第2話 「無自覚」な溺愛

 聖女の任命式は、神殿の奥で貴族と神官の立ち合いのもと行われる、厳粛なものだ。この式自体には、民衆は参加することはできない。


 聖女が民衆の前に姿を現すのは、任命式後だ。王太子とともに、神殿のバルコニーへ出て、神殿の前に集まった民衆に手を振る手筈になっている。


 私もアシェルさまも、集まった民衆に混じってイザベラの登場を待っていた。巡礼の旅に出なかったことでイザベラの評判は決して良いとは言えないが、歴史的瞬間に立ち合おうとする民衆はかなりの数だった。


「エマ、はぐれないようにね。もっとこちらへおいで」


「はい、アシェルさま」


 本当は貴族用の席もあるが、多くの人々の目線から聖女となったイザベラの姿を見届けたかった。冬だというのに、集まった人々の熱気ですこしも寒くない。


「……まもなくですね」


「うん」


 並んで、イザベラが出てくる予定のバルコニーを見上げる。まもなくして、任命式の終了を知らせる鐘が鳴った。


 室内につながる白い扉が大きく開かれ、奥から純白の衣装を纏ったイザベラと礼服姿の殿下が出てくる。ぱらぱらと、かたちばかりの拍手が上がった。


「まあ、見目だけは綺麗だな」


「どうなることやら……」


 ひそひそと、イザベラを前に囁き声が広がっていく。巡礼の旅に出なかった影響は、私が考えているよりずっと大きなもののようだ。


 ……やっぱり、民の反応はなかなか厳しいわね。


 イザベラは、大丈夫だろうか。はらはらとした気持ちで彼女を見守ることしかできないのが心苦しかった。


 イザベラはしばらく民を眺めていた。その表情はよく見えないが、色々と思うところがあるのは確かだろう。これから自分が歩む道の険しさを実感しているのかもしれない。殿下が、どこか不安げにイザベラの様子を気遣っていた。


 だが、イザベラは不意にスカートをつまむと、優雅に礼をしてみせた。これには、陰口を叩いていた民衆も、はっと息を呑んで目を奪われているようだ。


 彼女が公爵邸に来てからと言うもの、令嬢としての所作や作法などもできる限り叩き込んだ。これは、私が教えた以上の完璧な礼だ。


 イザベラはずいぶん長い時間頭を下げていたが、やがてまっすぐに前を向いた。そうして、よく通る声で告げる。


「みなさん、当代の聖女に任命された、イザベラ・エル・アスターです。私は明日以降、祝福を伝える巡礼の旅に出ます。まずは、ここに集まったみなさんに祝福を」


 イザベラはそう告げるなり、指を組んでなにかを囁いた。


 その途端、よく晴れた青空から、虹色の光が降り注ぐ。はらはらと降り落ちるその光を手にとってみれば、それは雪の結晶だった。


 ……なんて綺麗な力なの。


 私には到底実現し得ない、美しく力強い「ルナの祈り」を前に、なんだが目頭が熱くなった。イザベラに否定的な態度をとっていた民衆も、虹色の雪を前にしてぱっと顔色を変える。


「祝福の雪だ……」


「イザベラさまは、こんなに強い力を持っているのか……」


 どこからともなく、ぽつぽつと聖歌が聞こえ始める。それはやがて皆に伝わり、大勢でイザベラを讃えるように聖歌を斉唱し始めた。空気が震えるほどの、とてつもない圧だ。


 ……大成功ね。


 どうやら、私が心配する必要はないらしい。イザベラは、自らの手で自身の悪評を挽回する切り口を見つけた。素晴らしい走り出しだ。


 聖歌はやがて、盛大な拍手と歓声に変わっていった。まるでお祭りのような騒ぎだ。イザベラはそれに、手を振ることで応えている。立派な聖女の姿だった。


「エマは」


 ふと、隣に並び立ったお兄さまが、イザベラを見上げたまま切り出した。


「エマは、これでよかったの? 君は、聖女になってやるべきことがあるって言っていたのに」


 アシェルさまは、本当に記憶力がいい。私の発言を何もかも覚えているのではないかと時折錯覚してしまうくらいだ。


「ルカ神官の言っていたことは、一理合っている。きっと、僕がいなければ、君は迷うことなく聖女になろうとしていただろう? それを思えば、僕のしたことは魔の者と言われても仕方のない所業だと、自覚しているつもりだ」


 アシェルさまは寂しげに笑いながら、わずかに視線を伏せた。


「……エマが聖女になってやりたかったことって、いったい何? 罪滅ぼしのわけではないけれど……僕が手伝えることなら、なんでもする」


 新緑の瞳が、まっすぐに私を見つめた。ふたりの間に、ちらちらと虹色の雪が降り積もる。


 私が願えば、彼は本当になんでもしてくれるのだろう。それだけの真剣さがこめられたまなざしだった。


 けれど、彼が罪の意識を感じる必要は微塵もないのだ。それを示すように小さく首を振り、頬を緩めた。


「私……聖女になったら、ひとつだけ聖典の教えを改めたかったのです。『雪の事故で命を落としたものは、罪人の生まれ変わり』だというあの古びた教えを」


「え……?」


「でも、ご心配なさらず。実はもう、内々にイザベラに嘆願書を出しているのです。彼女もこの教えには否定的な態度のようですから……時間はかかるかもしれませんが、必ず改定されるはずです」


 いたずらっぽく笑って見せれば、アシェルさまははっとしたように目を見開いていた。


「……君は、その教えを改めるために、聖女になろうとしたの?」


 それだけが、私が聖女教育の日々に耐えた理由だった。それをこんなかたちでアシェルさまに伝えることになったのはなんだか気恥ずかしいが、彼がこのままもやもやとするよりはいいだろう。


 微笑みながら静かに頷けば、ふと、アシェルさまの腕に思い切り引き寄せられてしまった。息が苦しいほどに、抱きしめられる。


「アシェルさま……?」


「そんなこと……そんなこと、しなくてもよかったんだ。僕は、君に赦されていたらそれでいいのに……そんなことのために、君は」


 見上げた新緑の瞳は、じわりと滲んでいた。そのまま、頬擦りするように頭を寄せられる。


「ありがとう……ありがとう、エマ。君は、僕だけの赦しで、祈りで、祝福そのものだ……」


 なんて、大袈裟な言葉なのだろう。いつもの調子で私を褒めているのかと思ったが、ぽたり、と落ちてきた涙を見てはっとした。


 私の縋りつくようにして静かに涙を流すその姿は、幼いころ、私の膝の上で泣きじゃくっていた少年に重なった。あの夜から、私たちの関係は明確に変わったのだっけ。


「エマ……僕は、君が望むなら何者にでもなるって誓ったけれど……僕から君に願うことを、赦してくれるかな……。これが、最後のわがままだ」


 お兄さまは涙を拭って、上着から小さな銀の小箱を取り出した。小箱の中には、藤色と新緑の石が埋め込まれた銀の指輪が収められている。


 アシェルさまの頬は、わずかに赤くなっていた。それが、寒さのせいでないことくらい、私にもわかる。


「エマ――どうか、僕と結婚してください。『義兄』の距離ではもう、耐えられない。君のいちばん近くで、君と生きていきたいんだ」


 虹色の雪が、やさしくわたしたちを包み込む。けれどどんな光よりも、切実なアシェルさまの姿が、いちばん眩しく煌めいていた。


 ……なんて、きれいなの。


 あの冬の孤児院で彼をひと目見た瞬間から、私はきっとこの言葉を待ち望んできた気がする。


 思えば、長い初恋だった。長い長い片思いが、今、ようやく実ったのだ。


「はい、よろこんで。アシェルさま!」


 彼の胸に飛び込むように、勢いよく抱きついた。首の後ろに手を回してぎゅう、と抱き締めれば、彼もすぐに応えてくれる。そのまま、吸い寄せられるように唇が重なった。


「ありがとう、エマ……」


 わずかに唇を離してそう囁いたかと思うと、彼は吐息を奪うようにくちづけを深めた。


 ふたりの吐息が、白くひとつにまじりあっていく。虹色の雪の中でのくちづけは、まるで夢を見ているかのように幻想的だった。


 不意に左手を取られたかと思うと、今度は手のひらにくちづけられた。器用に薬指に指輪を嵌め込まれ、何度も手のひらへのくちづけが繰り返される。それは、私とアシェルさまの間で何度も繰り返されたあの儀式めいたふれあいとよく似ていた。


「ありがとう……エマ、僕を赦してくれて」


 祈るように、彼は私の手に頬をすり寄せまつ毛を伏せた。


 私に赦されなくとも、あなたは生きていていいのだ、なんていう慰めは、今は無用な気がする。


 それは愛しているよりも深く、私を想う言葉であるように思えた。


「お礼を言う必要はありませんわ。私は……これまでもこれから先も、あなただけの『エマ』ですもの」


 私の祈りは、あなただけに捧げられるものだ。女神よりも民よりも、あなたが愛おしい。


 ……やっぱり、聖女にならなくて正解ね。


 彼のためならばきっと私は、祈りを捨て、慈愛を捨て、女神も捨てられる。


 ひょっとするとそんな私がいちばん、魔の者なのかもしれない。


 ……それでもいいわ。


 魔の者の愛でも、彼はきっと赦してくれるだろうから。


 聖女を讃える歓声の中、アシェルさまとふたりかたく抱きしめあう。これから、アシェルさまとふたりで、ふたりだけの甘い愛を育んでいくのだ。


「ふふ、アシェルさまの『無自覚』も、もうおしまいですわね」


「無自覚? なんのこと?」


 アシェルさまは小さく微笑んで、私の顔を覗き込んだ。


 新緑の瞳は楽しげに煌めいていて、気づかないふりをしているのか、『無自覚』であったことに無自覚なのかわからない。


「……なんだか、この調子で一生アシェルさまに振り回されそうな気がしてきました」


「僕の世界はエマを中心に回っているのに、僕がエマを振り回すはずないじゃないか」


 くすりと笑って、アシェルさまは私と指を絡めた。繋いだ手を引き寄せられ、指輪をはめた薬指にくちづけられる。


「さて、邪魔な聖女さまはどうやら旅に出るらしいし、ようやく平穏が訪れたね。これで思う存分エマを堪能できる」


「今までも、ほとんどふたりきりで過ごしてきたではありませんか……」


「まだまだ足りないよ。……早く帰って、たくさんくちづけをしよう?」


 甘い熱を帯びた微笑みに絡め取られ、たちまち頬が熱くなる。とてもじゃないが直視していられず、慌てて視線を背けた。


「あ、あまりにも言い方が直球すぎます!」


「照れてるの? かわいいなあ」


 今までとほとんど変わらない調子で、彼は私を甘やかした。もともとの溺愛が甘すぎるせいか、恋人同士になってもあまり変化がないように思う。


 ……ということはやっぱり、今までも「無自覚」なわけではなかったんじゃ……。


 そう思うと、たちまち顔が熱くなる。アシェルさまはああ言ったが、やはりこの先ずっと彼に振り回される未来しか想像できない。


 でも、それが嫌ではないあたり私も重症だ。顔を真っ赤にしたまま、彼に手を引かれて歩き出す。


「……これからはもっと、アシェルさまを戸惑わせてみせますからね!」


「僕を? それは楽しみだなあ」


 くすくすと笑うアシェルさまは、すこしも本気にしていないようだ。


 ……今に、私と同じくらい顔を赤くさせてみせるんだから。


 新たな誓いを立てていると、彼は私の手を引いてわずかにこちらを振り返った。


「ほら、帰ろう、エマ。僕らの家へ」


 虹色の雪が、陽光を受けてきらきらと彼を包み込んでいた。眩いほどの煌めきの中へ、私も一歩踏み出す。


「ええ、アシェルさま!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お兄さまの無自覚な溺愛 染井由乃 @Yoshino02

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ