第3話 帰る場所
「――君と僕は彼女を盲信している点では似た者同士だけど、どうしてもわかり合えないな。エマは、エマだから尊いんじゃないか」
ふわり、と優しい香りに包まれる。馴染みのある温もりが抱き止められた腕から、背中から伝わってきて、それだけで泣きそうになった。
ルカ神官は、私の背後の人物によって小刀を薙ぎ払われ、強い蹴りを腹部に入れられて倒れ込んだ。見覚えのある公爵邸の護衛たちが、ルカ神官を取り押さえる。
思わず、抱き止められた腕の中でくるりと体の向きを変え、背後の人物を見上げた。黒髪の間から、鮮やかな新緑の瞳が見える。真っ黒な外套を羽織った彼は、白銀の神殿の中では異質で、夜を纏った精霊のようだった。
「お兄さま……!」
「エマ。君が帰ってくるのを待ちきれなくて、迎えに来てしまったよ」
静かな、けれど慈しみの込められた優しい声だった。それだけで、胸に溜め込んでいた感情が止めようがないほどにあふれ出す。
ずっと、会いたかった。会って、お話がしたかった。
じわり、と涙が滲む。その粒が頬を滑り落ちるより先に、彼の外套の胸もとを掴んで彼の顔を引き寄せ、思い切り背伸びをした。
ふたりの唇が、ぴたりと重なる。愛おしい熱を奪い尽くすように、いっそうくちづけを深めた。安堵と幸福の涙が、ぽろぽろと頬を流れ落ちていく。
息継ぎをするようにわずかに唇を離せば、熱を帯びた新緑の瞳に捉えられ、再びくちづけられてしまった。
頬が、まるでのぼせたように熱い。溶け合うような甘い吐息を吸い込めば、立っていられなくなるほどの疼きを覚えて目眩がした。
「ただいま……ただいま帰りました、アシェルさま」
涙目で笑いかければ、彼は満ち足りたように目を細めて、そっと私の髪を撫でた。
「二度目はないと言ったのに、懲りない子だ。本当に帰る場所は僕でよかった?」
弄ぶように、彼は私の銀の髪を指先に絡めた。先ほどルカ神官によって一房切り取られた箇所だ。まるで労わるような仕草なのに、いちいち色気が滲んでいるから心臓が落ち着かない。
「……アシェルさまって、本当は結構意地悪ですわね?」
この期に及んでそんな質問をするなんて。絶対に私の反応を見て楽しんでいる。
「ごめんごめん。――妹はただかわいがるけど、好きな子には意地悪したくなる性質みたいで」
囁くように耳もとで告げられ、余計に頬が熱くなった。本当に溶け落ちてしまうのではないかと思うほどに。
「かわいい」
彼はどこか満足げに笑ったかと思うと、擦り寄るようにもういちど私の体を引き寄せた。
「おかえり、エマ。――もうどこにも行かせない」
その言葉とともに、ぎゅう、と抱きしめられた。ぴたりと密着すると、ひどく安心する。この温もりに守られていれば、何も怖くない気がした。
「はい。……もう決して、アシェルさまから離れませんわ」
彼の温もりを堪能するように、肩に頬を擦り寄せていると、ふと、うめき声のような低い声が聞こえた。取り押さえられたルカ神官からだ。
「よくも……よくも愛し子を穢してくれたな! 魔の者め!」
床に押さえつけられた体勢のまま、ルカ神官はありったけの憎悪を込めてお兄さまを睨んでいた。お兄さまは私を抱き止める腕を緩めることもなく、愉悦を覚えたように笑ってみせる。
「それは否定しないけど、妄信を拗らせてエマを傷つけようとした君のほうがよっぽど魔の者だろう」
ルカ神官の金色の瞳が、ぎらぎらと光っていた。女神の祝福そのものを表したかのような純白の髪が、床の上に打ち広がっている。
「ルカ神官……どうしてそこまで私を聖女にしたかったのですか」
彼が私を特別に崇拝していることはわかっていたが、それほどまでに私に入れ込む理由はよくわからなかった。
ルカ神官は、私を視線だけで捉えて乾いた笑みを浮かべる。
「あなたは……言ってくださったではありませんか。『あなたのような清廉なひとが神官で、女神さまもさぞお喜びになっているでしょうね』と……。そのひと言が……形ばかりだった僕の祈りに意味を与えてくれた……その瞬間から僕は、あなたの神官になったのです。あなたに仕えられないのなら、神官を続ける意味もない……そう思うほどに」
何気ない、なんてことない褒め言葉だった。言われてようやく思い出せるような、ひどく薄い記憶の中にしかない言葉だ。
それを彼は、今日まで大切に大切に仕舞い込んできたのか。それほどに、私の存在は彼の中で大きなものだったのか。
「……ありがとうございます、私の言葉を、そんなにも大切にしてくれて」
聖女候補としての自分が、ほんの少し報われるような気がした。
だが、それはそれとして先ほどのルカ神官の行いは間違っている。
「期待に応えられなかったことは、申し訳なく思います。けれど……あなたはそれを受け止めるべきでした。真の聖女の存在を、認めるべきでした。そうすれば、あなたはきっと歴史に名を残す偉大な神官になれたのに」
それくらい、ルカ神官は優秀なひとだった。二十代の若さで大神官の位を得ているのだから、ゆくゆくは素晴らしい神官長になると皆に期待されていたのに。
「あなたが道を踏み誤った原因が私の言葉だと言うのなら……やはり、私は聖女には程遠い。私もまた、魔の者なのかもしれませんね」
金色の瞳から、一粒涙がこぼれ落ちた。その涙に溶け込んだ感情が、後悔なのか、私に対する失望なのかはわからない。
ルカ神官はそれ以上何も言葉を発さずに、駆けつけた王城の騎士団に連行されていった。その後ろ姿はやけに小さく、私を数年間言葉で縛り付けていたあの恐ろしい神官の姿はもうどこにもない。
……さようなら、ルカ神官。
きっと、もう会うことはないだろう。儀式の間で刃を持ち出した罪は重い。数年は牢に繋がれることは間違いなかった。
お互いに同じ国で生きていても、もう二度と顔を合わせることはない。そんな、確信めいた予感がした。
お兄さまが、私の肩を抱く腕に力を込める。
「……終わったんだね。君の、聖女候補としての日々が」
まるで独り言のようなその呟きが、不思議なくらいにすとんと胸の奥に落ちる。
「ええ……これからは、ただのエマ・エル・アスターとしての生ですわ」
小さく微笑んで、お兄さまを見上げる。すぐに、甘やかすようなくちづけが頭に落とされた。
くすぐったさに笑みを深めると、お兄さまもまた、慈しむように繊細な微笑みを浮かべていた。
「帰ろうか、エマ。僕らの家に」
「はい。一緒に帰りましょう――アシェルさま」
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