02

「もしかして、記憶喪失ってやつ……!?」

 空に投げ出された半透明の体、得体の知れない街と人影。わからないことだらけだったというのに、まさか自分自身のことまで覚えていないとは。そして身体から繋がる糸と同様に、言われて初めて気づくとは。

 しかし静かに唖然あぜんとする私より、さくらさんのほうが余程慌てている。出会ったばかりだというのに親身になってくれる優しい人なのだろうか。わやわやとせわしない身振り手振りと共に口を開く。

「意識が飛び出した拍子に、なんかこう、ショックで忘れちゃったとか……?」

「さくらさんは覚えているの? ここに来る前のこと」

 焦燥を表すように動いていた手がゆっくりと重力に従い下ろされる。彼女が辿った経緯は苦笑いと共に告げられた。

「あたしはさぁ、交通事故に遭っちゃったんだよね」

 さくらさんは歩みを進めながら、思い出すようにぽつりぽつりと喋り出した。ここから先は、糸を追いながらということなのだろう。私は彼女の隣を歩きながら耳を傾けた。

「交差点で出会い頭に衝突事故。で、たまたま私がいた歩道にまで車が弾き飛ばされてきちゃったと。その拍子に意識がポーン! と、飛び出ちゃったのかなぁ。一瞬だったけど、事故った車とその傍に倒れてる自分の体が見えたよ。チラッと見えただけで、その後は地面をごろごろ転がって、気付いたら景色バグってたんだけどね。いやー、ほんとビックリしちゃうよねぇ」

 手を車に見立てて、あるいはその時の自身を再現をするように身振りを交え話す。大仰とも思える振る舞いは悲壮や不安を覆い隠すためなのではないか。事故に遭い、あまつさえ不可思議な世界に迷い込み、つらくないはずがない。

 最後に彼女が冗談めかして笑う。

「だから、この糸が繋がる先は病院なんだと思う。今あたしの体、生死の境をさまよってたりしてね」

「ごめんなさい。おつらかったでしょうに、軽率に聞いてしまって……」

「いいのいいの! 全然ダイジョーブ! 一瞬すぎて痛みとかなかったし!」

 腕をぐるぐると回しながら「ヘーキ、ヘーキ!」というさくらさん。沈みそうになる空気を気まずく思ったのか、彼女は少し早口になりながら話題を替える。

「それにしてもツイてないよねぇ。高校生活も散々だったのにさ、それが終わったら次はこれなんだもん」

 明後日の方向に目線をやりながら、落ち着かないような素ぶりで話し続ける。優しい人に気を使わせてしまったことを申し訳なく思う。

 視線の先にある街は相も変わらず滲み、緑と赤にふちどられ、時おり不規則にかき乱れる。黒いもやは行く手を遮ることなく拡散して消えた。

「ヘンな病気が流行ってさぁ、お出かけしちゃいけません、会っちゃいけません。あれもダメこれもダメって楽しいことばっかり禁止されて! ただでさえ息の詰まる生活なのに、マスクまでして本当に息苦しい毎日! 卒業までにろくに顔を見なかったクラスメイトまでいたよぉ」

 口元を覆う彼女の仕草に、いつかの記憶が蘇る。


――ほら、できた。着けてごらん。ちよこ、これで安心だからね。

――ありがとう、おかあさん!


 一針ずつ丁寧に縫われた口覆マスクと、優しい母親の指先。

 海外から伝播した怖ろしい病が流行り、たくさんの人が亡くなった。そうして張り出されたのは口覆の着用と外出後のうがいを呼びかけるポスター。街では誰も彼もが予防のために口元を覆っていた。会社も工場も学校も汽車も劇場も、人が集まるところにはそうしなければ入れない。

 少しばかりぼんやりとしていたのか、さくらさんが話しを止めて私のことを気に掛ける。

「あっ、なんか愚痴ばっかでゴメン! 引いた……?」

「いえ、そうではなくて。思い出したのよ」

 彼女の顔は「何を?」と言いたげだ。

「疫病が流行ったときのこと。お母さんが口覆マスクを作ってくれたの。『ちよこ、これで安心だからね』って」

「へぇー、マスク品薄になって手作りするの流行ったりしたもんね。……うん? 名前!」

「私、“ちよこ”っていう名前みたい」

 まるで自分のことのように喜んでくれるさくらさんを前に、私もはにかんでしまった。

「ありがとう、さくらさん。あなたのおかげで思い出せたわ」

「どういたしまして、チヨコちゃん!」

 照れを滲ませた穏やかな笑顔。不安から目をらすために頬を吊り上げたのではない、本当の笑みだ。

 見知らぬ不可思議な世界で、自分が何者かもわからない不安。そこから救い出してくれたのは偶然出会った少女だった。言ってしまえば、たった三つの文字の並びだ。しかし今の私にとっては、この存在が薄らいだ冷たい身体にとっては、何よりも大切に思える。透き通った不確かな足で、確かな一歩を踏み出せるような気がした。

「思い出と一緒に記憶も蘇るのかな?」

 そう言うと、さくらさんは「何か他に思い出……。でも、あたし達まだ会ったばっかりだしなぁ……」と悩み始める。やがて、電球が点くように閃いたようだ。

「あ、そうだ。社会的に話題になったことを話したら、それで色々思い出せたりしない?」


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