心
北海ハル
第1話
霊的なものが見える時期があった。
正確に言うと、霊というより、神様が見えていた。
片田舎の村の一角、古ぼけた神社の瑞垣で、神様と初めて出会ったのは、三歳の頃。
母に手を引かれ、買い物帰りの寄り道程度に立ち寄った日。
ふんわりと佇む神様は母の目には見えていないようで、私の「だれかいる」という言葉に
「そらあ、神様やね。御挨拶しときな、お母んには見えへんけれど、あんたに見えちょおなら、きちんと御挨拶し」
それだけ言って、私を本殿の瑞垣へ送り出した。
踏み出す一歩が怖かったが、奥で佇む神様の瞳は、優しく私を見つめていた。
「
風に髪をなびかせ、着物の裾を少しめくって屈みこんだ。私はこくりと頷いて、もう少し、神様の方へ寄って見せた。
「えろう肝が据わった親子だことで」神様が私の頭を優しく撫で、母の方へ目をやった。依然として母には見えていないようである。
「坊にしか見えんのは、坊が邪気の少ない
寂しげに笑う神様に、私は「また来るね」とだけ言って、神様の手を握る。私の小さな手を包み、なおも寂しそうに笑いながら、「ほんに」と言い、私に二つだけ言った。
「坊。お前さんはまだ小さいから、きっと一人では来られないと思う。でも、いつか一人で色んなところ、色んな経験をできるようになったら、また来てな。儂に見てきた色んなこと、教えてくれるか?」
私は小さく首を縦に振る。「それと」と神様は続けた。
「いつか坊がおっ母さんやおっ父さんから離れて、色んなことを経験する時が来る。それはしゃあない、当たり前の事やし、そんでおっ母さんやおっ父さんがちょっとだけ、嫌んなる時も絶対に来るもんや」
その言葉に、私は少し切ないような悲しい顔をしたが、神様は微笑んで「大丈夫や」と笑う。
「みんな分かっとる。本当に嫌いになるわけはないよな?それは坊が一番わかるやろうし、二人とも通ってきた道や…きっと分かってくれる。でもな、ほんに嫌いになったらあかんよ。親ちゅうもんは、何よりも子を想うもんやから、坊も大事にしてあげな。…わかるやろ?おっ母さん、おっ父さん、大事にし。大事にしながら、またうちのところに来てな、話を聞かせてくれな…」
幼い私には詳しいところは分からなかったが、「両親を大切にしろ」という事だけは伝わった。その言葉にこくりと頷くと、神様は「坊はほんにいい子やな」とだけ言って消えてしまった。
母のところへ戻ると「御挨拶、ちゃんとできたか?」と言われた。「うん」とだけ返し、会話の内容は話さなかった。
「そか。じゃあ、帰ろか」
再び母に手を取られ、神社を後にした。
今にして思えば、「誰かがいる」という私の言葉に対してじっと待っていた母の信頼は、私の思うところよりもずっと大きいものだったのだろう。
幾年が過ぎた。
小学校に入学し、親の手を離れ友人とあちこち遊びまわる日々を送っていた私であるが、神様のところへ訪れることだけは欠かさなかった。
神様はいつ行っても綺麗な薄紅色の着物を着て、瑞垣をぷてぷてと歩いていた。
私が顔を見せる度、嬉しそうに笑う反面、少し寂しげな表情を見せるのも、私は知っていた。
いつか訪れる、私の目に神様が見えなくなる日を悟っているのかもしれない。
そう思った私は、そんな神様の思案を忘れさせるように、いつも日常の色んなことを面白おかしく話した。
どんなことでも笑って聞いてくれる神様が好きだった。
そして日が暮れ、空が暗くなりはじめた頃、私は家路に着く。
別れ際、いつも神様は私に言った。
「坊、親は大事にするのだよ」と。
私は神様の言葉を守り続けた。
家に帰れば神様にした話を両親にもした。
両親は神様と同じように笑ってくれた。
嫌いになる日など来ない。
大事にしない日はないと、そう確信を持っていた。
中学三年になった。
泣きながら、くらい夜道をただぼんやりと歩いていた。
些末なことで、親と言い合いになってしまった。
はずみで「嫌やもう、このばばあ」と、母に言ってしまった。
母の驚いたような、悲しいような表情が、べったりと目に焼き付いてしまった。
たまらず家を飛び出した次第であるが、神様の「親を大事にしろ」という約束を守れなかったために、神社へ行くのも憚られた。
憚られようとも、結局足は神社に向かっていた。
涙が止まらない。
後悔も止まらない。
怒った父に横っ面を叩かれた痛みのせいか、それとも後悔の念かも、もう分からない。
本殿へ向かった。
神様はいつものように、瑞垣に佇んでいたが、泣いている私を見ても寄ってきてはくれなかった。
たまらなく切なかった。
怒っているのだろう、愛想が尽きたのだろう。
神様であるから、私のしたことはお見通しなのだと、ついに私は大声で泣いてしまった。
本殿の前に座り込み、空を見上げてしきりに「ごめんなさい」と謝る私を見て、神様は私の前に優しく屈んだ。
「しもうたなあ、坊」
嗚咽を上げる私は息をひゅうひゅう言わせて神様に言った。
「ごめんなさ…ご…ごめんなさい…!約そ、くもそうだけど、言っちゃった!ばばあって…!」
その言葉を聞いた神様は私の肩を抱き寄せ「分かっとるなら大丈夫…大丈夫や」と、私をなだめてくれた。
神様はそのまま泣きじゃくる私の肩を、落ち着くまでずっと抱いたままでいてくれた。
「もう、それが分かっとるなら『坊』やないな。儂との約束を違えた事より、自分自身が親を傷つけたことを後悔できとるなら、お前さんはもう大人やなあ…」
「嫌いやないけど、どうしても鬱陶しく感じる時期は誰にでもあるもんや。それを経て、みんな大人になる。…今のお前さんなら分かるやろ?この後、どうすればいいかも、分かっとるやろ?」
「分かっとるなら、早よ帰らな。二人とも、きっと心配しとる」
「時々、親元を離れるのはええ。けど、蔑ろにしたらあかんよ。儂は見とるからな。忘れたらいかんよ」
私は何も言えなかった。ただ優しく抱き留めてくれた神様の言葉に頷き、忘れまいと心に誓う事しかできなかった。
「ほんに失礼いたしました」
落ち着いた私が執りなおすと、神様は「あら」と笑った。
「なんや、言葉遣いも大人になりよって。…寂しゅうなるな」
神様の言葉に、私は別れを悟った。再び泣き出しそうな私の顔を見て、今度は少し怒ったように私に「やめや」と言う。
「お前さんは儂がおらんとも、自分がどうあるべきか、もう分かっとるやろ。泣いたらまた『坊』に戻るで。…さ、行き。忘れんといてくれれば、儂も幸せや」
目から大粒の涙が溢れてきて、思わず顔を落とす。
最後の神様の顔は、見ることができなかった。
食いしばるように、絞り出すように「今まで、ありがとうございました」とだけ言い、本殿へ向き直り、二礼、二拍手、一礼。
再び目を開けたときには、もう神様の姿は無かった。
抑えた涙が、また溢れてくる。
止めてもらった嗚咽が、喉の奥から漏れる。
大きな声で泣いた。
涙が止まらなかった。
神様と、子供の自分との、決別の涙であった。
家に着いても、涙は止まらなかった。
母は泣いていた。私の言葉にではなく、私を心配した涙だった。
父は再び私の横っ面を叩いた。そして強く抱きしめた。
神様の言葉は、深く私の心に刻まれた。
そんなある日の、ある夜の事であった。
春になった。
新芽が顔を出す時期に、私は娘の手を取って散歩をしていた。
あの神社の前を通る。
「お参り、してこか」と娘に言い、階段を登った。
瑞垣の方に目をやっても、もう神様はいない。
きっと私の声も届くことは無いだろう。
でも、娘にはきっと。いや、絶対に────
「パパ、だれかいる」
私の娘なのだから。
心 北海ハル @hata
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