祖父のノートの謎を探る
海沈生物
第1話
一昨年に癌で亡くなった祖父の書斎を整理していた時のことだ。書斎にある机の引き出しに黄ばんだノートが入っていた。多くのページは何者かの手で粗雑に千切られていて、読むことができなかった。だが、最後のページだけは千切り忘れたのか、綺麗な形で残っていた。その異端さに惹かれて何が書かれていたのか読んでみると、次のようなことが書かれていた。
『感情は世界で最も巧妙な噓つきである。建前と本音、夢と現実、無意識と意識。二項対立の曖昧な境界線の中で、私たちは感情という噓つきに、その百年にも満たぬ人生を振り回されているのだ。だからこそ、私たちは「自分」というものを強く持つ必要があるのだ』ヴァルター・アイゼンハルト(生年月日不明)
ヴァルター・アイゼンハルト……ヴァルター・アイゼンハルト。いかにも男性らしい名前で、どこか……西洋らしい名前らしい。豪華絢爛に飾った中世の屋敷に住んでいそうな、名前だ。
「……いや、ヴァルター・アイゼンハルトって誰だよ!」
私は一人、祖父の部屋で大声を上げる。下の部屋の整理をしていた母から「突然大声をあげて、どうかしたのー?」と聞こえてきたのに「現実」を感じる。顔を赤くして「なんでもない!」とだけ返すと、恥ずかしさからその場で縮こまった。
……縮こまりながら考えるが、私の祖父はそのような名前ではない。うちの家系は父方も母方も日本人以外の血が混ざったことはない。少なくとも、ここ百年はそうである。ということは、そういう名前の偉人がいて、祖父が彼の名言を好んでいたのだろうか。そう思ってスマホで検索してみたが、出てくるのは「ヨハン・アンドレアス・アイゼンハルト」という十七世紀ドイツの医者だけであった。
彼のサーカス巡業をしながら各地で医者をしていくという、奇妙奇天烈な生き方にかなり興味を惹かれた。だが、ヴァルター・アイゼンハルトとはなんら関係ない人物であることは明らかだった。実在もしない、私の親族でもない。彼は一体、誰なのだろうか。
私は書斎を漁って、彼自身や彼によって書かれた本がないかを探し回ってみた。だが、そのような本はどこにもない。それどころか、祖父の書斎にあるのは日本人が著者の本ばかりで、どこにも海外の作家の作品はなかった。
それでは、この謎の名言はどこから生まれたものなのだろうか。祖父の書斎を全て調べてへとへとな私は、汗まみれの身体のまま、書斎にある安楽椅子に腰かける。動く度に「ギコギコ」と鳴る昔の椅子の面白さを感じる。その椅子のゆりかごのような揺れに身体を任せていると、段々と私の瞼は閉じていった。
……気が付くと、私は夢の中にいた。こういう夢であることに自覚的な夢を明晰夢って呼ぶんだっけ。そんなことを考えていると、ふと夢の中に祖父が出てきた。
祖父の髪は「サザエさん」に出てくる波平さんのような禿げ方をしていた。その癖、祖父の髭は「ハリーポッター」シリーズに出てくるハグリットという大男のように、立派な髭が生えていた。
(髭に髪を生やすパワーを奪われたのかな……)
そんな失礼なことを思っていると、目の前の祖父が私に微笑みかけてきた。
「久しぶりだね、私の愛しい孫娘よ。見ない内に大きく成長したねぇ」
「最後に会ったの十年前……高校生の頃だからね」
「恋人はできたのかい?」
「うんまぁ。昨日デートをすっぽかしたら、一方的に別れを告げられちゃったけど」
「そうかい、そうかい。お前が幸せそうで良かったよ」
今の話を聞いて、どの辺りに「幸せ」を感じたのか分からない。でもまぁ、所詮は夢の中のことだし気にするだけマシかと無視する。それよりも今、私には聞きたいことがあるのだ。
「そういえば、おじいちゃん。おじいちゃんの書斎に”ヴァルター・アイゼンハルト”って人の言葉が書かれたノートがあったけど、彼って誰なの? おじいちゃんの友達?」
「うぁるたー・あいぜんはると……? はて、誰のことなんじゃ? おじいちゃんも全く知らない人じゃのぉ」
そっか、と私は残念そうに呟く。いやまぁ、冷静に考えてこのおじいちゃんは私のおじいちゃんではないのだ。私の夢の中のおじいちゃんであって、現実に生きていたおじいちゃんではない。ヴァルター・アイゼンハルトなる人物のことを知っていたのなら、それこそおかしな話である。
私は残念に思いながらも、至極当然の論理に気付かなかった、私の浅慮に死にたくなった。死にたいというか、この夢から早く覚めたくなった。さっさと覚めて、こんな夢のことなど忘れたくなった。
私は自分の頭をポコポコと殴り、どうにか夢を覚まそうとした。しかし、この夢はまだ覚めてくれなかった。そんな私のことを、おじいちゃんは優し気な目で見つめてきていた。
「そんなに頭を殴るまで、うぁるたー・あいぜんはると? さんって人について知りたいのかい? ホホホ。今のおじいちゃんには覚えはないが、そんな人物はいるかもしれないし、いないかもしれない。おじいちゃんが痴呆で忘れているだけで、もしかしたら本当に会ったのかもしれないのぉ」
「うだうだ言ってるけど、それって要は”分からない”ってことじゃないの?」
「そうじゃな。わしには分からない。じゃがな、ちゃんと”自分”の意志を持って信じていれば、そのうち分かる日が来るじゃろうて。それに、案外その答えは最も近い場所にあるかもしれんぞ?」
「おじいちゃん…………まとめに入ってきたね」
「メタなことを言うではないわ。そもそも、これはお前の夢じゃろ。所詮は虚しい一人芝居でしかないことなど、最初から分かっていたことじゃろうて」
それもそうか。私が頭を縦に頷かせると、段々と意識が薄くなってきた。目の前にいるおじいちゃんが私に「それじゃあの」と言って手を振ってきたので、私も手を振り返した。その瞬間、私の身体は突然浮遊感に襲われる。
気が付くと、私は安楽椅子から落ちて尻餅をついていた。痛む尻を撫でながら「いてて……」と声を漏らすと、下の部屋にいる母から「ものすごい大きな音がしたけど、大丈夫ー!?」と声が聞こえてきた。顔を赤くして「なんでもない!」とだけ大声で返すと、私はまた、恥ずかしさからその場で縮こまる。
結局、夢の中のおじいちゃんから「ヴァルター・アイゼンハルト」なる人物について知ることができなかった。私はしょんぼりとしながらも、なんともなしにノートの例のページを見る。そこには、相変わらずヴァルター・アイゼンハルトの言葉が書かれていた。
(本当に誰なんだろうな、この人……)
私は胸のモヤモヤを解消できないまま、溜息をつく。するとその勢いで、彼の言葉の書かれたページがめくれ、裏表紙が見えた。その裏表紙を見た瞬間、私は全てを理解した。理解して、顔が真っ赤に染まった。
『私の堕天なる黙示録(マイ・サタン・アポクリファ) 名前:ダーク・エンジェル・ヴァルター・アイゼンハルト』
これは……こ、これはそうだ。祖父の書いた話ではない。私が中学二年生の頃に書いた小説……いや中二病の全てが詰まった、黒歴史ノートだ。クソみたいなマセガキであった頃、私が書いた、読んでいるだけでも虫唾が走るような黒歴史ノートなのだ。
高校生の頃にこれを見返し、激しい羞恥心から全てのページをビリビリに切り裂いてゴミ箱に捨てたと思っていたのだが。どうやら、なんの気まぐれか、祖父が保管していたらしい。私は熱くなった頬を安楽椅子に埋めると、およそ人間のものとは思えないような雄叫びを上げた。
下の部屋にいる母から「本当に何!?」と驚く声が聞こえた。
祖父のノートの謎を探る 海沈生物 @sweetmaron1
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