旅立ち

西木 草成

ベランダで、翔太は懐からタバコを取り出す。

 恋人の由奈の一周忌が終わって数日が経った。彼女の実家の家族に翔太が顔を合わせるのは久方ぶりで、普段は着慣れないスーツに身を包みながら肩身の狭い思いをしながらも何とか無事に乗り切ることができた。


 月昇る夜の集合マンションのベランダでタバコを吸う。彼女が生きていた時には吸うことができなかったが少しだけ狭かった部屋が随分と広くなる頃には、いつの間にかかつて吸ってたセブンスターを愛飲するようになっていた。片手にはブラックニッカの氷割りを手にしタバコの煙と苦さをアルコールで流し込む。


 恋人の由奈と知り合ったのは、近所の本屋だった。当時、そこの店員としてアルバイトをしていた翔太に由奈が声をかけたのがきっかけだった。ボブショートの髪が特徴的で、口元の黒子がチャーミングな女性だと思った。聞かれた内容というのが、当時映画化もされて盛り上がっていた東野圭吾の『麒麟の翼』の書籍がどこにあるかというもので、本屋としても大々的に出していたものだから彼女がどこに置いてあるかわからないはずがなかった。


 しかし、彼女の目的は本ではなく翔太自身にあった。本屋の隅で書籍の在庫確認をしていただけの自分が、まさか社会人女性に逆ナンされたという事実を受け入れるのにはしばらく時間を要した。


 そのあとの展開は早かった。由奈から聞かれたラインで頻繁にアプローチをされ、交際するまでに発展した。由奈には一度だけ自分のどこを気に入ったのかと、翔太は聞いたことがある。その答えというものが、本屋で見かけた時、横顔の目元が福山雅治に似ていたから、だというのだ。


 そんな理由で、と当初は思ったものだが。それでも、由奈との交際は自分にとってかけがえのないものになっていたのは事実だった。


 由奈は映画が好きだった。


 特に邦画を気に入ってよく見ていた。特に東野圭吾シリーズは全巻ハードカバーと文庫本でコレクションしており、映像化作品になった時は必ずと言っていいほど映画館へと連れて行かれた。


 そして、何より旅行が大好きだった。


 最近になってはメジャーになっている聖地巡礼。彼女は、映画に出てきた場所を巡るのがとても大好きだった。特に彼女がよく訪れていたのは東京にある人形町だった。大して何かがある街というわけではないのだが『新参者』の主人公がそこで聞き込み捜査を行なった重要なスポットだったのだという。特に趣味と呼べる趣味もない翔太にとって、彼女のフットワークの軽さには驚かされるばかりだった。そして、何よりそんな彼女に振り回されるのが決して嫌だというわけではなかったのだ。


 だが、そんな日々は突然終わりを迎えた。


 事故の原因は、飲酒運転者による轢き逃げだった。意識不明のまま運び込まれた由奈は二日後にあっけなく息を引き取った。犯人はすぐに捕まり、現在裁判をしているわけだが、それで犯人が懲役を喰らおうが、死刑になろうが、結論として彼女が帰ってくるわけじゃない。


 全てを失った。


 彼女と同棲し始めて、二ヶ月での出来事だった。


 すでに、翔太の荷物と、由奈の荷物は開け終えてそれぞれのパーソナルスペースを確保したばかりで、アルバイトで働いていた自分も正社員に登用される目前でのことだ。彼女の荷物は、相手側の家族がほとんど持って帰ったが、由奈が集めていた東野圭吾の本たちだけは主人を失った人形のようにポツンと部屋の隅の本棚に並べられているだけだ。


 この空っぽになった部屋で、何度涙を流したかわからない。


 スマートフォンの写真フォルダーを見るたびに、彼女と行った旅行の先々での記憶が蘇る。


 人形町。


 甘酒横丁。


 日本橋。


 水天宮。


 愛媛の高浜駅。


 その全て、その全てが愛おしい。


 だが、同時に、その全てが自分にとって毒にもなり得る思い出だ。


 由奈の死から一年たった今。精神科で薬をもらい、何とか息をしている状態ではいるが、彼女のいない今を徐々に受け入れつつあることがさらに悲しかった。


「……はぁ、寝るか」


 ベランダでタバコの火を消し、部屋の中へと戻る。一人で暮らすには少しだけ広くなった部屋の隅に置いてある本棚にふと翔太の目が止まった。グラスの中に残ったブラックニッカを喉の奥に流し込み、本棚へと近づく翔太。


 少しだけ埃をかぶっている、彼女が死んでから一切掃除をしていないそれから一冊の本を取り出す。


 それは、彼女と出会ったきっかけになった本


『麒麟の翼』


 手に取ると、ハードカバー特有のずっしりとした感触が右手に伝わる。普段は、本を読むより映像化した作品を観るのが主流な翔太にとって、本を捲る感触は新鮮だった。


 話のあらすじは、日本橋で殺害された被害者と、近くで交通事故に合い、瀕死になった容疑者。その二人の関係を紐解くため、刑事である主人公が彼らの足跡を追ってゆきやがて事件の真相に辿り着いてゆくと言った内容だ。


 読み進めて行くたびに、映像で彼女と一緒に観た記憶が重なる。その記憶が蘇るたびに、唇が震え、涙が込み上げるのがわかった。


 あぁ、ここで彼女も涙を流していた。


 ここで、真実がわかるんだ。


 こんな、悲しい結末だったんだな。


 読み進めてゆくうちに、翔太のページを捲る手が止まる。それは、主人公が、主人公の死んだ父親の看護をしていた女性との会話のシーンだった。


「死んだ人の……メッセージを受け取るのは。生きている人間の義務……」


 当然頭の中で思い浮かんだのは由奈のことだった、だが。彼女と最後に対面したのはICUでの死亡通達の時だ。


 一体、彼女は死ぬ間際に何を思ったのだろう。


 痛かったろう。

 

 苦しかったろう。


 辛かったろう。


 それでも、彼女が自分に残した想いとはいったい何なのだろうか。自分は、果たして、彼女のメッセージを受け取ることができたのだろうか。


 ふと、周囲を見渡す。彼女と暮らしていた時とは見る影もないほどに荒れ果てた部屋の中。食事は、コンビニの弁当で済ませ、そのゴミを外に出すことができておらずキッチンの下で束になって溜まっている。彼女が死んでから飲む酒の量と吸うタバコの量も増えた。


 こんな姿を彼女がみたら、一体なんていうのだろう。


 しっかり者の彼女のことだ。きっと、自分のことを叱るに違いない。


「……由奈」


 最後まで読み進めゆく。主人公が、容疑者とされていた者の唯一の家族である恋人に声をかけるシーンだ。


 そのシーンを最後に、物語は幕を閉じる。久々に一冊の本を読み切った翔太は疲れた目元を指で摘みながら先ほどまで読んでいた文章を頭の中で復唱する。


「……遠出。してなかったよな」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 翔太は東京に訪れていた。向かう場所は、日本橋の翼のある麒麟像。すでに何度か由奈と来ていることもあってか道順だけはしっかりと覚えていた。


 そうして、たどり着いた麒麟像。ここを通る多くの人は、麒麟像に目もくれず橋を渡って歩いている。だが、翔太ただ一人だけが像の前に立ち止まり翼のある麒麟像を見上げている。


 麒麟には本来翼はない。だが、ここ日本橋にある麒麟像に翼があるのは、ここから多くの人が世に羽ばたいて行けるようにと願われて、東京の出発地点として作られたのだという。


 由奈のいない、今の自分が。果たしてどこまでいけるのだろう。


 この思い出を抱いて、どこまでゆくことができるのだろう。


 でも、これだけは間違いない。


 今日が、


 ここからが、


 僕の、出発地点だ。

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旅立ち 西木 草成 @nisikisousei

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