最終章 聖女の任命式

第1話 かわいい妹

 淡い光を感じて、ふっと目が覚める。天蓋から垂らされた薄布越しに、カーテンから漏れた陽の光が見えた。もう、朝になったのだろう。


 軽く伸びをしながら上体を起こせば、寝台の縁に突っ伏するようにして眠るアシェルさまの姿があった。昨晩は、ふたりで本を読んで穏やかなひとときを過ごしていたのだが、いつ寝台に潜り込んだか覚えていない。


 ……きっと、アシェルさまが運んでくださったのね。


 そのあと、アシェルさまもここで眠ってしまったのだろう。寝台の上で眠らないあたり紳士だ。


 そっと手を伸ばして、黒髪を撫でる。起きているときはアシェルさまにどきどきさせられっぱなしだが、こうして眠っていれば黒猫のようでかわいらしい。


 ……前にもこうしてアシェルさまの髪を撫でたことがあったわね。


 旧ラーク子爵領の祝祭の後、私の看病に疲れた彼はこうして眠っていた。あのときは、まるで何かに導かれるように彼の手のひらにくちづけたのだっけ。


 ……でも、私はもう手のひらでは満足しないのだから!


 早いもので、アシェルさまと再会してからひと月が経つ。明確な言葉や約束があるわけではないが、あの聖女選定のやり直しの日から、私と彼はすっかり恋人同士のような関係性になっていた。暇があればくっついているし、毎日くちづけを交わす仲だ。もう、彼を「お兄さま」ではなく「アシェルさま」と呼ぶことにもずいぶん慣れた。


 だから、唇にくちづけて起こしてあげることくらい、なんてことないのだ。意志とは裏腹にどくどくと鼓動を早める心臓を鎮めるように胸を押さえながら、そっとアシェルさまにくちづける。唇と唇を合わせるだけの、やさしいくちづけだ。


 ……なんて、かわいらしいのかしら。


 眠っている顔は無防備で、この顔は私しか見られないと思うと余計に尊いものに思えてくる。いつまでもこうして見ていられる気がした。


 ……もういちど、くちづけてしまおうかしら。


 そう思い、再び彼に顔を近づけた瞬間、手首を取られ寝台に押し倒されてしまった。驚いて目を開ければ、たった今起きたとは思えないほどはっきりとしたまなざしで、彼は私を見ていた。


「朝から悪戯がすぎるね、エマ」


「アシェルさま……起きていらしたのね」


 拗ねるように唇を尖らせれば、ちゅ、と音を立ててくちづけられた。彼からくちづけられると、自分からするときとはまた別の恥ずかしさがある。


「エマは朝からそんなにくちづけたかったんだ?」


 アシェルさまはどこか意地悪く笑ったかと思うと、私の頬や首筋にくちづけの雨を降らせた。くすぐったさと、その中にまじる甘い疼きに身を捩らせる。


「アシェルさま、もう……くすぐったいですわ」


「エマは相変わらずくすぐったがりだね。でもその顔見てるともっとしたくなる」


 アシェルさまは優しいと思っていたが、こういう触れあいのときはやっぱりいじわるだ。いつも私ばかりいじめられている気がする。


「ふふ、アシェルさま、降参……降参ですわ」


 くすくすと笑いながら彼の体の下で暴れるも、思いのほか真剣なまなざしに絡め取られ、はた、と動きを止めた。朝にはふさわしくない甘い熱を帯びた瞳だ。


「アシェルさま……」


 きっと私も、似たような目で彼を見上げているのだろう。そう思うとたまらなく気恥ずかしいが、逃げ出したいとは思わなかった。


 アシェルさまの手が、輪郭を確かめるかのように頬を撫でる。ほっとする手の温もりに頬を擦り寄せながら、アシェルさまを見上げた。


「っ……」


 彼が何かを堪えるように息を詰まらせたかと思うと、再び顔を近づけてきた。今度のくちづけは、唇にされる気がする。


 甘く、濃厚なくちづけを期待して、そっとまつ毛を伏せる。彼の吐息が、すぐそばまで近づいていた。


 そうして、唇が触れるか触れないかまで近づいた、そのとき――。


「――お姉さま! ごきげんよう。ねえ、なかなか聖女らしい格好になったと――」


 扉のノックもなしに飛び込んできたのは、黒髪を複雑に編み込んだ美少女だ。淡雪の大樹の葉があしらわれた豪奢な純白のドレスを纏っている。寝台の上から、ふたりして彼女と目が合った。


「えっと……私、お邪魔したみたい? ごめんなさい、あなたたちが一緒に眠るほどに関係が進んでいるとは思わなくて……」


 やるわね、お姉さま、と勘違いを深めていくのは、他でもないイザベラだった。


 聖女選定のやりなおしの後、結果的にイザベラが聖女に選ばれたとはいえ、初めの儀式で不正を働いたウィロウ男爵家と神官長には罰則が下された。男爵家は爵位を返上する重罰が下され、私利私欲のために儀式を捻じ曲げた神官長は、王国の北部にある監獄に幽閉されることになった。


 男爵家という後ろ盾を失ってしまったイザベラには、アスター公爵家が後見として立つことになった。これは、私がいちどは聖女として選ばれた娘であったこと、加えてイザベラに聖女教育を施したことに対する褒賞の意味も兼ねているらしい。


 そういうわけでイザベラはひと月前から公爵邸に滞在しているのだ。初めはお母さまとイザベラの間にはいくらか気まずい空気が流れていたが、ひと月経った今ではずいぶん改善された。


 イザベラはすっかり公爵家の一員として馴染んでおり、いつしかイザベラは私を「お姉さま」、アシェルさまのことを「お兄さま」と呼ぶようになっていた。私とイザベラは同い年のはずなのだが、私の方が生まれた月がひと月ほど早いらしいのでこういう呼ばれ方をしている。


「おはようございます、イザベラ。その……私たち、同じ寝台で眠っていたわけではありません。昨晩遅くまで本を読んでいて、そのまま眠ってしまって……」


 慌てて寝台の上に座り直しながら、乱れた髪を整える。アシェルさまも渋々といったかたちで私の隣に並んだ。


「まあ、この部屋で寝てたのは事実なんだけど」


「アシェルさま、紛らわしい言い方はなさらないで……」


「どうして? かわいいエマとの噂ならいくらでも流れればいいと思うんだけど」


 恋人と言っても過言ではない関係になってからも、お兄さまの調子は変わらない。この期に及んで「無自覚」な言葉であるはずはないと思うのだが、人前で私を溺愛する姿は以前と変わりなく、本当に私を女性として意識しているのか時々疑いたくなる。


「ああ、はいはい、ご馳走さまです、朝からお熱くて何よりね。大切な日だってのに、朝から胃もたれしそう……」


 イザベラは純白の装束の裾を揺らして大きな溜息をついた。その姿を見て、はっと思い出す。


「そうです、イザベラ! 今日は聖女の任命式ではありませんか!」


 聖女のお披露目の場であり、殿下との婚約式を兼ねている儀式だ。言うまでもなく、とても大切な日だった。彼女がこんなに朝早くから完璧に支度を整えているのも、まもなく出発するからなのだろう。


「そうよ、だからいちばんにお姉さまにこの衣装を見せにきてあげたのに、あなたはお兄さまといちゃいちゃしてるんだもの、嫌になるわ」


 まあ、私も殿下とするからいいけど、とイザベラはふい、と視線を背けてしまった。どうやらご機嫌を損ねてしまったようだ。


「とても美しいです、イザベラ。純白の衣装に、あなたの黒髪がよく映えています」


 裾の部分は二段重ねになっており、よく見れば銀糸で刺繍が施されていた。私とお兄さまが摘んだ淡雪の大樹の葉は、胸もとと、裾の刺繍の間にあしらわれているようだ。透き通る葉が、なんとも清廉な雰囲気を醸し出している。


「そうよね? もっと褒めていいのよ?」


 イザベラは、私たちの前でくるりと回ってみせた。淡雪の大樹の葉が、清廉な音を鳴らしながらきらりと煌めく。


 ……この衣装は、オーレリアさまが作ったものなのよね。


 オーレリアさまやセオさまとは、月にいちど手紙でやりとりをしている。衣装が完成したことを喜ぶ手紙を、ついこの間受け取ったばかりだ。


 ……オーレリアさまとアシェルさまの縁談は、白紙に戻った、と聞いたけれど。


 手紙では、オーレリアさまはそう語っていた。アシェルさまから、正式な断りが入ったらしい。パーセル家の利益になる縁談だったため惜しむ気持ちはあるが、仕方がないと受け止めているようだった。


 ……そうなると、いよいよ最有力候補は私である気がするのだけれど。


 この曖昧な関係も甘酸っぱくて好きだが、そろそろアシェルさまとの関係に正式な名前が欲しいと思ってしまう私がいる。任命式が終わって落ち着いたら、私から切り出してみようか。


「お兄さまも、もうすこし褒めてくれてもいいんじゃない? アスター公爵家が私の後見になった今、私も妹みたいなものなのよ! というより、お姉さまがお兄さまの恋人となった以上、私は唯一の妹じゃない!」


 ぼんやりと考えごとをしている間に、いつのまにかイザベラとアシェルさまが何やら言い争いを始めていた。


「あいにく、エマ以外の人間との関係性はあんまり気にしてないんだ。君が妹と思いたいならそうすればいい。僕のことも、好きなように呼べばいいよ」


 どこか気だるげに、アシェルさまはつれないことを言う。イザベラが、きっと睨むようにアシェルさまを見上げていた。


「お姉さま、このひとのどこがいいの? 冷たすぎない?」


「アシェルさまは、本当はとても優しいひとなのですよ。それに私からしてみれば、殿下と恋人になれるあなたが信じられないくらいです。あの方は、常に氷のように冷たい目をしているのに……」


「殿下はそんな目で私を見ないもの!」


 どこか得意げに、イザベラは唇を歪める。


「それだけ愛されている証、ってことね。ふふ」


 上機嫌に、イザベラは鼻歌を歌い始めた。今日は殿下との婚約式というだけあって、いくらか浮かれているのだろう。


「じゃあ、私は行くわ。衣装をお姉さまに見せたかっただけだから。これ以上ここにいると、リリアに怒鳴られそう」


 イザベラが公爵邸にやってきてからというもの、彼女のために使用人を何人か増やしたが、イザベラはリリアの衣装選びの感覚や髪を結う器用さを気に入ったらしく、リリアを度々呼び出しているようだ。


 今朝もリリアは、大方イザベラの髪を結うために呼び出されていたのだろう。リリアには特別手当を出す必要がありそうだ。


「いってらっしゃい、イザベラ。私たちも、後で見に行きますからね」


「別に来なくてもいいけど……来るなら、雪が降りそうだから、暖かくして来なさいよ」


 つんとした声音でそれだけ告げると、彼女は来たときと同様に颯爽と去っていった。ぱたん、と閉じられた扉を見て、残された私たちは顔を見合わせた。


「もちろん、行きますわよね?」


「エマが行くならね」


 人目がなくなった途端、擦り寄るように彼は私を抱き寄せた。ほとんど無意識にやっているようなその仕草に、いちいち私は心を惑わされているのだと知っているだろうか。


「し、支度をせねばなりませんから、離れてください」


「手伝おうか?」


「なっ……!」


 背中に流した私の髪に長い指を通して、くすり、と笑いながら彼は私を見ていた。その熱を帯びたまなざしにますます頬が熱くなる。


 ……完全に私の反応を見て楽しんでいるわ!


 こんな調子では、到底私から「婚約してほしい」だなんて切り出せるわけがなかった。

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