第4話

 数日後、スクールに顔を出すと福島が伝言だとメモを手渡した。


【水曜日の学習ボランティアに来て下さい】と優しい文字で書かれていた。


 水曜に夏樹が顔を出すと、七海が子供たちを集めて学年に応じた課題プリントで勉強を教えていた。どの子も素直に楽しそうにしている。夏樹もプリントを渡された。見れば、弁天校の数学の入試問題だった。


「みんなあ、分からないところは遠慮なく質問してね。竹脇さんもです」


 七海が笑う。学習時間も進み休憩に入るとおやつの時間である。子供たちにおやつが配られた。


「割り当てだから遠慮は駄目よ。私も食べたいし」


 遠慮する夏樹に、七海はそう言って袋を置いていった。七海が袋からクッキーを取り出して頬張ると、子供たちが周りに集まり次々と話しかける。七海は一人一人の話に耳を傾け、目を丸くして驚いたり、頷いたり、一緒に笑ったりする。子供たちは完全に心を開いていた。それは当たり前なのだ。なぜなら少し前まで七海もこっちに座っていたから。子供たちにとって七海は、尊敬と憧れのお姉さん。この子たちからまた七海に続く子も出てくるはずだ。福島がそうであったようにそして自分も。夏樹は七海を見つめてその思いをしまい込んだ。

 

 子供たちが帰ると部屋には夏樹と七海の二人だけになった。七海がプリントを一枚取り上げる。


「どう、もう一問」

「お願いします」


 夏樹は当然とばかり頭を下げた。問題はかなり難問で手が止まると、七海が側に来て塾の講師より上手に解説をした。頬が触れ合うほど近い距離に鼓動が早くなる。


「勘違いしないように言っとくね」


 七海の言葉に心が読まれたのかとドキッとした。


「前に悩んでたでしょ。学校行くきっかけや目的なんて大した意味を持たなくていいのよ。でもね、勉強は違うよ。勉強はやらされているんじゃない。自分が知りたいことを知るためにするの。この世界に自分がいることの証なの。知りたいと思うこと。それが何より大切なこと」


 七海の言葉が夏樹の心に染み込んでいく。あのときの七海の目はそれが言いたかったのだ。夏樹はもう思いが抑えられなくなった。


「秋川さん、今は聞き流して下さい。弁天校は小さな時からの憧れでした。でも今は秋川さんと同じ学校に行きたいと思っています。秋川さんからまだ色々教えて欲しいことがあります。だから、その……合格したとき、秋川さんが僕と話をしても良いというのなら握手をしてもらえますか。あとカフェにも付き合ってもらえたら」


 夏樹の言葉に七海は首を傾げた。


「竹脇さん、それって合格しないと駄目なことなのですか?」

「駄目です。初めて会ったとき、僕は秋川さんに心惹かれました。ここに来たのも正直、秋川さんがいたからです。でも、ここで教えてもらったことは僕にとってはどれも大切なことでした。もっと秋川さんに教わりたいことが沢山あります。もっと知りたいことがあるんです。だけどそれは秋川さんと同じ位置にいて初めて成立するんです。バカみたいな事を言ってるのは分かります。でも、僕にとっては必要十分な条件なのです。だから、もし、僕が秋川さんの側にいてもいいと思ってくれたのなら握手をして欲しいのです。合格したらその返事を聞きたいのです。これが僕が弁天校に行く目的です」


 夏樹は思いのうちを言葉にならないまま打ち明けた。七海は少しのあいだ夏樹を見つめていた。


「まいったなあ。じゃあ、この問題を証明してくれたらいいかな」


 七海はククっと笑って問題を出した。


『秋川七海が握手をしたならば、竹脇夏樹は合格している。これは真か偽か』


 夏樹の頭は一瞬で真っ白になった。七海は夏樹を優しく見つめていた。


 翌日、夏樹は塾をやめて参考書を中心に勉強を始めた。スクールにも顔を出して手伝いをしながら、分からないところを遠慮なく聞いた。七海がいないときは福島や他の部員が先生になってくれた。塾に行くよりも有意義だった。


 

 受験の日。


 久しぶりに冬真と顔を合わせた。


「塾をやめて諦めたと思ったら記念受験か」


 相変わらずの人を見下す目に、夏樹は不思議そうな顔をした。


「なあ、お前は何の為にここに入るのだ」


 夏樹の言葉に冬真は言葉が詰まり、目を泳がせていた。


「お前はどうなんだ」


 ようやく返ってきた言葉に、夏樹は先を見通した目で冬真を刺して答えた。


「決まっているさ。握手をするためだよ」


 席に着く。確かな自信はある。だが、周りの強者たちが放つ雰囲気は、かなりのプレッシャーを含んでいた。気持ちを落ち着けようと参考書を手したとたんにカバーがスルリと落ちてしまった。そのとき、カバーの裏に付箋がテープで貼られているのに気がついた。その付箋に七海の文字があった。


【待っています】


(これは、いつ貼られた?)


 夏樹の頭に浮かんだ答えは一つ。


(考えなくても分かる。もう、あの日しかないのだから)


 試験開始の合図が静かに教室に響いた。



 入学式の日、制服を身につけた夏樹は講堂に座っていた。あの日から冬真の顔を見ることはなかった。塾仲間の噂では、面接で心証を悪くしたのが落ちた原因とか。


 式の後は、部室に行き七海に挨拶をするつもりでいた。もちろんあの約束の返事を聞くために。


 式はとどこおりなく進んでいく。在校生代表挨拶。講堂に「在校生代表 秋川七海」と響きわたる。七海が壇上に立つと、新入生の間から感嘆のため息が漏れた。美しい立ち居振る舞いと二年連続ミス弁天校の魅力は見る生徒を引きつけた。夏樹には、挨拶状を読み上げる七海の姿はどことなく遠い存在のように見えた。挨拶が終わり、挨拶状の封を戻した七海が一息つくと、マイクのスイッチを入れたまま、新入生を見つめ声を発した。


「それでは、新入生代表 竹脇夏樹」


 シーンと静まりかえっていた講堂が一瞬ざわつく。当然だ。進行にない七海の単独行動。夏樹はこのとき何も理解できていなかった。先生から肩を叩かれ壇上に行くように促され、はじめて自分が呼ばれたのだと分かった。壇上まではどこをどう行ったのか、覚えていない。気がついたときには七海と向かい合って立っていた。七海はまっすぐに夏樹を見つめた。黒く美しい瞳に夏樹は全てを支配されていた。夏樹に向かい凛とした声が放たれた。


「私たち在校生は、新入生を歓迎します。伝統そして格式と誇り高き弁天校にようこそ!」


 七海が、ゆっくりと右手を夏樹に差し出した。そして初めて会ったときのあの笑顔を見せた。ようやく七海の意図が理解できた夏樹はゆっくりと震える手を差し出した。二人の手が交わったとき、講堂から割れんばかりの拍手がなった。その拍手のなか七海は夏樹の耳元で囁いた。


「これで証明終了! 今度は竹脇さんから誘ってください」


 七海は一礼して壇上を降りて行った。この握手の意味を知っているのは、夏樹と七海、二人だけ。ただ、夏樹には福島の「秋川部長は慎重だから」が霞んで聞こえてきた。

 


 春の香りがまだ残る夕方。学習ボランティアにパーカーを着た夏樹が立っている。


「まずは学校の課題から片づけようか。分からなかったら、聞いて。何でも答えるよ」


 夏樹が元気に呼びかける。子供たちは顔を見合わせて頷くと、一斉に手を挙げた。驚く夏樹は、元気な男の子を指名した。男の子はみんなと顔を見合わせると、笑顔で質問する。


「七海さんと夏樹さんはラブラブなんですか」


 突然の質問に答えが見つからなかった。子供たちはそんな夏樹を見て「教えてー」と期待する目を向ける。夏樹は頭を抱えた。ちょうどそのとき、新入部員との作業を終えた七海が顔を出した。男の子が質問に答えてくれないと不満げにしていると、七海はどうしたのかと聞いた。春花が同じ質問をすると、七海は子供たちに問いかけた。


「みんなにはどう見える?」

「ラブラブ~!」


 一斉に返る答えに七海は笑った。


「なら、それが正解です」


 七海の答えに子供達は安堵して笑った。ただ、夏樹だけは真剣に考え込んでいた。


(秋川さんの答えの真偽を証明するのは難しい。もっと勉強がしたい。もっと秋川さんのことを知りたい)


 アフタースクールからは子供達の賑やかな声が溢れていた。


  (了)

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パン×参考書=恋心 水野 文 @ein4611

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