し尽くしているようだった。時折響く爆撃音と振動が、昼夜を問わず壁や床を伝って僕らを震えさせる。いつここが破壊されるとも限らない。

 入った時は山の斜面にあったこのシェルターも、今は隠れ蓑の山肌を失い地上に露出しているのかもしれない。一歩も外に出られない僕らには確かめようはないけれど。

 それでも機械たちは無色の殺意をそこらに向けている。もう戦う意思のある人間などどこにもいないのに。

 あまりにも愚直だ。しかし僕らは止める術を持たない。


 等しく土に還る、その最後のひと時に、しかし少女は抗うように小さく唇を尖らせた。

「ねえ退屈。開生、今日はどこへ行こう?」

 行くったってどこに。蟻の巣の如く広大な密室シェルターに、出口なんてない。

 眉根を寄せた僕の疑念をさらうように、彼女は笑った。

「探検しようって言ってんの。どうせ行き場なんてないんだからさ、終末旅行だよ」

 散歩に行くような気軽さで僕を誘う。

 まだ小さい頃、更紗に山奥の秘密基地を紹介された時のことを思い出した。

 正直、場違いな提案だとは思った。しかし僕の神経も擦り切れそうで限界だった。

 いつまでこんな生活が続くのか、誰か助けは来るのかなんてヒステリーを起こし、目には見えない何かに祈り始めた人々と同じ場にいたくなかった僕は、幼き日の探検隊の続きのように、その背を追った。





 更紗の赴く先にはいつも発見があった。

「ねえ見て開生、モニター室だ。これで外の様子が見れたのかな」

「壊れてるけどね」

「絵本置いてあるところ見つけちゃった」

「避難民に小さい子はいないけど」

「新しい食糧庫だ! アイスは……ないな。残念……」

「それは残念……」

 蟻の巣のように広がるシェルターの隅々を探検し、表情をくるくると変える彼女は見ていて飽きなかった。というか、それが唯一この閉鎖空間に残された普通の感覚、人間らしい感情のように思えてならなかった。更紗の能天気な振る舞いに眉を顰める大人もいたけれど、多分僕が発狂せずにいられるのは彼女のお陰だった。


 でもひとつだけ許せないことがあった。

「これだけ広いんだから、絶対どこかにあると思うの」

 更紗はシェルターの外に広がる空を諦めていなかった。どこかに澄んだ空を拝むことが出来る窓でもないかと探し歩いていた。外の情報に飢えている、と言ってもいい。

 核と灰に汚れ兵器に支配され、生身の人間が生きていけなくなった地上への憧れを捨てない彼女とは、どうやっても相容れなかった。

 憧れたところで、もう元の日常は戻らないのに。

 それでも黙ってついて行っていたのは、どうせ見つからないと高を括っていたからだ。だってそうだろう。核戦争が起こった時のためのシェルターを用意するほど準備と警戒に余念のなかった先人たちが、気分転換のための窓なんて拵えているはずがない。


 しかしそんな中見つけたのが、あの壁画だった。

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