帰る旅、行く旅。

十余一

01

 ふと気が付くと頭上に街並みが広がっていた。

 世界がひっくり返ってしまったのではない。信じられないことに、私が宙に浮かんでいるのだ。地上へ伸ばした手は柔らかな陽射しを通し、雑然とした街を透かしている。私はいつの間にか幽霊にでもなってしまったのだろうか。

 浮遊感はあれど落下する様子がないからか、妙に落ち着き払ってしまう。そうでなくても、このひんやりと薄く透き通った体では“セイ”の実感がまるで湧いてこない。だからこそ死への恐怖も薄らいでしまうのだろう。

 しかし、このまま水面の枯れ葉よろしく空を漂い続けるわけにもいかない。何故こんな事になってしまったのか、私はこれから先どうしたら良いのか。そのためには兎にも角にも自分の置かれた状況を理解しなければ。幸いにも、泳ぐように移動が出来たので地上を目指した。


 地に足を着けると――幽霊のようだけれど二本の足は透けながらもしっかりと存在している――、そこには不思議な光景が広がっていた。

 上空からは何の変哲もない街に見えていたけれど、目に映る全てが妙だ。

 建物も道も看板も、全てが粗悪なレンズを通して見たかのようににじみ揺らいでいる。焦点が合わないまま、物体は緑や赤の輪郭をまとい眼前に迫るのだ。そして無作為に入り乱れては平然と元に戻る。目がおかしくなりそうだ。

 民家や商家が立ち並んでいるというのに人通りは全くない。が、時おり人影のようなものがぼんやりと現れ、覚束おぼつかない足取りで揺れ歩く。薄膜一枚で隔てられたような質感だ。しかし声を掛けても反応はない。

 それとは別に、黒く淀んだもやが漂い、朧気ながら人の形を取ることがあった。渦巻き、形作られ、霧散する。その繰り返しだ。不気味さに少し距離を取る。

 ここはいったい何処なのだろう。人々の雑踏も、小鳥のさえずりも、風の音も聞こえない。静かだ。あるのは見覚えのない不安定な街並みと意志疎通のできない人影。

 私はたった一人で不可思議な世界に迷い込んでしまった。結局のところ、わかったのはそれだけだ。

 不意に、私の耳に、高く芯のある声が届く。

ヒトだー!」

 振り向くと、一人の少女が驚きに目を見開いている。そして大きく手を振りながら駆け寄ってくるではないか。これまでに見たこの世界の何とも違う。滲んでいなければ不安定でもない人間の少女が、確かに私の目に映っていた。

「人ー!」

 呼びかける声は大きく高らかだ。その勢いに気圧けおされ、私も思わずひかえめに手を振り返してしまった。この不可思議な世界に不釣り合いなまでの眩しい笑顔に、少なからず安心感を覚えたのだ。


「ちょっと透けてるけど、ちゃんと人だ! 私の声聞こえてる!?」

「ええ、聞こえていますよ」

 少女は「見える! 聞こえる! 喋れる!」と喜びを噛み締めている様子だ。その姿は私と同じく半透明で、滲む景色を透かしていた。

「事故ったうえに何か景色までバグりはじめるし、心細かったんだよー! 一人じゃなくて良かった! もしかして、あなたも帰るところ?」

「帰る……? どこへですか……?」

 疑問を浮かべる私に、少女は「だって、ほら」と空中を指差した。薄らいだ体で鈍感になっていたのだろうか。自分に繋がる細い糸の存在に、言われて初めて気が付いた。少女と私、それぞれから伸びた二本の糸は同じ方向へ続き、淡い光の道となっている。

「こういうのマンガで読んだことあるんだよねぇ。体から意識だけが飛び出しちゃってさ、糸で繋がってるんだ。無事に体に帰れたら生き返れるんだけど、糸が切れるとそのまま死んじゃうの」

 少女は平然と恐ろしいことを言う。しかしその予想が正しいのだとしたら、この透きとおる身体は意識だけの存在で、糸の先に実体としての身体があるのだろう。意識を失い、からっぽになったままの身体は果たして無事だろうか。

 生の実感が湧かなくても死への恐怖が薄れていても、死にたいわけではない。帰れるのならば帰らなければならない。そして、その道のりが一人でないのなら心強い。

 少女は相も変わらず明るい調子でのたまう。

「行き先一緒みたいだからさ、一緒に行こ! あたし、さくら。榎本えのもとさくら。たぶん同い年くらいだろうし、敬語とかナシでいいからね」

「はい、……あっ、うん。私は――」

 自己紹介に返答しようとしたところで、はたと思った。口を閉じては開き、また閉じる。さくらさんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「どしたの?」

「名前が……、わからない。思い出せないわ」


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