優しさ

 新しい教室は、高校2年生にしては静かだった。各々が席の近い者同士で話している。高校生の生存競争、新しいグループ作りに励んでいるのだ。比べて俺は、窓側の奥の席で黙って本を読んでいる。内容は入ってこない。考え事に頭の容量が圧迫されているからだ。

「ねぇ、宮野くん、夜更かしでもした?」

 小声で話しかけてきた。隣の席の平岩さんだ。1年生の時も同じクラスだったが、話したことはなかったと思う。第一印象は、あまり活発なイメージではない。なぜか今も委縮している。容姿については、モテそう、と言えるほどには整っている。刺さる人が多そうな、可愛い美人といった感じだ。

「うん、まあね。」

 軽く返事をしておく。夜更かし、入学式のことだろう。寝不足が続いていたため、新入生を数えていたら眠りについてしまった。だが、なぜそれを尋ねてきたんだろう。早々に冷やかしだろうか。

「そ、そっか。さっき起こされてたから気になって。」

 こちらにあった視線が、スッと彼女の机に向いた。隣の席だから、気を遣って話しかけてくれたのか。失礼なことをしてしまった。お飾りの読書なんかやめよう。

「半分くらい寝てたよ。寝言でも言ってた?」

 平岩さんは少し目を見開いたあと、こちらに向き直った。微笑みながら、首を横に振る。寝言は言っていないらしい。まあ仮に口に出していれば、呪われてるか憑かれてるかを誰かに言われるだろうから、わかっていた。

「私もね、ちょっと寝ちゃってたんだ。起こされてるの私だと思って起きたの。」

 照れくさそうに、自分を指す仕草が可愛らしい。ふと視界の奥に、廊下側の集団を見る。段々と盛り上がりが広がっている。平岩さんなら、今からでもそこに入って人気者になれるだろうに。教室の隅の陰気な人間に時間を割いていては勿体ない。

「近いのに気付かれなかったんだね。俺はびっくりして声出たよ。聞いた?」

「ううん、聞いてない。寝てたから。」

 表情が柔らかくなっていく。声も少し弾んでいるように思う。話すこと自体を楽しんでいるような感じだ。もしやとは思ったが、この美人はいわゆるコミュ障ってやつか。しかしなおさら勿体ない。初めは確かにおどおどして見えたが、こうして話すととても雰囲気が柔らかくて話しやすい。

「遅くまで本読んじゃってね。寝たのは多分4時前だよ。あ、読むの邪魔してごめんね。」

 あという声に合わせて、本に向かって掌をかざしている。聞きながら本を閉じたため、気を遣わせてしまったようだ。驚くほど申し訳なさそうな顔をしている。

「大丈夫。あんまり集中できてなかったから。まだ眠いみたい。」

 そう言うと、また小さく笑みがこぼれた。寝起きだからという意味だったが、まだ寝足りないという意味にとられても仕方がないか。

「そっか、ならよかった。それって学級文庫?」

「そう。ちょっと気になって。」

 手元の閉じられた本に視線を落とす。端の物をなんとなく選んだのだが、そう伝えるのはよくない気がしたので嘘をついた。しかしどうやら、選択を誤ったようだ。

「へぇ!どんな本なの?小説だよね。ミステリー?」

 顔が、いや身体ごとグッと近づいてきた。さっきから思っていたが、コロコロと表情が変わったり、慣れるとグイグイ来るところが犬っぽい。失礼な感想だろうか。

 だが、物理的な距離には気を遣ってほしい。フワッと甘い香りがして咄嗟に仰け反ったが、本に夢中でそれにも気付かなかったようだ。

 しかし困った。どんな内容なのかよくわかっていない。どう答えようか。

「寝ぼけてて、内容が入ってきてなかったよ。・・・平岩さん、本好きなの?」

「あ、うん!ミステリー小説が好きなんだ!あっ。」

 あっという声に合わせて、口元を両手で覆う。時々ジェスチャーが付くのは小声だからかと思っていたが、癖だったようだ。わかりきっていた質問でこちらは誤魔化すことに成功したものの、それは結果的に、あまりよくない注目を集めてしまった。

 平岩さんはみるみる赤くなっていく。クラスメイト達の視線が、すべてこの隅の席に集まっていた。段々と盛り上がっていた教室に、今日一番の静けさが訪れた。

「ご、ごめん。つい声が出ちゃって。」

 俺はあまり気にしないし、おそらく顔にも変化はなかったと思う。しかしそう言葉を投げかけられた。彼女の方がよほど恥ずかしいだろうに、気遣ってくれた。

 これが本物の善意、優しさというものか。押し売りなんかじゃない。温かさを感じさせる行動だった。自分にもそれができるだろうか。

 大丈夫、と伝えながら彼女の眼を見て、少し笑ってみせた。

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