ビーフシチュー
伊野尾ちもず
ビーフシチュー
「Qちゃん……悪いんだけどもう一度言ってくれないかな」
「だーかーらー、ビーフシチュー作ったから味見してくれない?ってさっきも言ったよ?」
膨れっ面をするQちゃんはティースプーンを振り回し、キッチンの壁にすっ飛ばす。
ぼくはと言えば、あまりの衝撃に空いた口が塞がらずにいた。今のQちゃんがトースト以上の料理をするなんて明日は土砂降りにでもなるのか?
人って驚くと本当に口が開きっぱなしになるんだなとか頓珍漢なことを考えつつ、慎重に頷く。
にこりと雲間の日差しのように破顔ったQちゃんはすぐさま戸棚からカレー皿を取り出した。
「りんごとハチ〜ミツ、とろ〜り溶けぇてる〜」と歌いながら意気揚々と持ってこられた皿には、意外なほど普通のビーフシチューが盛られていた。
「自信作だよ!召し上がれ!」
濃いブラウンのルー、一口大に切られた人参、しんなりした細い玉ねぎ。香りもごく普通。
「いただきます……」
拒否する理由が見つからなかったぼくは玉ねぎよりしんなりした声でつぶやいた。
Qちゃんは普段、お湯を沸かすのとパンをトーストする以外何もやらない。それがいきなり煮込み料理、しかも難易度高めのビーフシチューを作ったんだから、裏を気にするのは当たり前だろう。
チラッとQちゃんの顔を盗み見ると、好評を期待する目の輝き方をしている。何を聞いても「とにかく食べてみて!」と言い張るだけの顔だ。
スプーンひとすくいを思い切って口に含む。
「……どう?」
ティースプーンを手で弄びながら聞くQちゃんに、ぼくは即答した。
「美味しい」
「そう!?」
「今まで食べた中でもトップクラス」
こんなに美味しいビーフシチューなんて生まれて初めてかもしれない。お世辞じゃなく、本当に。もう少し、もう少し、と手が止まらない。疑ってかかった自分を寸胴鍋で煮溶かしたいくらいだ。
「Qちゃん、今まで料理の腕、隠してたの?」
「う〜ん?なんかね、料理の記憶がポンってインストールされた〜みたいな?」
「前世の記憶みたいなもの?」
「そうかもねぇ」
穏やかな顔でぼかして言うQちゃんだが、ぼくの顔はきっと色を失っていたと思う。
ビーフシチューは前のQちゃんが唯一きちんと作れる料理だった。今のQちゃんは今まで料理を全くして来なかったこと、料理を前世の記憶のように思い出したこと、自信を持ってぼくに勧めたこと。これらが全て真実であれば、記憶の逆行が起きたことになってしまう。
彼女が受けた精神処置は外科的で不可逆なものだったはずなのに、だ。
でも、もし。記憶が戻る事があるなら?カップ焼きそばを前に青のりとスパイスを聞いたのが偶然ではなかったら?
── 長く一緒にいてくれたら、また表に出てこられるかもしれないね。
お互い微塵も信じていなかった奇跡を、期待してしまいそうだった。
不思議なくらい喉越しの良い美味しいビーフシチューを夢中でかきこみながら思う。
例えば、Qちゃんの記憶が戻るなんて奇跡が起きたとして。それはQちゃんの幸せになるんだろうか。もし昔のQちゃんの経験した記憶が戻ってしまえば、また同じように複数の人格に頼るようになるのだろうか。Qちゃん自身のなりたかった姿が今の姿であれば……昔を懐かしむぼくのエゴでしかない奇跡だ。誰も幸せにならない悪夢。それをまだ願うなんて最低だな。
「うわぁ〜!」とQちゃんのあげた歓声に我に帰った。
「凄いね、結構大盛りにしたのにKくんてば、ぺろっと食べちゃった!」
満面の笑みを浮かべるQちゃんを見ると、底に沈殿していく疑念がふわりと巻き上がって軽く思えてくる。不思議な事だけど、彼女から離れられないのはそれも理由かもしれない。
「あんまりにも美味しくて、ついね。こんなに喉越しの良いシチューってあるんだね」
「そうでしょ、そうでしょ!」
「なんたって材料は」と言いかけたQちゃんはいきなり口元を押さえて明後日の方向に視線をずらした。
「待って、Qちゃん。この材料どこで買ったの?」
「そ……その辺のスーパーだよ?」
平静に答えようとしているが、Qちゃんの視線は鍋の中の野菜並みに泳いでいる。
その表情から、ぼくは悪い予感が8割くらい既に当たっている事を確信した。
「キッチン、確認させてもらって良い?」
「あんまり……Kくんと言えど入ってほしくないんだよなぁ……ほら、自分ちのキッチンって触られたくないって言うし……」
この期に及んで歯切れ悪く言い訳をしながら、キッチンへ行く通路を塞ぐQちゃん。
「大丈夫だよ。普段から使ってるし、物の場所は変えないから。ちょっと屑籠を見せて欲しいだけ」
ね?と微笑んで見せると、観念したようにQちゃんは項垂れながら道を開けた。
屑籠の中には野菜の大きな切れっ端がたくさん入っていた。牛肉缶詰の空き缶も転がっている。それも、ビーフシチューを寸胴鍋で大量に作らなければ出ないほどの。でも、出ている鍋は片手鍋。冷蔵庫の中にも作り置きはないし、誰かにお裾分けした痕跡もない。
つまり、失敗作が幾つもあったということになる。
それから屑籠に積まれた切れっ端の匂いを嗅いでみる。経過した時間分があっても、透き通るような瑞々しい香りがした。間違っても、薄っすら下水の臭いがする事はない。
普段ぼくらの食卓に上がる野菜は、何度も使用されて濾過されても臭いが残った水で水耕栽培されたもの。どうしても野菜に臭いは移るし、喉に引っかかる感じがする。対してシェルターで一番高級な野菜にその臭いはない。地球の培養土と飲料水で生産された野菜は、本来の透明感のある香りだけがして、喉越しも良いのだ。
「Qちゃん。頑張って料理しようと思い立ったのは褒める。凄いよ」
屑籠の前でしゃがんだまま、Qちゃんを見上げる仕方で言葉を紡ぐ。
「だけどね、練習に高級食材を使う事無いと思うんだ」
この量の高級野菜なら、ぼくの食費換算で3ヶ月分くらいだろう。嫌な予感で頭が痛い。
「正直に言って。Qちゃん。今日ぼくを呼んだ本当の理由」
「Kくんにはお世話になりっぱなしだし、Qちゃんが作ったら喜んでくれるかな〜なんて?」
微笑んでいるのにQちゃんの視線は揺れて揺れてぼくを直視しようとしない。かなり後ろめたい事があるのだと推察できてしまう。
「それは嬉しいよ。ありがとう。本当に美味しかったからね。それで?」
少し迷った後、Qちゃんは思いきりよく頭を下げた。
「お財布すっからかんなのでお金ください」
「それは無理だよ」
予想通りのお願いに無感情な声で即答する。
泣き出しそうなQちゃんの表情。うるんだ彼女の目に見つめられても、流されてはいけない。恋人でもごっこでも、お金の遺恨を残すのは駄目だ。
だから、代わりにこう提案する。
「食べ物とシャワーならあげるよ。何も返さなくて良いから」
「そぉは言うけどぉ……ちゃんと返すからぁ」
「給料日まで後3日でしょ」
ため息混じりに返すと、Qちゃんは難しい顔をして、頭を人差し指で挟むと考え始めた。ぶつぶつと判然としない小声を呟く。
食べ終わった皿が乾き切る頃、Qちゃんはついに目を開けた。
「わかった!Kくんご馳走になるね!」
くしゃっとなるほどの笑みを浮かべるQちゃんに「そこは『よろしくお願いします』じゃないの?」と呆れて返すが、無邪気な笑みに口元はつい緩んでしまう。
「食パン買ってくるから、少し待ってて」と残してQちゃん宅を出たぼくは悲しさと嬉しさに挟まれていた。前のQちゃんは食材の値段を間違うなんて平凡なミスをする人ではなかったし、失敗は徹底的に証拠隠滅する人だった。他人を振り回して平然としている人だったけど、自分が損をかぶる気はなかったから。
あまりに違う。さっきのQちゃんは失敗を隠しきれてないし、自分でリカバリする気もあまりなさそうだ。
やはり、昔の記憶が戻ったかのような素振りは偶然の言い訳だったのだろう。
でも、もしビーフシチューを選んだのが無意識下に残った前のQちゃんの意思だったら。それなら前のQちゃんだって言えるのか──?
駄目だ。昔を懐かしんでる場合じゃ無い。その考えじゃあ、今のQちゃんを受け止められない宙ぶらりんな気持ちから進めない。
今のQちゃんを好きになろう。前のQちゃんの願いを叶えたいなら。本当になりたかった姿を手に入れられた今のQちゃんを本気で、愛さなくちゃ。
そうだ、さっきだってQちゃんの屈託無い笑顔がかわいいと思えたじゃないか。あの顔を見ると疑念すら軽く思えたじゃないか。以前と比べつつも、良いと思えているじゃないか。
大丈夫、大丈夫。前に進めてるよ、ぼくは。
思考がまとまった途端、周囲の音が匂いが光が情報として脳に流れ込んできた。衝撃で一瞬、立ち止まる。目の前にはキオスク型売店。棚には食パンが3種類ほど。そして店主の怪訝そうな顔と横でパンに手を伸ばしている人。
「す、すいません!」
慌てて真ん中にあった食パンをつかんで会計してもらったぼくは、少し重い足で元来た道を帰る事になった。
シェルター内の明かりは、夕方らしく赤に染まっていた。
〈了〉
ビーフシチュー 伊野尾ちもず @chimozu_novel
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