04

「さくらさん、飛びましょう!」

「えっ、飛ぶって――」

 さくらさんの言葉をさえぎり、彼女の手を取る。そして、透けた足で思いきり地面を蹴り飛び上がった。


 半透明の身体は軽く、私たちはあっという間に空へ舞い上がる。遠くなった地面では黒いもやうごめいいているが、追っては来ない様子だ。これでひとずは安心できるだろう。

「わぁ……夕日がキレイ!」

 私の隣でさくらさんが感嘆の声を上げる。

 西の空は雲一つなく、見事な茜色に染まっていた。煌々と輝く夕日が目に眩しい。しかし歪み揺らぐ不可思議な街並みから解放され、まるで新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだような清々しい気持ちだ。

「っていうか、飛べたんだね」

 さくらさんが驚きと困惑の入り混じる表情で私を見つめる。

「そもそも私、気付いたらこの世界の空に浮かんでいたの。泳ぐように移動できるみたいなのよ。このまま行きましょう」

「ええー! そうだったの。早く言ってよぉ! もー!」

 彼女は繋いだままの手を強く握り返し、宙に揺らして不満を漏らす。更には「あたしはゴロゴロ転がっちゃったのにぃ! ゴロンゴロンだよ! 勢いよくゴロンゴロン!」と夕日に向かって叫ぶ。私はその様子にくすりと笑いをこぼしてしまい、「ごめんなさい」と小さく謝った。そして話題を逸らすために視線を空へと戻した。

「ああ、ほら見て。富士山も見えるわ」

「ほんとだぁ。シルエットがくっきり見える! そしたらあの高いビルがある辺りが神奈川で、あっちの大きな橋が東京かなぁ。東京……、東京といえばオリンピックがあったよね!」

 海が太陽の光を反射して黄金色に輝く。その向こうには黒々とした富士山の輪郭が横たわっていた。この光景に少しの懐かしさを覚えたけれど、さくらさんの言うビルや橋は、私には馴染みのないものに感じられた。

 私たちから伸びる光の糸は、街の外まで続いている。空を優雅に泳ぎながら思い出探しの再開だ。

「その時は、あたし達はガマンしてばっかなのにオリンピックはやるんだー、とか思っちゃったんだけどさぁ。おばあちゃんが『生きてるうちに二度も見られるなんて!』ってすっごく喜んでたんだよね。だから一緒になってテレビ中継見たよ」

 さくらさんは繋いでいないほうの手を嬉しそうに振り回しながら話す。

 私の脳裏には、再び記憶が蘇っていた。念願の、東京で行われる五輪。そのために街は作り変えられ変貌を遂げた。沖縄から繋がれた平和の象徴たる聖火、お祭りのように沸く人々、中継される鮮やかな映像。バレーボール、体操、柔道、次々とメダルを獲得する選手たち。私はそれを、誰か大切な人と共に見ていた……はずだ。

「覚えてる。私も、五輪オリンピックを見ていたわ」

「ほんと!? 何見た? あたしはねぇ、スケボーが思い出深いね! 鬼ヤバくて、ハンパなくて、ビッタビタにハマって、ゴン攻めなんだよ!」

「すけぼー……? 鬼……? ビッタビタ……? ゴン……?」

 興奮気味に話す彼女の言葉は耳慣れないものばかりだ。鸚鵡オウムのように聞き返すことしかできない。頭の中で反芻はんすうしても、思い当たるものは出てこなかった。

「ありゃ、見なかったの? 実況が斬新で面白かったんだよー!」

「ええ……。私はバレーボールで金メダルを取ったのをよく覚えているわ。大国を負かしたの、感動したもの」

「んん? そうだったっけ……?」

 今度はさくらさんが疑問を浮かべる番になった。しかし、それも束の間。

「あとはー、野球!」

「体操!」

「バスケ!」

「柔道!」

 二人で交互に競技を上げてみたけれど、全く噛み合わなくて、「好みが全然違うのかもねー!」なんて笑いあってしまった。

 しかし歓談をしても、頭の隅では齟齬そごと違和感に不安が拭いきれない。これがいったい何を意味するのか、今の私はまだ確信に至れない。思い出せたことと、思い出せないこと。埋まりきらない記憶の断片には、何か大切なものが含まれているのだろうか。そうではなくて、ただの些細な思い違いだったらいいのだけれど。


「あっ! 病院見えてきた! やっぱここかー」

 さくらさんが指をさす先に、円形の大きな建物が見えた。十階以上はあろうかという立派な病院だ。郊外の小高い丘にそびえ、木々に囲まれている。その周りには広い駐車場が点在し、来院客の多さを物語っていた。

「ここに植えてある木、全部桜なんだよね。春になるとすっごいんだよ。通学中にずっと見てたんだぁ」

 懐かしむ視線の先には、道路に添うように敷かれた線路があった。彼女がずっと利用していたであろう鉄道も、この不可思議な世界では沈黙している。

「満開になったら、さぞかし見事なのでしょうね」

「この丘が一面ピンクになるんだよー! ほんっとにキレイ!」

 彼女はやはり大仰な身振りで桜の美しさを表現する。春の景色の美しさもさることながら、自身の名前でもあるその花のことが大好きなのだろう。未だ蕾も膨らまない木々が立ち並んでいるが、彼女の様子を見ていると咲き誇る花を幻視できそうな気さえしてくる。

「ねぇ。今度、お花見しようよ」

 さくらさんは何気なく、そして当たり前のように誘う。

 私と彼女の交友はこの旅だけで終わりではない。そう言外に伝えられたことが嬉しかった。正体のわからない不穏な予感から目を逸らすように、私は笑顔で答える。

「素敵ね。是非ぜひご一緒させて」


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