甲斐田正秀の過去

「わしはな、高等小学校2年の時分にここで死んだ。酷い死に方……確かにそうだったかも知れん。1944年の10月にあった空襲だ。わしはそんとき、兄ちゃんが海軍に志願して出てった後じゃったけ、家じゃ妹弟がギャーギャーうるさくって世話もせにゃいけんかったからのう、学校に残って考査の勉強しとった。そんとき……5時50分くらいじゃろか、空襲警報が鳴った。ありゃ気味悪い音でもう、忘れたくても忘れられん、何回何十回も聞いた酷い不協和音じゃ。今でもたまに鳴り出すぞ、頭ン中でな。当然それを聞いた途端にわしは荷物持って急いで教室から逃げ出して、防空壕に潜り込んだ。学校の防空壕ってのはな、不思議でどこからか人が湧いて出て、たくさん入っとる。もうすし詰め状態よ。それでも何とか入れたから、ボーイングが去るまでじっと待ってようと壕の入口付近でしゃがんでいた。そんとき、わしは重大なことに気付いた。教科書を1冊、置いてきたんじゃ。今思うとくだらない。じゃがそんときは死活問題じゃった。命あっての物種というが、もう1冊買う金もないし、それがなければ技師を諦めなくてはいけないという焦りがあった。もうその考えで頭がいっぱいだった」

「技師?」

「ああ、わしはちっこい頃から飛行機の技師になりたくてのう。そんでわがまま言って母ちゃんに高等小学校に入れさせてもらったんじゃよ。兄ちゃんが海軍の戦闘機乗りで、それを安全に整備して、空の勇士たちが無事に帰ってこられるような戦闘機に乗せたかったんじゃ。後方で働けば殉死はできんが、せめて、兄ちゃんらに正しい戦死を遂げてほしかった」

 正しい死。

 何だかもやっとした。

 正しい死なんてあるのか?実兄に死を望むか?本当の望みは正しい戦死なんてものではなくて、帰還ではないのか?

 俺の中に湧いた感情は確実に同情や悲観ではなかった。多分、多分だけど、軽蔑だ。何に対してかは分からない。目の前にいる小さくて痩せた少年の話を止めてやるべきだと思ったが、そのための理由付けもできないから、口をつぐんだまま甲斐田の話を聞くしかない。

「でな、実際ここいらにアメリカが爆弾を落とすことは殆どなかった。じゃから今回もそのクチだろうと思って油断しとったんじゃな。でもボーイングは確実に近づいていた。警報は依然やまない。もしかしたら今回は、と、ちと怖くはあったが、教科書を取りにこの教室に戻った。どうせ今日に限って落としてくることなかろうし、落ちても学校にピンポイントで当たるまいとたかを括っとった。それに何より、アメリカの兵器を前に、勉強すら諦めるのが嫌じゃった……そう思ったのが間違いじゃった。よう考えれば、学校がここいらで1番大きい建物じゃったし、軍の駐屯地は隠れとったから学校が狙われるに決まっとったんじゃが、そういう可能性はもっぱら排除して考えんかった。とにかく教科書を取りに行きたくてしょうがなかった。    それで急いで3階まで駆け上がって、丁度、わしが机の上にあった教科書を手に取ったとき、この教室に焼夷弾がヒューッと落ちてきた。お前は見たことないじゃろう、まああっちゃ困るが、ありゃ考えた奴は本当の非道だったろうなあ。木造の日本家屋が燃えやすいように、火薬だけじゃなく油を入れるんじゃ。だから爆風と一緒に燃えた油が飛んできた。あん頃は校舎も全部木だったからのう、すぐに一面焼けた。

もう遅い時間じゃったからな、わし以外には生徒はおらんかったから良かったと思うが、安心したのも束の間のことで、すぐにも第二陣が降ってくる音がする。でも火に囲まれて逃げられんし……背水の陣、四面楚歌、そんな様子じゃ。熱いを通り越して、皮膚がジリジリ唸るように痛んだ。自分は死ぬんじゃと確信した。わしは元々卒業したら早々に海軍に志願しようと思っとったから、もちろん死ぬ覚悟もできていた……と、思っとった。死ぬときになってわかったが、わしは本当は死にとうなかったんじゃ。まだ生きたい。そう思ったとき、2発目が落ちて、わしは割れた硝子や机と一緒に、そっちの方……」

 そう言いながら俺、ではなく、その後ろ――黒板を指さした。

「そこまで吹っ飛ばされた。バシィってな、叩きつけられた。窓硝子が体中に刺さってくるわ机や木片で顔も肺も潰れるわ炎が服に燃え移るわで……酷いんじゃぞ、破片が目やなんかにも瞼の上から突き刺さっとるから、霞む目ちょっと開いて、首も下を向いたまま動かんから、自分の体の様子だけ分かったんじゃが、あの時窓側に向いとった右上半身にブワァーっといっぱい硝子片が刺さっとるんよ。その溶けたのなんかもただれた身と同化して黒いんだか赤いんだか何なんだか……お前、集合体は大丈夫な方か?」

 甲斐田はニヤニヤしている。

 俺は何も言わなかった。勿論笑いもしなかった。

「あん時の姿にもなれるが……まあやめとくか」

 何故こいつは、こんな酷い話をヘラヘラしてできるのだろう。幽霊であることよりもずっとその方が不気味だ。

 俺はこの話を聞いて、本当に辛く思った。戦争の不条理も悲しんでいるし、甲斐田の味わった痛みに胸も痛む。右腕に手を当てて、むず痒い感じもした。でも、そんな薄っぺらい感情よりも何よりも深く、そんな酷い経験を笑って語る甲斐田が腹立たしくて仕方ないのだ。

 俺は拳に力を入れてその怒りをできるだけ態度に出さないように堪えた。爪が手の平に刺さる。でも痛みはなかった。そんなのを考えられないくらい頭がいっぱいだった。

「……と、まあこんな感じだが……っておい、お前」

 話し終えたようだ。しかしその途端、何だか焦った様子で俺に話しかけてきた。

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